巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜキリスト教会の要塞に破れがあるのか?――福音主義フェミニズム前進を支える二大同盟者たち(by ウェイン・グルーデム)

(自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載)

 

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap.14

 

① 同盟者その1――世俗文化

 

対等主義(egalitarianism)は、キリスト教諸機関に影響力を及ぼそうとしていますが、その際、対等主義には、二人の重要な同盟者がいます。

 

まず第一番目の同盟者は、世俗文化です。世俗文化は、その卓越した数々の表現をもって、激しく神の言葉の権威に逆らっています。また、この文化は、社会の中に、「男性だけに開かれている役職がある」という事実に激しく反対し、神のご計画に沿った形で機能する家庭のあり方にも強く反対しています。そして(多くの面において)、世俗文化は、「権威」一般に対し、拳を突き上げています。

もちろん、世俗文化に属している人々の中にも、そのような考えを持っていない方々もおられます。しかしながら、――メディア、エンターテイメント産業、一般大学機関など――こういった文化の極めて影響力をもつ中核部分は一様に、上記のような強力な対等主義スタンスをとっているのです。

 

② 同盟者その2――臆病な牧師たち

 

対等主義の第二番目の同盟者は、教会指導者たちです。

 

彼らは、内心、「たしかに聖書は相補主義の教えを説いている」ということを信じています。しかしながら彼らは臆病者であり、それを堂々と教えたり、その立場を擁護するために声を挙げる勇気に欠けています。彼らはだんまりを決め込む「消極的コンプリメンタリアン」です。

 

自分の所属する組織が、対等主義の圧倒的プレッシャーの元、今や変節の危機にさらされているというこの機におよんで、彼らは――心の中では「聖書はそんなことを教えていない」と信じているにもかかわらず――次から次に譲歩を重ね、降参していくのです。

 

これは、リベラルな教団の中にいる保守的信者たちが、同性愛問題に直面した時の状況と類似しています。実際、非常に多くの人は、「同性愛は非聖書的で間違っている」と心の中では考えているのですが、実際に声を挙げる人は稀です。

こういった同性愛問題に取り組んできた米国福音ルーテル教会のロバート・ベンネ氏はこういった人々の問題について次のように言っています。

 

 「話し合いの席には毎回、同性愛を公言している人々も同席しているわけです。そのためでしょうが、この問題に関してまだ確信が持てていなかったり、普通に善良だったりする人々は、反対の声を挙げたり、修正主義者のアジェンダに対する差し控えを提案するといったことに困難を覚えているようです。

 大半の信者たちは、「自分はあくまで礼儀正しく、寛容でありたい」と望んでおり、こうして「愛のうちに和を保ちたい」という願いから、(同性愛肯定に向けた)その修正アジェンダを受け入れていく――そういったケースがしばし見られます。(World, Aug.2, 2003, p.21)」

 

対等主義化した南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)を再び相補主義に回復する働きにおいて尽力したリーダーの一人が、何年にも渡る苦闘の末、私に次のように打ち明けてきました。

 

 「一連の苦闘における最大の問題は、私たちに反対する穏健派の存在ではなかったのです。いいえ、そうではありませんでした。むしろ最大の問題は、われわれに同意しつつも、私たちを支えるために声を挙げたり、共に立ち上がることを拒む、そのような保守派信者の存在でした。

 

その点で使徒パウロは、臆病な牧師たちとどんなに違っていたことでしょう!彼は神の言葉の中で「不人気な」教えのためにしり込みすることなく、反対に果敢に立ち上がりました。エペソで教会の長老たちに会い、彼らの間で労した3年間の働きを振り返った際も、彼は清い良心をもって次のように言うことができました。

 

使徒20:26-27

 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。

 

「伝えたからです」の「から(for)」という語から分かるのは、ここでパウロが自分がなぜ「だれの血についても、責任がない」のか、その理由を述べているということです。

 

彼は言います。エペソ教会内のあらゆる失敗に対し、自分は神の前に「責めがない」。なぜなら、私は「ひるむことなく」「神のご計画をすべて(the whole counsel of God)」彼らに伝えたからです、と。彼は、聖書のある教えが「人々の反感を買うから」という理由で、それを説くことを差し控えるようなことはしませんでした。

 

そして、そういった教えが「自分に対するバッシング、葛藤、そして衝突を招いてしまう可能性があるから」と言って、教えを説くことを差し控えるようなこともしませんでした。そうです、パウロは、教えの内容が人気のあるものであろうと、逆に人々の反感を買うようなものであろうと、聖書のあらゆる主題を余すところなく人々に説いたのです。

 

もしも使徒パウロが今日生きており、こういった諸教会を牧会開拓していたとするなら、彼は、現地の牧会者たちに対し、男女の聖書的役割について、あいまいでお茶を濁すような言い方をするよう勧告するでしょうか。

 

現在、社会全体で、もっとも論議がなされ、かつ緊急テーマとなっているこのジェンダー問題に関する神のみこころに対し、何も言わず泣き寝入りするようパウロは勧告するでしょうか。「何も言わなければ物議も醸し出さないし、荒波を立てることもない。。。そうしたら教会内に『平和を保てる』。だから私は黙っていよう。。」

 

こうしてあなたの「沈黙」により、この論争の決着は、次世代まで引き延ばされることになります。はたしてパウロはそのような勧告をあなたに出すでしょうか。「キリストに従うにあたり、私たち信者は割礼を受ける必要がない」とパウロが説教し始めたことを引き金に、ものすごい迫害が起こりました。ユダヤ人の敵対者たちはパウロを町から町へと追跡し、ある時には彼を石打ちにまでしました。(使徒14:19-23)。

 

しかしパウロは一歩もひるまず、救いの福音の使信に関し、妥協しませんでした。そうです、救いは、キリストを信じる信仰「のみ」によるものであって、「信仰と割礼」によるものではないと宣言したのです。そして後にパウロは、自分が迫害の憂き目にあった諸教会に対し手紙を送った際にも、福音の純粋性を守るよう強調し、次のように書きました。

 

「ガラテヤ1:10

 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 

教会指導者たちも、そして他のすべての信者たちも、今一人一人が、この問いの前に静まることが大切ではないかと思います。

 

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