巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

日本の精神的雑居文化および「最新舶来品」としてのジェンダー論


「すくなくも日本の、また日本人の精神生活における思想の『継起』のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え『忘却』されるので、それは時あって突如として『思い出』として噴出することになる。」丸山眞男著『日本の思想』より

 

f:id:Kinuko:20201215220440j:plain

SNSが発達した現代、「CM」と「炎上」は切っても切れない関係となった。とりわけジェンダーに対する無理解に端を発する炎上案件は数知れない。最近も日本赤十字社のポスターが炎上したばかりだ。一方で、新しい人間や家族のかたちを描いて共感を抱かれた広告もいくつか存在する。両者をわかつものは何だったのだろうか? 東大で人気講義を開く社会学者が「CM」を切り口に語る、目から鱗のジェンダー論。(アマゾン広告欄より)

 

「新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。」という政治学者丸山眞男氏の分析は、昨今のジェンダー論の分野においてもある程度において適用され得るのではないかと思います。彼は続けて次のように言います。

 

「ほんらい、同じ精神的『伝統』の二面をなすところの、新たなもののすばやい勝利と、過去のズルズルな潜入・埋積とは、たんに右のようなかたちとして現われるだけではない。ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提からきりはなされて部品としてドシドシ取入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい私達の旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり、ヨーロッパでは強靱な伝統にたいする必死の抵抗の表現にすぎないものがここではむしろ『常識』的な発想と合致したり、あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはまりこむといった事態がしばしばおこる。」(『日本の思想』)

 

「私達の思考や発想の様式をいろいろな要素に分解し、それぞれの系譜を遡るならば、仏教的なもの、儒教的なもの、シャーマニズム的なもの、西欧的なもの──要するに私達の歴史にその足跡を印したあらゆる思想の断片に行き当るであろう。問題はそれらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないところにある。そうした基本的な在り方の点では、いわゆる『伝統』思想も明治以後のヨーロッパ思想も、本質的なちがいは見出されない。近代日本が維新前までの思想的遺産をすてて『欧化』したことが繰り返し慨嘆される(そういう慨嘆もまた明治以後今日までのステロタイプ化している)けれども、もし何百年の背景をもつ『伝統』思想が本当に遺産として伝統化していたならば、そのようにたわいもなく『欧化』の怒濤に呑みこまれることがどうして起りえたであろう。」(同著)

 

「ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提からきりはなされて部品としてドシドシ取入れられ」、「それらがみな雑然と同居」しているがゆえに「相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないという丸山氏の指摘は、ジェンダー論を巡る日本進歩派・伝統派陣営双方に反省的考察を促す警告ではないかと思います。

 

思想や信仰が、個人や一民族の中で内面化し、彼の精神的土壌に血肉化してゆく過程にあって、過去との徹底的な向き合いおよび掘り下げはなくてはならない要素だと思います。「最新の舶来品」が「舶来品」であるという理由からだけで無批判に受容されてはならず、それらをいいかげんに雑居させてもならず、そうかといって逆に、単なる「舶来品」アレルギーや根拠なき反発心/毛嫌いによってそれらを無条件に拒絶・却下することも、賢明な問題対処の仕方ではないと思います。

 

思想間の対決や相剋のプロセスを経ることなく、新しいものや、異質なものが「なんとなく」入り込んで来、「なんとなく」雑居を始めるという、こういった日本特有の精神的雑居性という風土が、明治期のキリスト教および大正末期からのマルクス主義双方にディレンマをもたらしたということを丸山は次のように述べています。


「キリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてはある共通した精神的役割をになう運命をもったのである。したがって、両者ともひとしく、もし右のような要請をこの風土と妥協させるならば、すくなくとも精神革命の意味を喪失し、逆にそれを執拗に迫るならば、まさに右のような雑居的寛容の『伝統』のゆえのはげしい不寛容にとりまかれるというディレンマを免れないのである。」


ジェンダー論を巡る昨今の議論においても、正統的キリスト教に根差した創造の秩序論およびそこから導き出される男女観、人間観、家庭観、社会観、倫理観が、日本特有の雑居的寛容の「伝統」ゆえのはげしい「不寛容」にとりまかれるという現実を私たちは目の当たりにしているのではないかと思います。日本人キリスト者として私たちはこれらをどう乗り越え、どのように前に進んでゆくことができるのでしょうか。内外においてはげしい「不寛容」にとりまかれ苦しみながら、私たちは自分たちの中に存在する「精神的雑居性」が、御霊のとりなしにより再創造され、あるいは激しく揺さぶられ対処され、そうしながら次第に、表層的ではない深い次元においてキリストの十字架の死と復活が自らの内に彫り込まれ、血肉化されてゆくことを願いたく思います。そして最新舶来品としてのジェンダー論に対する応答が、信仰者としての私たちの生き方・葛藤・成長の過程そのものを通しこの世に証されてゆくことを切に祈り求めます。

 

ー終わりー