巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書の権威を放棄する秘かなる10の道すじについて(by D・A・カーソン)

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D.A. Carson’s “Subtle Ways to Abandon the Authority of Scripture” (here)

 

訳者はしがき

この記事は、2016年5月に、オハイオ州クリ―ヴランドでなされたD・A・カーソンの講義録です。要約筆記者は、ライアン・ウェルシュ氏です。

 

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 D.A.Carson

 

この講義の中においては、カーソン氏は、意図的に聖書の無誤性や信憑性に疑いを投げかける懐疑論者たちの議論には焦点を置かず、むしろ、クリスチャン自身が、――意識的に、無意識的に――聖書の権威を放棄する10の道すじについて語っています。以下がその要約です。

 

1.選択的沈黙(Selective Silence)

 

これは特に、健康・富・繁栄の神学運動内において見られ、その中で彼らは、自分たちの神学に都合の悪い特定のテーマが記されている特定の聖句を意図的に隠そうとしています。この運動内では、苦難や、自己を否むこと、迫害の約束などについてはほとんど語られません。ですから、例えば、この神学的部族の血を引く牧師や教師たちが、ヘブル書の記者が11章で述べている内容を説くことはほとんど皆無です。

 

しかしこれはただ健康・富・繁栄の神学だけが抱える問題ではありません。改革派でキリスト中心的な神学を一見信奉しているようにみえる牧師も、教会内に分裂を起こさせかねないホットなテーマを含む諸聖句に接するに当たり、なんとかその部分を「選択的沈黙」で切り抜けようとする誘惑に駆られがちです。

 

そういったホットな議題の事例としては、教会内におけるジェンダー役割、同性愛受容をめぐる問題、救済における神の主権などが挙げられるでしょう。

 

こういった誘惑に対する最良の解毒剤は、やはり講解説教(expositional preaching)でしょうが、そうではあっても、気まずさを覚えるような箇所(例:異言、幻、しるしなど)などには重点を置かないようにしたいという誘惑に私たちはどうしても陥りがちです。

 

2.聖句の前で、心に当惑を覚え、まごつく(Heart-Embarrassment Before The Text)

 

聖書は地獄について多く言及しています。しかしこの主題を切り出すに当たり、私たちは次のような事を言います。「正直、私もこの教理、あまり好きじゃないんですよね。でもやはり聖書がこう言っているのですから、私はこれについて話さなければなりません。」神はあなたの魂に慈愛を注いでおられます。それなのに、あなたはご自分を、その神以上に、「慈愛深き者」として人々の前に表わそうとしているのでしょうか。

 

3.聖書が禁じ咎めていることを正当化しようとする秘かなる動き(Subtle Moves to Legitimize Things That The Bible Condemns)

 

同性愛に関する議論がここでの最良な例として挙げられます。現在、「福音主義界」内部において、同性愛是認派と否認派で意見が二分されています。そして一連のこの動きの中で、「まあ結局、どちらの見解を採ったにしても、依然として私たちはまともなエヴァンジェリカル・クリスチャンでいることができる」といった意識が形成されつつあります。

 

こうして私たちに反対する人々の数の圧倒的多さを前に、そして多くの諸見解を前に、――巧妙に、あるいは知らず知らずのうちに――こういった問題に関しての自分のスタンスを「軟化させる」ようになります。文化の大勢がシフトするに従い、それと共に――この問題に関し聖書が語っている真理を置き去りにしつつ――自分も微妙にシフトしていこうとする誘惑がここにあります。

 

4.「横柄な無知」という技巧(The Art of Imperious Ignorance)

 

ある論争に関しての両サイドの議論を聞いた後、ある人々は「自分の立場を決定するに十分な証拠がいまいち不明瞭。だからこの事に関しての神さまの御心を知ることは私たちにはできないのだ」と結論づけます。確かにそういう場合も存在しますし、本当に両サイド共に明確な証拠に欠けている場合もあるにはあります。しかし多くの場合、人々が「自分には分からない」と結論づけるのは、それが理由ではないのです。

 

聖書の中で何度も言及されている事がらがあります。神の御言葉がまったく明瞭に述べている事がらがあります。しかしながら、「横柄な無知」を無理に自分に着ようとする人々は、その実、無知のままでいられることの「是認」として、一連の論争に耳を傾けています。そしてそういった人々に共通する一般原則は次のようなものです。「このテーマに関して賛否両論あるのなら、誰も本当には知っておらず、それゆえ、私には知り得ないし、分からない」と。

 

しかしながら、この術策には、大概、「私には分からない」というレベル以上の深刻さがあります。これは往々にして、ある人を「私には分からない」という段階を通過させ、「何であれ自分の好きな立場を私は採ることができるし、気持ち的にもその方がいい。なぜなら、誰も私が間違っているということを本当には立証できないわけだから」という次なる段階にまで誘導していくのです。

 

5.あくまで頑強に聖書のバランスを取ろうとしない(Determinately Not Getting Right The Balance of Scripture)

 

聖化論について以前私は、何人かの人と議論し、クリスチャンの人生の中でいかにして聖化が起るのかについて話し合ったことがあります。何時間にもわたって、それぞれが個人の見解を述べ合い、その後、互いの見解を明確に知るべく質問をし合いました。

 

その中の一人がケース・スタディーを設定し、他の人々がそれに対しどのように言及するのか質問しました。その結果、彼らが発見したのは、皆、実は同じような方法でそれを取り扱っていたという事実だったのです。私は彼らに問いました。「それならなぜ、私たちは議論し合っているのでしょうか。」

 

彼らが議論し合っていたのは、神学的見地ゆえの意見の不一致が原因ではなく、むしろ、ある人々は、彼らのそれまでの背景が元で、他の人が何とも思わないような聖書の語用についてなにかとセンシティブになっていたからなのです。

 

例えば、自分の育ってきた教会が律法主義的だった背景を持つ人々は、聖化論の議論において、「恵み」という側面をより好む傾向にあり、逆に、かなりフリーでどうにも規律の取れていなかった教会環境で育ってきた背景を持つ人々は、議論において、より規律の取れた語を好む傾向にあったのです。

 

6.あまりにも乏しい読書(Too Little Reading)

 

もしあなたの学びが、聖書神学一辺倒なら、あなたはもう少し組織神学関係の書も読む必要があるでしょう。もしあなたが読んでいるのが組織神学書だけなら、あなたはもう少し聖書神学も読む必要があるでしょう。もしあなたが読んでいるのが神学だけなら、あなたはもう少し註解書も読む必要があるでしょう。そしてもしあなたが註解書しか読んでいないのなら、あなたはもう少しデボーショナルな信仰書や堅い神学書を読む必要もあるでしょう。牧師というのは一般実践者(general practitioners)であり、私たちには専門家になる権利は与えられていないのです。

 

7.本来ならば、私たちは実質原則からも質料原則からも制約を受けていなければならない(The Failure to Be Bound by Both The Formal Principle and The Material Principle)

 

実質原則というのは聖書であり、それに対し質料原則というのは福音です。もしも私たちが実質原則だけに拘束されているのだとしたら、私たちはエホバの証人やモルモン教徒と信条を共にしていると言わなければなりません。

 

ある人々は言います。「私には神学は必要ありません。私はただ聖書から説教します。」しかしながら、質料原則というのはたしかに存在します。この二つの原則は相互に作用し合っています。あなたは聖句から聖句へと質料原則を携えていきます。そしてこれは与えられた聖句の中であなたが何を見るのかについてのあなたの見方を形成し助けてくれます。そして質料原則は次の聖句があなたをどこまで持っていくことをあなたが許すのか、そういった方向付けをします。

 

8.単に技術的であらんとする渇望(The Lust For The Merely Technical)

 

ある神学生が私にこう語ってくれました。「私はかつて自分の聖書を読むこと、それが好きだったのです。」しかし彼は神学研究をする内に、聖書を読む行為が次第に技術的ないしはアカデミックなもの一辺倒になっていったのです。聖書は決してただ厳格にして技術的な意味合いにおいて読まれてはなりません。聖書は常に神の御言葉ですから、厳密な思考と、デボーショナルな読みの間には常に分岐点がなくてはなりません。

 

9.現代の哲学的アジェンダに対する渇望(The Lust for The Contemporary Philosophical Agenda)

 

コンテンポラリーなものに強力に引き付けられる余り、キリスト教会の歴史的信仰告白としての意味や見地を次第に見失っていく可能性があります。聖書を現代文化にとってrelevant(今日性を持つもの)にしようとするリアルな誘惑がここに在るのです。

 

しかし聖書はそれそのものがrelevantなのですから、私たちがそれをあえてrelevantなものにしようとする必要はありません。目を覚まして警戒していないと、私たちはいとも簡単に真実にして正直な聖書的解釈を放棄し、その代りに現代的・文化的ニーズに訴えるためだけに聖書を利用するようになっていく可能性があります。

 

10.なんであれ神の御言葉の前に恐れおののく(trembling)ことを減じさせるもの(Anything That Reduces Our Trembling For The Word of God)

 

教理的には正確でありながらも、私生活においては破綻している説教者たちがいます。なぜなら、彼らにとって聖書は神学的精巧性の情報源とはなっていても、それが主への畏れにつながっていないからです。私たちの人生それ自体が神の御言葉を崇めるものとならなければなりません。

 

 

文献案内:

D. A. Carson and John Woodbridge, eds., Scripture and Truth (Grand Rapids: Zondervan, 1983); 
 
John Woodbridge, Biblical Authority: A Critique of the Rogers/McKim Proposal (Grand Rapids: Zondervan, 1982); 
 
D. A. Carson and John Woodbridge, eds., Hermeneutics, Authority, and Canon (Grand Rapids: Zondervan, 1986); 
 
Benjamin B. Warfield, The Inspiration and Authority of the Bible (Philadelphia: Presbyterian and Reformed, 1948)