巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ヘシュカスム論争に対するジョン・メイエンドルフの理解(アンドリュー・ラウス、ダラム大学)

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聖グレゴリオス・パラマス(1296-1359)

 

目次

 

ヘシュカスム論争に対するジョン・メイエンドルフの理解(アンドリュー・ラウス、ダラム大学)

 

Andrew Louth, Modern Orthodox Thinkers: From the Philokalia to the Present, 2015(抄訳)

 

パラマスと彼の論敵たちの間の論争はこれまで、「西方志向の東方神学者たち/ラテン的思考の持ち主たち(latinophrones)」vs「真正なる正教の東方神学者たち」、ないしは、「ヒューマニスト」vs「修道士/神秘的神学者たち」の間の論争と捉えられてきました。

 

しかしジョン・メイエンドルフにとり、こういった論争観はきわめて不適切なものと映りました。彼にとっては論争はより複雑かつ、よりビザンティン的な様相を帯びたものでした。

 

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ジョン・メイエンドルフ(John Meyendorff 、1926-1992)

 

特に、メイエンドルフは、「バルラアムとパラマスの相違は、ディオニュシオス・アレオパギテースと呼ばれている神学者に関する両者の異なる解釈にその源を辿ることができる」と論じています。ディオニュシオス・アレオパギテースの著述群は、東方においても西方においても、後代のキリスト教思想に多大な影響を及ぼしました。*1

 

メイエンドルフは、バルラアムは、ディオニュシオスの否定神学に対し純粋に知的解釈を施し、その解釈は不可知論へとつながっていったと捉えました。一方のグレゴリオス・パラマスは、ディオニュシオスの否定神学をかなり違った風に解釈している、とメイエンドルフは言っています。

 

それによると、パラマスの解釈は不可知論につながるものではなく、むしろ、人間知性を超越した神に関する純粋知における「神との出合のための道」を備えるものでした。この知は、神との合一の中に見い出され、合一は受肉における人類と神との合一より流れ出る恩寵をとおし可能とされます。

 

知的プラトン主義、新プラトン主義

 

バルラアム vs パラマス論争に対するメイエンドルフ解釈のもう一つの側面に関してですが、彼は、バルラアムを、一種の知的プラトン主義ないしは新プラトン主義を表すものとして捉えています。

 

プラトン主義や新プラトン主義においては、神を知るに至るのは「知性」であり、知性を物質や身体から分離させることにより可能であるとされていますが、メイエンドルフによれば、それはパラマスの推奨している人間本性に対する全体論的理解と対立しています。

 

バルラアムにとっては、ヘシュカスト修道士たちが、神格における非創造の光(uncreated light)を見、それゆえ、肉眼で神ご自身を見たと言っているのは荒唐無稽な主張に過ぎませんでした。

 

それに対し、グレゴリオス・パラマスにとっては、ーー堕落し、バラバラになった人間本性を癒す神の恩寵に答える形でのーー修道士たちの「心の祈り」は、魂だけでなく身体をも含めた人間存在の全体を包括したものであり、それゆえ、肉眼で神を見るという考えは少しも荒唐無稽なものではありませんでした。

 

異なる禁欲主義理解

 

両者のコントラストの背後に、メイエンドルフは非常に異なる禁欲主義理解をみていました。

 

バルラアムの禁欲主義が、身体を征服し、それを厳しく抑制することで知性を身体およびその感情、愛着から引き離すことにあるとしたら、グレゴリオス・パラマスのそれは、身体の変容および人間の感情、愛着の再方向付けにありました。

 

『三部作』の終わりの方で、グレゴリオスは魂の愛着的部分を殺すものとしてのバルアラムのアパテイア観に反論し、「善きものを愛する者は、それを殺すこと(nekrosis)によってではなく、その機能を変容させること(metathesis)に努める。*2」と論じています。

 

メイエンドルフのパラマス解釈に対する諸批判

 

メイエンドルフのパラマス解釈に対しては批判もありました。著書出版から数年以内に、ジョン・ロマニデス神父の論文が二稿、ギリシャ正教神学レビューに掲載されました。*3

 

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ジョン・ロマニデス(John Savvas Romanides、1927-2001)

 

ロマニデスは多くの批判を出しましたが、その中の幾つかは非常に説得力のあるものです。特に、彼は、メイエンドルフがバルアラムのことを、プラトン主義者とか新プラトン主義唯名論者と提示していたことに反論しました。ーーそれは大いなる矛盾であると。

 

なぜなら、形相やイデア論に対する信奉なしに人がプラトン主義者ではあることはほぼあり得ず、そういった形相やイデアが、名(nomina)に過ぎず、リアリティーに何ら対応していないというのが他ならぬ唯名論者たちの主張だからです。

 

これは的を射た批判であるように思われますし、ロマニデスは実際、被造物のlogoiというバルアラムの概念について言及しており、それは唯名論とは両立不可能な思想であるとしています。パラマスがlogoiというこの概念を拒絶したのは何とも妙です。

 

というのもこの概念はパラマスが崇敬していた聖マクシモスの中心思想をなすものだからです。(但し、パラマスが反対していたのは、恩寵ではなくただ学知により知性がlogoiを知るに至ることが可能であるという考え方に対してであり、これに対しては聖マクシモスも拒絶していたことでしょう。)

 

最近、シモノペトラのマクシモス神父が、「仮にパラマスがlogoiの教説を斥けていなかったとしたら、彼は、アナロギア・エンティスの正教版を発展させていたかもしれない。そしてその正教版アナロギア・エンティスは、聖トマス・アクィナスのそれよりもより十全たるものであったかもしれない。一連の論争において彼はこの機を見逃してしまったのかもしれない」と論じています。*4

 

「メイエンドルフの唯名論理解は、(西洋では少なくともアベラール時代から議論されてきた)哲学的教義と、『二権力』教理として知られている神学的教義を混合した形の混乱したものである」と指摘することにより、私たちは、ロマニデスの批判をさらに推し進めることがあるいは可能であるかもしれません。

 

「二権力」教理は、神の絶対的な力(potentia absoluta*5) と秩序づけられた力(potentia ordinata*6)の区別を立てており、この教理はスコトゥスやオッカム等によって適用され、聖トマス・アクィナスの神学的展望を攻撃しました。

 

また、ビザンツ人たちが、(西洋におけるトマスの人気が衰退しつつあった14世紀半ばー15世紀にかけ)ビザンツ期を通し、聖トマスに対する関心および尊敬を保ち続けていたことをマークス・プレステッドが論じています。*7 

 

メイエンドルフがヘシュカスム論争における従来のアプローチから脱却しようとしていたことは歓迎すべきでしょう。多くの人にとり、彼のヘシュカスム論争観は説得力あるものに映っています。

 

にも拘らず、メイエンドルフは本章の初めに述べた一般的傾向ーーすなわち、〈トマス主義的スコラ哲学〉vs〈パラマス主義的神秘神学〉という対比に代表される〈東方〉vs〈西方〉という根本的区別という感覚を論争の中に読み取るという傾向ーーから逃れ得ていないように思われます。実際、この対比構図は、神学者の間にあっても、大衆レベルにあっても今尚頑強です。

 

メイエンドルフ自身は、ヘシュカスム論争を〈トマス主義〉と〈パラマス主義〉間の衝突として捉えることに同意してはいないものの、パラマスとアクィナスの対立という観点から〈正教神学〉と〈カトリック神学〉を対立させるやり方を奨励する要素が、彼の著書のある側面において見受けられます。

 

ー終わりー

 

【関連資料】グレゴリオス・パラマスの身体観―東方キリスト教的人間観の研究―(袴田 玲氏)

 

東京大学博士論文要旨(引用元

 

本研究は、14 世紀のビザンツ帝国に生きた東方キリスト教を代表する修道士、神学者にして後のテサロニケ大主教、グレゴリオス・パラマス(c.1296-1359、以下パラマスと表記)の思想における身体観(すなわち、人間の身体とイエス・キリストの身体に関する思索)を考察することにより、「東方キリスト教的」人間観を解明することを企図している。

 

本研究が対象とするのは、キリスト教の中でも、東ローマ帝国からビザンツ帝国を通じ、ギリシャやシリア、またロシアをはじめとするスラヴ諸国で今日まで豊かに息づく東方キリスト教(とりわけ東方正教会)におけるヘシュカスム (ἡσυχασμός)の伝統である。

 

ヘシュカスムとは、東方キリスト教の修道制において発展した祈りと観想の方法、およびその思想を意味する。修行者は孤独と静寂(ヘーシュキア;ἡσυχία)のなかで<イエスの祈り>と呼ばれる短い祈りを絶えず唱え、それを通じて魂を浄化し、神と一つになること(神化、テオーシス;θέωσις)をめざす。

 

その源流は原始キリスト教時代に砂漠で修行した師父たちにまで遡るが、ビザンツ帝国時代末期には、この祈りに座法や呼吸法といった身体技法を採り入れた実践がアトス山(現ギリシャ共和国北東部、ユネスコ世界遺産)で盛んになった。狭義には、当時このような修行を実践していた修道士のことをヘシュカストと呼ぶ。彼らは修行を極めたさきに神と一つになり、またその際に神を光として見る恩恵に浴すると主張した。

 

彼らの実践と主張のキリスト教的正統性をめぐり、帝国を二分する事態にまで発展したヘシュカスム論争(1337-51)において、ヘシュカストを擁護するために聖書と師父の東方キリスト教的伝統に根ざしてヘシュカスムを解釈し、思想的に支えたのがパラマスだったのである。

 

そもそも、キリスト教にあっては、神の受肉、イエス・キリストの身体における死と復活、聖体拝領など、身体的主題が強く表れる反面、身体は人間の欲望や罪と結び付けられ、否定的に捉えられることも多い。また、ヨーガや座禅のように、その実践の中で身体を積極的に活用する他の宗教と比較すると、キリスト教の実践における身体の活用は消極的で、むしろ意識を身体的活動から遠ざける方向の努力が奨励されることもある。そのような点からすると、ヘシュカスムはキリスト教において「異質」な事例である。

 

しかし、それゆえにこそ、この「異質」な実践や思想をそれまでのキリスト教の伝統に組み入れるべく論陣を張ったパラマスの思想においては、人間(およびイエス・キリスト)の身体そのもの、身体と魂の関係、霊的完成への道行きにおける身体の役割等々、身体やそれを通じた人間存在そのものについての根本的な反省が加えられ、それらについての東方キリスト教的理解が提示されている。

 

このような見解に基づき、本研究はパラマスの著作原典の精緻な読解をその中心に据えた。先行研究の問題点との関連で本研究の内容を示すならば、以下のようにまとめられる。

 

まず、これまでのパラマス研究では、ヘシュカスム論争の中で彼が提示した「神の本質(ウーシア;οὐσία) と働き(エネルゲイア;ἐνέργεια) の区別」に関する神学上の問題に議論が集中し、そもそも論争の発端となったヘシュカストの祈りの方法やその中での身体の在り方に関するパラマスの思索に十分な光が当てられて来なかった。

 

また、ヘシュカスムというより広い視野に立ったこれまでの研究においても、インドのヨーガやイスラームのスーフィズム、仏教の称名や座禅など他宗教における修行法との表面的類似を指摘するにとどまるものが多く、東方キリスト教修道制の成立から 14世紀に至るまで、その内部でヘシュカスムの祈りの方法が確立されていくさまを具に追った成立史研究こそあれ、ヘシュカストの祈りの方法がいかにして東方キリスト教的に解釈され、意味づけられ、根拠づけられていったのかという点は明確に示されてはこなかった。

 

そこで本研究は、パラマスの主著『聖なるヘシュカストのための弁護 *8』からヘシュカストの祈りの方法についてのパラマスの釈義を取り上げ、その基となる彼の身体観と併せて考察を加えた(本論第一部)。それにより、パラマスが新旧約聖書や東方キリスト教世界の先人たち(とくに偽ディオニュシオス・アレオパギテース)のテクストに依拠しながらヘシュカストの祈りの技法を思想的に支えていることを明らかにした。

 

その中で、霊的完成のためには知性(ヌース;νοῦς)を身体から引き離さねばならないと主張する論敵に対し、パラマスが身体はそれ自体として悪ではなく、魂の浄化を妨げるのはむしろ「身体の内に住まう悪しき想念」であるとして、神の創造した人間身体の根本的善性を擁護していること、また、霊的なものと物質的なもの、魂と身体といったものが区別はされても分離はされず、むしろ両者のあいだには或るつながりが存在し、そのつながりこそが魂の浄化に励む修行において身体技法を有効ならしめるものであると考えていることを示した。

 

ここで重要なのは、孤独と静寂を旨とするヘシュカストの修行にとっても、典礼、とりわけキリストの身体に与る秘跡である聖体拝領(エウカリスティア)への定期的な参与が不可欠であるとパラマスが考えている点である。これまでの研究の中で、ヘシュカストの修行形態は共同体を前提とする典礼(教会)生活とは相容れないものとされ、ヘシュカストには共同体の枠組みからはみ出る逸脱者ないし宗教的エリートというイメージが付きまとっていた。

 

しかし、本研究では、パラマスにおける聖体拝領の実践を、その著書『キリストによって定められた十戒、あるいは新約聖書の法 *9』や弟子であったフィロテオス・コッキノス (1379 年没)による『パラマスの生涯 *10』から読み解き、パラマスがアトスやその他の隠遁所で孤独な修行生活を送っていた時期にあっても、土日には修道院の共同体へ戻って聖体拝領に与っており、むしろ極端な隠遁生活によって典礼をないがしろにするヘシュカストを非難していたことを明らかにした(本論間奏部)。

 

ビザンツ帝国内の修道院における数々の『修道院規則(テュピコン)』から推し量るに、当時の修道士たちは奉神礼に参加しても聖体に与る頻度が低く、多くは年に数回程度であった。この点に鑑みると、パラマスの聖体拝領への執着はむしろ当時の一般的な修道士よりも強いとすら言える。

 

典礼(とくに聖体拝領)を人間の完徳の道行きにおける必要不可欠な要素として重視する姿勢は、パラマスがテサロニケ大主教として過ごした晩年にその多くが著された『講話集 Ὁμιλίαι』において一層色濃く見受けられる。

 

その修道士や神学者としての側面に議論が集中し、パラマスの司牧者としての側面を看過しがちであったこれまでの研究に対し、本研究では、アトスを離れ、ヘシュカスム論争を経たパラマスが大主教として街の一般信徒に接する中で形成していった人間理解(およびそれ以前のものとの差異)に着目し、『講話集』の分析を行った(本論第二部)。

 

『講話集』の分析から明らかになった彼の聖体拝領論には、聖体拝領によって使徒とキリストの関係を超える親密かつ直接的な合一が信徒個人とキリストの間に確立され、また信徒同士がキリストのからだにおいて一つとなり、共同体的交わり実現させるとの見解が認められた。

 

さらに、『聖なるヘシュカストのための弁護』においては合一の具体的体験(光や熱や甘さといった感覚的な要素を含む)に重点が置かれていた神化(神とに人間の合一)が、『講話集』の中ではとりわけ聖体拝領において実現するものとして語り直され、その神秘的要素を残しつつも、救済概念に重ねられてゆくことも確認された。パラマスにとって、神の法を守り、絶えざる祈りを通じて自らの犯した罪を悔い、魂を浄化することがいわば「修道的生」なのであり、それは孤独の中に生きる修道士のみならず、すべての信徒に推奨されている。

 

つまり、パラマスの思想において修道生活(修道的生)と教会生活は二つの対立する生活様式ではなく、双方相俟って人間の救いへと通じる生き方とされており、それぞれの中で実現される神との個人的・垂直的関係性と共同体的・水平的関係性はまさに聖体拝領において交差する。

 

人里離れたアトス山で孤独の内に修行するヘシュカストから、司牧者としてテサロニケの街の一般信徒の救いに心を配るようになったパラマスの人生の転換点は、まさにヘシュカスムの歴史の転換点でもあり、ヘシュカスムが近現代世界においてその裾野を一般信徒にまで広げる要因となったといえよう。

 

要するにパラマスは、13-14 世紀に隆盛した特殊な修行形態とその主張によって極端に限定される傾向にあったヘシュカスムを――そしてその主軸をなす神化概念を――、その「身体の哲学」によって再び人々の前に披いたのだと本研究は結論した。

 

証聖者マクシモスやそれ以前の教父たちが描いてきたような宇宙論的拡がりをもつ神化概念を取り戻し、そこに一般信徒をも改めて参与させることで、ヘシュカスムの伝統が現在にまで息づくことを可能としたこと、言い換えるならば、ヘシュカスムと神化概念それ自体を普遍化ないし民衆化(vulgarisation)したこと、ここにパラマスの思想的意義を本研究は見出す。

 

18世紀末に出版された東方キリスト教の師父たちの詞華集『フィロカリア Φιλοκαλία』編纂の意図が、司祭や修道士だけでなく巷間に生きる一般信徒も絶えず祈りにとどまり、各人が自らの救い=神化を見据えて浄化のわざに励むことを訴えることにあり、その意味で修道院世界と俗世界の境界線を乗り越えることであったとするならば、彼ら編纂者たちの精神の萌芽はすでにパラマスの身体を通じた人間理解において認められるのである。

 

ー終わりー

*1:訳注:

*2:『三部作』第三部3.15.

*3:John S. Romanides, "Notes on the Palamite Controversy and Related Topics', GOTR, I:6 (1960-1), 186-205; II:9 (1963-4), 225-70.

*4:Fr. Maximos Simonoteprites (Nicholas Costas), 'St Maximos the Confessor: The Reception of His Thought in East and West', in Knowing the Purpose of Creation through the Resurrection, ed. BIshop Maxim , Alhambra, CA: Sebantian Press, 2013, 25-53, at 44-6.

*5:神が絶対的にできること

*6:神が選択し為すこと

*7:Marcus Plested, Orthodox Readings of Aquinas (Oxford: Oxford University Press, 2012).

*8:Λόγοι ὑπὲρ τῶν ἱερῶς ἡσυκαζόντων

*9:Δεκάλογος τῆς κατὰ Χριστὸν νομοθεσίας, ἤτοι τῆς νέας διαθήκης

*10:Λόγος ἐγκωμιαστικὸς