巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖母マリアに祈ることは正しい、それとも誤り?【友人とのディスカッション】

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目次

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「マリアに祈ることは間違っている。」——敬虔なプロテスタント信仰者の方からの警告

 

数日前に伝統教会への改宗を考えている友人から連絡がありました。それによると、敬虔なプロテスタント信者である彼女のお母様が「御霊の内なる照らしを受け」、娘さんの元を訪れ、愛をもって次のような厳かな警告をされたそうです。

 

それによると、お母様は明瞭な形でカトリシズムが誤っており、マリアに向かって祈ることは誤謬且つ悪魔的であり、聖体礼拝(eucharistic adoration)は間違っていることを確信された上で、現在、自分の娘が霊的に危険な所にいることを悟った、ということでした。

 

その警告を受けた私の友人は、①お母様の霊的洞察力の明瞭さを直観したと同時に、②自分が思っていた事とはまるきり正反対のことが語られ、混乱と懐疑の沼に陥ったそうです。

 

「・・それで神およびイエス・キリストへの愛が増し加わった」という理由づけだけでは不十分

 

:「もしも聖母マリアに祈ることが間違っており、且つ悪魔的なのなら、その行為は主イエス・キリストに対する私たちのデボーションや愛を損わせるものじゃないかしら。でも実際はその反対で私たちの主イエスへの愛は一層強まったし、聖性への願いが起された。そうじゃない?」

 

:「うん。確かにそうよ。でもね、例えば昔、リベラルで異端的見解をもっていたけど人格的にはすばらしい男性とお付き合いしていたその時期、神に対する愛や聖潔への情熱は彼とのお付き合いの中でむしろ強まったの。だから、増し加わる神への愛という徴は、なにかが正しいか間違っているかの決定的な鍵にはならないって思うの。」

 

:「まあ、それはそうだよね。だって、その理由づけが至高のものとしてまかり通るなら、誰も彼も自分の信じたい教義内容や実践を挙げた上で、『それにより私の中でイエス様に対する愛と献身が深まりました。』って結論づけちゃえばそれでいいってことになるもんね。例えば・・

『私はエホバの証人の教義を信じました。それによりカトリック時代に比べ、私の中で格段に神様に対する愛と献身が深まりました。』

『私は女性司祭になるという召命を受け‟叙階”を受けました。それにより、私の中で格段に神様に対する愛と献身が深まりました。』

『私はワンネス・ペンテコステ派に入信し、三位一体の教理という誤謬から救われました。それにより、私の中で格段に神様に対する愛と献身が深まりました。』

『私は全能神教会 / 統一協会 / 新天地教会に入信しました。それにより、私の中で格段に神様に対する愛と献身が深まりました。』等々。

 だから、聖母マリア様に対して祈る行為が神の目に正しいのか間違っているのかは、それ以外の要素——つまりスタンダードな弁証(apologetics)——を抜きには解決不能であるように思う。」

 

:「うん。マリア様に対して祈ることが悪魔的行為なのかそれとも神より来し神聖なる行為なのかを判断するに当たってのなにか決定的鍵のようなものがあればって今、そればかり願ってるの。」

 

改革派神学者R・C・スプロール師の批判と矛盾

 

www.youtube.com

 

20世紀福音主義者の中でももっとも著名な教師の一人である故R・C・スプロール師はカトリックからプロテスタントに改宗した方から次のような質問を受けました。

 

「私の家族は今もローマ・カトリックであり、今もマリアや聖人たちに向かって祈りを捧げています。家族は一応、救いの御業をキリストに帰し、主に信頼を置いていると言ってはいますが、マリアや聖人たちに祈るという行為により、彼らは御国から締め出されてしまっているのでしょうか?」

 

それに対し、スプロール師は次のように回答しています。

 

「そうかもしれません。マリアや聖人に向かって祈るという行為は醜悪なる偶像礼拝行為です。これは非常に深刻です。・・そしてこの点においてローマ教会には、(中絶を拒否し、正統的三位一体説を是認するといういくつかの善い業があったにせよ)結局は全面的に福音を否定してしまっています。彼らは福音をアナテマ化しているのです。現にトリエント公会議の決議内容は取り消されておらず、近年、『カテキズム』の中で再是認されました。それゆえ私見ではローマ・カトリックは合法的教会とは言えません。」

 

ここから読み取れるのは、スプロール師は、マリアや聖人に向かって祈る行為は、「醜悪なる偶像礼拝行為」であり、「福音のアナテマ化」であり、「御国から締め出される」可能性をも含めた非常に深刻な事態だと考えているということだと思います。

 

(*スプロール師の言及している「福音」という語には、①古典的プロテスタンティズムにおける信仰義認説(ソラ・フィデ)、②「義認」と「聖化」は別とする改革派見解が包含されていると思います。)

 

しかしながらここで一つの大きな問題が浮上してきます。それは何かといいますと、スプロール師自身、福音主義界でもっとも有名なトマス主義者の一人だったということです。実に、彼の古典的弁証学はトマス・アクィナス神学を礎石に形成されており、友人であった故フランシス・シェーファーのトマス批判に対しても、スプロール師は断固として反対の声を上げトマスを擁護していました。*1

 

しかるにトマス・アクィナスとは誰でしょう?そうです、彼はカトリック教会の聖人であり教会博士の一人です。

 

...

出典

 

聖母マリアに捧げる祈り(by 聖トマス・アクィナス)

 

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いとも祝され甘美なる乙女マリア、神の母。汝はあらゆる優しさに満ち、至高なる王の娘、御使いたちの貴婦人、忠実なる信者すべてにとっての母です。

 

今日、そして生涯すべての日にわたり、私はわが肉体、魂、行ない、考え、決定、願い、言葉、行為、生死いっさいを慈悲深き汝のこころにお委ねします。こうして汝に助けられつつ、汝の愛する御子主イエス・キリストのみこころに従い、すべてが善きものへと秩序づけられていくためです。

 

この世、肉、悪魔からの誘惑に断固として打ち勝つべく、汝の愛する御子より、わがために恩寵を請い願いたまえ。

 

もっとも聖きわが貴婦人よ、どうかわが心が真の従順と謙遜さを得ることができるよう汝に請います。そうすれば私は自分自身を真に、みじめで弱く且つ無力、そして恩寵も創造主の助けもなく、汝の聖い祈りもない一介の罪びととして見ることができるようになるでしょう。

 

いとも甘美なる貴婦人。私のためにまことの愛を取得してください。心の奥底からいとも聖なる汝の御子主イエス・キリストを愛し、彼の次に、他の誰にも勝り汝を愛することができるようになるためです。天の女王、私がいつも心の中でいとも甘美なる汝の御子を畏れかしこみ愛することができるよう祈りを聞き入れてください。

 

また私は祈ります。おお比類なき母、天の門、罪びとたちの調停者よ、生涯の終わりに、どうか汝の偉大なる敬虔と憐れみにより私をご加護くださり、祝福され栄光に満ちた御子のご受難を通し、そして汝自身の執り成しを通し、わが全ての罪の赦しを請い求めます。汝の愛、そして御子の愛の中で召天するその時、どうか私を救いと至福の道にお導きください。

聖トマス・アクィナス*2

 

「恣意性」の問題

 

そうしますと、スプロール師は、聖母マリアに祈りを捧げるという、「醜悪なる偶像礼拝行為」、「福音のアナテマ化」、「御国から締め出される可能性をも含めた非常に深刻な行為」をしているローマ・カトリック教徒(=トマス・アクィナス)に、自身の弁証学の礎石を置いているという一大矛盾を犯してしまっていると思います。

 

しかしながらスプロール師に限らず、プロテスタント界で福音伝道やキリスト教弁証の働きに携わった経験のある方は多少なりとも皆、この種の矛盾、もしくは、原則に則らない「恣意性」の問題にぶつかったことがあるのではないかと思います。下に一例を挙げます。

 

アルバート・モーラー師(南部バプテスト)VS オルソン・スコット・カード師(モルモン教徒)

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

ワンネス・ペンテコステ派中東男性 VS 私

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

今後の課題

 

とは言っても、私自身まだ未解決の課題をいくつか抱えています。

 

  • 「仲介者マリア(Mediatrix)」というあり方について

 

ローマ・カトリック教会、東方正教会において、一般的に仲介者の役目は聖母マリアに帰するものであるとされています*3

 

「それでは1テモテ2章5節の『神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです』という御言葉はどうなるのですか?仲介者マリアという考えと真っ向から対立しているではありませんか?」という疑問が湧いてきます。*4

 

それに対し、このサイトでは次のような回答がされてありました。

 

「言葉としての『仲介者 (Mediatrix)』は、第2バチカン公会議の教会憲章で教義上制定された。しかしながら、キリストが唯一の仲介者の権威を持つことを否定するものではない *5。『仲介者(Mediatrix)』と言う称号及び聖母神学を使用する場合、聖母は御子であるイエスとの特別な関係において聖人の仲介よりも高度なレベルの仲介を持つ。*6

 

「仲介者マリア」というあり方が、キリストが唯一の仲介者の権威を持つことを否定するものではないという教皇パウロ六世『Lumen gentium』(1964)の言明をきいて少し安堵しましたが*7、それでも私にとってはまだまだなじみのない概念です。

 

ただ現時点で分かっているのは、マリア論というのはカトリック/正教神学全体の中で有機的に捉えられる時はじめて理解がゆくのであって、全体を無視した単独的分析によっては真理はいつまで経っても開示されないだろうということです。そのことを肝に銘じた上で今後さらなる探求を進めていきたいと思っています。

 

  • 教会論を軸にしたマリア論弁証と、今日の教会危機

 

erickybarra.org

 

上記のように、カトリック弁証家エリック・イバラ師はマリア論弁証に関する洞察力に満ちた論考を書いています。

 

教会論を軸にしたマリア論はなんといってもカトリック弁証の最大の強みであり魅力があります。しかしながらそれは最大の強みであるからこそ、「教会」の動揺により、最大の弱みになる可能性をも包含していると思います。

 

神が存在し、神の摂理が教会史に働いているのなら、原則的にいって神が教会を通し、カノンや正統教理を聖定・保持してこられたと考えるのが一番筋が通っていると思います。しかしアマゾン・シノドス等の不穏極まりない動きを目の当たりにする時、人は次のように問わざるを得ないのではないかと思います。

 

「果たして神はほんとうに教会を通し正統教理を保持してこられたのだろうか?むしろ今私たちが目撃しているのは、教会を通し背教教理が普及されているという恐ろしい現実ではないだろうか。もしそうだとすると、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンのいう『教義発達』というコンセプトは一体どういう意味なのだろう。『教義発達』の名の元に、異教儀礼が正当化されるようになるのだとしたら、私たちはその他の諸教理の発達(マリア論、三位一体論、正典論等)をどこまで正統的なものとして信じてよいのだろう。」

 

この部分に関してもさらに考察を深めてゆけたらと願っています。

 

ー終わりー

*1:

www.ligonier.orgwww.ligonier.org

*2:A Year with the Saints: Daily Meditations with the Holy Ones of God.(拙訳)

*3:McGurkin, John Anthony. The Encyclopedia of Eastern Orthodox Christianity, 2011 ISBN 1405185392 p. 597

*4:宗教改革がうながしたものに聖者の呼称の基本的見直しがある。スイスの宗教改革者ウルリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)が1523年にチューリッヒ市に突きつけた『67カ条のテーゼ』第19条と20条は、「キリストが神と我々の間の唯一の仲介者であり」、したがって「我々は現世以降ではキリストの他には仲介者を必要としない」と宣言している。この根拠はハイデルベルグ教義問答書の言葉「キリストは我らの仲介者」に見られる。

一方、ルーテルの盟友フィリップ・メランヒトン(1497-1560)が書いた1530年のアウグスブルグ信条の第21条「聖者のカルト」と、新約の言葉「神と人との間の仲介者も、人であるイエス・キリストただおひとりなのです」を引用し、「キリストは神の前の唯一の高僧、唱道者、執り成し人であり、キリストのみが我らの祈りを聞くことを約束されている」としてカトリック側との論争に備えた。メランヒトンの著書『アウグスブルグ信条弁明』は、「天の聖者が教会一般のために祈るのは、彼らが地上にあった時に教会一般のために祈ったと同じこと」と述べてはいるが、特定の目的で聖者を呼び出すことは認めていない。従って、聖者の中の最高位の聖母マリアでさえキリストの「唯一なる仲介者」という職分を侵すことはできない。

なぜなら、プロテスタント側は「唯一キリストあるのみ」のスローガンを振りかざし、後世英国の神学者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-90)が「創造された仲介」と名づけた体系への攻撃を加えた。「創造された仲介」とは「唯一なる天与の仲介者キリストの統治の下に仲介の力を備えた連鎖——秘蹟(サクラメント)、教会、聖者、マリア——があり、これは造られたものではあるが、キリストの天与の仲介の力を信徒へ伝えることができる」とする考え方である。

ヤロスラフ・ペリカン著『聖母マリア』11.神の言葉への信仰の模範、p. 203-4.

*5:Pope Paul VI, Lumen gentium, §62, November 21, 1964

*6:Mark Miravalle, 1993, Introduction to Mary, Queenship Publishing , p 109–111, 207–208 // L'Osservatore Romano, Weekly Edition in English, 25 June 1997, p.10

*7:taylormarshall.com

www.youtube.com