ある時、敬虔な婦人が「Aさんは結局、教会に来られませんでしたね。」と言い、それに続けて、人が神を求めることの大切さを語られたことがありました。
神を求めることの大切さという点で私はご婦人に全く同意したものの、それが、教会に足を運ばなかったAさんのあり方となにかしら関連づけられ語られたことに少々戸惑いを覚えました。
日曜日の朝、自分の教会に通うことのできるクリスチャンはとても恵まれていると思います。その一方、さまざまな事情で現在教会に通うことのできないクリスチャンや求道者の方々も大勢おられます。
それでは日曜の朝、家にいるクリスチャンには神を求める真摯なる求道心が欠如しているのでしょうか。私はこれまでの人生の中で何度も、教会に行けない、教会を見い出すことのできない引きこもりの時期を過ごしてきました。
実際、そういった時期、日曜の朝はもっとも悲壮感を催させる陰鬱な時でした。これほど自分が霊的ホームレスであり、放浪者であることを切実に感じる時はありませんでした。神の憐れみにより、私は今、日曜の朝起きて教会に向かうことのできる恵みに授かっていますが、そうすることのできなかった数多くの暗い日曜日のことを忘れません。そして現在、そのような苦境に置かれている同胞たちのことも忘れません。
教会に行くことのできなかった日々も私の魂は神の聖所を仰ぎ、公同礼拝を祈り求めていました。神を求めていたのです。それと同様、私は私の同胞たちが今それぞれ置かれている環境の中で精一杯神を求めていることを霊において知っています。
私たちがどのような状況下にあろうとも、どうか愛なる主イエス・キリストが私たちのこころの芯奥に触れ、神を求める魂一人ひとりを安らかなる港へと導き入れてくださいますように。アーメン。