巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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東西の教権の過度集中化についてーーアダム・J・ドヴィル教授へのインタビュー

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アダム・J・ドヴィル(Adam J. DeVille)。聖フランチェスコ大学神学部准教授。主著:『Orthodoxy and the Roman Papacy: Ut Unum Sint and the Prospects of East-West Unity』(2016年)、『Everything Hidden Shall Be Revealed: Ridding the Church of Abuses of Sex and Power*1』(2019年)等。

 

目次

 

Orthodoxy and the Roman Papacy with Guest Dr. Adam J. DeVille, 2019(抄訳)

 

西方における教皇権の過度集中化について

 

エリック・イバラ師(ローマ・カトリック):西洋における教皇権の過度集中化(overcentralization)の起源についてあなたのご見解をお聞かせください。

 

アダム・J・ドヴィル教授(ビザンティン・カトリック):これは長いプロセスを経て形成されてきたと思います。

 

第一バチカン公会議は、何もないところから突然降って湧いたように出現したわけではありませんでした。この問いを考える上で私たちは第二千年紀の初頭まで溯る必要があると思います。多くの事柄は、11世紀の終盤、教皇グレゴリウス7世時代(在位:1073-85)に、主要な動因を持っています。

 

教皇グレゴリウス7世

 

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ミサを捧げる教皇グレゴリウス7世(出典

 

グレゴリウス7世は教皇権の権威拡大を望んでいました。なぜなら、当時、彼は皇帝ヘンリー4世と争っていたからです。それに加え、当時、西方教会は多くの腐敗(聖職売買等)にまみれていました。

 

それゆえ、グレゴリウス7世は、これらの諸問題を解決するためには教皇としての自分が超国家的権威を持った上で、他の司教たちに指図するだけでなく、場合によっては皇帝たちを退位させることのできる権威を持つことが肝要なのではないか(例えば、ヘンリー4世を退位させる)と考えたと思われます。

 

ですから教皇権の過度集中化は、幾つかの場合において、西洋世界の政治的諸発展に対する応答であったということができるかもしれません。11世紀においてはそれは顕著でした。18-19世紀においても顕著でした。

 

実に、フランス革命を理解することなくして、第一バチカン公会議を解することは到底不可能だと思います。第一バチカン公会議はフランス革命、およびフランス革命によって解き放たれたあらゆるものに対する応答に他なりませんでした。

 

第一バチカン公会議とフランス革命

 

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1794年7月17日、処刑される14人のカルメル会修道女たち。(出典

 

インタビュアー:フランス革命に対する応答、というその部分をもう少し詳しく説明してくださいますか。

 

アダム・J・ドヴィル教授:フランスで起こった革命によりもたらされた損害をみてください。これは相当に甚大なものでした。そして革命の嵐を通り抜けてきた当時の教会はほぼ荒廃状態にあり、その状態はナポレオン治世下であっても続いていたと考えられます。

 

ナポレオン1世は19世紀初頭に登場し、基本的に言って、教会のフランス司教座をもろともに破壊しようと企てたわけです。こうして司教たちは消え、彼らを劇的に減少させるために彼は教区境界を再構成し、その後、彼に諂従する意思のある司教たちを選出し直しました。そしてナポレオンはこれらを教皇に提示し、その際、「一連の事を〔皇帝である〕私がやるか、それとも〔教皇である〕あなたがやるか」という具合に言ったわけです。

 

そのため教皇ピウス7世は、古のグレゴリウス7世のポリシーを念頭に置きつつ、「皇帝が意志を執行するよりは教皇がそれを執行する方がよい」と考えました。

 

こうしてフランス革命を契機に、「教皇というのは本当に特別な権威を持つことができるのだ」という考えが勃興してきたと思います。そこら辺の事情は理解できますし、当時の政治状況を考えると、教皇グレゴリウス7世に対してと同様、教皇ピウス7世にも同情します。

 

しかしながら、ここでいわゆる「意図しない諸結果の法則(the law of unintended consequences)」というものが出てきます。教皇制の問題が持ち越されることになり、19世紀初頭のフランスにおけるあの緊急状況が突如として、「もしやこれは、公式化され、標準化され、継続的な教皇権の特性として制度化され得るのではないだろうか」と第一バチカン公会議の関係者たちに訴え始めたのです。

 

しかし本来ならそうであるべきではなかったと思います。緊急事態は質の悪い法制を生み、質の悪い神学を生み出し得ます。そして残念ながら、こういった背景が、第一バチカン公会議召集の文脈にあります。

 

第一バチカン公会議をどのように解釈するか

 

クレッグ・トゥリギュラ師(東方正教):当時の歴史的必然性の中でそういった顕著なる現象が表出したということを鑑みますと、第一バチカン公会議の解釈の仕方に変更がもたらされる必要がある、という風にはならないでしょうか。先ほど、あなたがおっしゃったように、例えば、それは「西方教会における地方公会議であった」というような位置づけです。

 

アダム・J・ドヴィル教授:この部分は今後、東西の話し合いの中で真剣に討議され、共に取り組んでいく必要があると思います。つまり、この公会議は、脅威にさらされている特定教義を取り扱うべく召集されたものではなかったということです。

 

第一バチカン公会議において悔やまれるのは、その点に関する法則が損なわれたことにあるでしょう。ヘンリー・ニューマン枢機卿も明確に指摘しています。「それがまず否定されない限り、何事も定義されない。(Nothing is defined until it's denied.)」と。

 

19世紀には〔正統教義を攻撃するような〕主要な否定諸見解はありませんでした。その意味で教皇ピウス9世がやろうとしていたことはかなり大胆な企てだったと言えるかもしれません。1854年に彼が為したことにその証拠があります。

 

教皇ピウス9世と「無原罪懐胎説」ーーその時代背景

 

この年、ピウス9世は「無原罪懐胎説(the dogma of immaculate conception)*2*3」を宣言しました。この教説に関しては、ローマ・カトリック弁証家たちでさえも「この教説が強いて宣言される必要性はなかった」ということを認めざるを得ない状況にあります。というのも、19世紀当時、マリア教説に対する切迫した否定言明は存在していなかったからです。

 

これはマリアやイエスに関する事柄ではなく、あくまでも教皇に関するものです。当時、教皇はいろいろな意味で不吉な前兆をみていました。彼は教皇領が丸飲みされ、やがて消滅するであろうことを察知していました。ですから世界の舞台における教皇の新役割を見い出す必要がありました。

 

実に、これより15年もしない内に彼は西ヨーロッパにおける(領土、軍隊、海軍附属の)モナーキーではなくなり、単にイタリア半島の中央部に居住する人という位置づけになってしまうのです。ですからどうしても新しい役割を打ち出す必要があったわけです。

 

そこで打ち出されたのがチャドウィックの言う、いわゆる「諸国家の教師(Teacher of the nations)」という役割でした。「無原罪懐胎説」の宣言も、こういった文脈の中から出てきましたし、ここから第一バチカン公会議に対する理解も生まれてくると思います。

 

ジョン・ヘンリー・ニューマン

 

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ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801–1890)

 

インタビュアー:ヘンリー・ニューマン枢機卿のことをおっしゃいましたが、ニューマンはあなたの信仰行程に何か影響を及ぼしましたか?

 

アダム・J・ドヴィル教授:ニューマンは傑出した人物だと思います。アングリカン主義を出てカトリック教会に入った人の中で、ニューマンの著作から感化を受けていない人は皆無なんじゃないかって思います。(一同笑)。

 

1996年の夏、私はニューマンの『アポロギア』を手に取りました。そして一週間かそこら、自分のデスクの上にその本を置いていました。今でもはっきり覚えているのですが、私は自分にこう言い聞かせたのです。

 

「いいか、この本はお前が今読むには危険すぎる。いざ読むとなったら本当に覚悟しなくてはならない」と。というのもこの本の帰結は知っていましたし、実際、彼の帰結は信仰行程における自分の帰結ともなり、私はついにカトリック教会に入ることになったのです。

 

私は教派の別を問わず学生たちにもニューマンの著作を読むよう勧めています。カトリックになる、ならないに拘らず、あるいは彼の主張に同意する、しないに拘らず、ニューマンの作品に触れることでなにか得るものがあるだろうと学生たちに言っています。

 

何と言っても19世紀カトリシズムにおいてヘンリー・ニューマンは最も卓越した人物でしょう。でもそういう要素を抜きにしても、一人の作家としても、彼の作品は本当に美しいと思います。彼の散文は優美であり、英文学としてのその美を味わうだけでも多いに得るところがあるでしょう。

 

東方における教権の過度集中化について

 

エリック・イバラ師:教皇権の過度集中化についてお話を伺いましたが、東方においてもこれまで、教権の過度集中化が起こったことはあるのでしょうか。

 

アダム・J・ドヴィル教授:大変興味深い質問です。最近出版した本の中でも取り扱っていますが、東方においても権力の過度集中化は、陥りやすい誘惑として存在してきました。

 

ある人々は、「今日のエキュメニカル総主教区の諸構造は非常に中央主権化したものである」と言っていますが、私も大方それに同意しています。

 

エキュメニカル総主教区はこの前、米国ギリシャ正教大司教区における大主教を任命しましたが、その際、地方教会からのinputはゼロでした。言ってみれば、まあ一種の‟教皇的動き(papal move)”のようなものかもしれませんね。

 

また、1945年ロシア正教会における法令もその良い例でしょう。スターリンにとって、大祖国戦争*におけるロシア正教会は有益な存在でした。そして教会による奉公の結果、スターリンは、過去強制閉鎖した教会のいくつかを再開し、教会を率いる総主教を選出することを許可しました。

 

但しそこには一つの条件があり、それは何かというと、教会のstatuesが書き改められることでした。そうすることにより、スターリンは個々の司教たちの寝返りや裏切りを恐れることなく、ただ単に、皆を従え秩序に従わせることのできる総主教に任せればいい、ということになります。

 

その結果、1945年時点におけるロシア正教会には、当時のローマ教皇制をも凌ぐほどの教権中央集権化が生じました。ですから、教権の中央集権化という現象は西方に限ったものではなく、歴史のさまざまな時期にさまざまな諸教会において東方においても出現してきた現象です。ちなみに今日のロシア正教会には改革がなされ、当時ほどには中央集権化されていませんが、それでも尚、かなり集権化はあると思います。

 

ー終わりー

*1: 

*2:無原罪懐胎の教理については、『カトリック教会のカテキズム』491、492をご参照ください。

『マリアが「ご自分の御やどりの最初の瞬間から」飾られていた「まったく特別な聖性の輝き」は、全面的にキリストに由来するものです。マリアは「子の功徳が考慮されて格別崇高なるしかたであがなわれ」たのです。御父は他のいかなる人間にもまして、マリアを「キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」 (エフェソ1,3)。 「天地創造の前に」神は、マリアを「愛して、ご自分の前で」聖なる者、汚れない者にしようと、「キリストにおいてお選びになりました」 (エフェソ1,4)。』(カトリック教会のカテキズム、492番)

『次の教義を宣言し、公表し、定義する。人類の救い主キリスト・イエズスの功績を考慮して、処女マリアは全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた。この教義は神から啓示されたものであるので、これをすべての信者は固く信じなければならない。』 (大勅書「イネファビリス・デウス Ineffabilis Deus」 教皇ピオ9世)

*3:関連記事The Immaculate Conception and the Orthodox Church | Eclectic Orthodoxy// The Immaculate Conception of the Mother of God in Both East and West | Eclectic Orthodoxy