巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ブログ内の用語説明・定義――相補主義と対等主義について

目次

 

相補主義(Complementarianism)

 

男性と女性は、本質的に同等な存在であると同時に、機能・役割において異なり、両者はお互いを補い合うために神によって造られたと捉えるキリスト教の立場。

 

男女は、「存在論的に同等、機能的に異なる存在(Ontologically equal, Functionally different)」であるとし、家庭内および教会内において、男性のかしら性(headship)また犠牲的愛の内になされる男性リーダーシップ、および女性の恭順を重んじる。牧会職は男性のみという従来のキリスト教会の歴史的立場を保持している。

Piper, John (1991). Recovering Biblical Manhood and Womanhood. Wheaton, Illinois: Crossway. pp. 31–59

 

相補主義に立つ教団・教派の一例

Southern Baptist Convention, Presbyterian Church in America, Anglican Diocese of Sydney, Lutheran Church–Missouri Synod, Conservative Mennonites, Newfrontiers, Evangelical Free Church of America, Christian and Missionary Alliance, Sovereign Grace Ministries, Calvary Chapel movement, Eastern Orthodox Church, フィンランドルーテル福音協会マラナサ・グレイス・フェローシップ、日本キリスト改革長老教会、日本長老教会等(2017年11月時点)

 

相補主義キリスト者の一例

J・I・パッカー、マルティン・ロイド・ジョーンズ、ウェイン・グルーデム、D・A・カーソン、アルバート・モーラー、チャールズ・スポルジョン、アドリアン・ロジャーズ、ジョン・F・マッカッサー、C・S・ルイス、フランシス・シェーファー、ジョン・パイパー、エリザベス・エリオット、R・C・スプロール、メアリー・カスィアン、トーマス・シュライナー、アンドレアス・コステンバーガー、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン等。

 

 

対等主義(Egalitarianism)

 

男性と女性は、本質的に同等であり、また機能・役割においても同等であるべきと捉えるキリスト教の立場。通常、福音主義フェミニズム(Evangelical Feminism)とほぼ同義語的に使われているが、厳密にいえば、対等主義の方が、範疇的により大きいと言える。女性教職を認める。よりプログレッシブな形の対等主義は同性愛も認めている。

 

つまり、対等主義の傘下には、福音主義フェミニズム以外にも、リベラル主義フェミニズムや、女性教役者を認める一部の聖書主義カリスマ・ペンテコステ派・福音派等も位置していると考えられます。しかし同じ傘下内で現在急速に進行中の神学的マージング(融合)現象を考えますと、サブ・カテゴリー間の区切りの不分明(ないし漸進的消滅)はもはや時間の問題かもしれません。〕

 

対等主義に立つ教団・教派の一例

American Baptist, The Anglican Communion, Assemblies of God, Church of the Brethren, Church of the Foursquare, Church of the Nazarene,Cooperative Baptist Fellowship, Christian Reformed Church, Disciples of Christ ,Episcopal Church in the USA ,Evangelical Covenant ,Evangelical Lutheran Churches of America (ELCA) ,Free Methodists, Friends, Grace Communion International,Mennonite Church of the USA ,The Presbyterian Church USA (PCUSA) ,The Evangelical Presbyterian Church (EPC),Reformed Church in America,Salvation Army ,United Methodists ,Vineyard Fellowship, Wesleyan, YWAM,

日本キリスト教団、日本バプテスト連盟、イムマヌエル綜合伝道団、救世軍、クウェーカー、聖書キリスト教団、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、主の十字架クリスチャン・センター、日本キリスト改革派教会、日本バプテスト教会連合、日本聖公会等。(2017年11月時点)

 

代表的な対等主義キリスト者

ギルバート・ビレズィキアン、ゴードン・フィー、N・T・ライト、グレッグ・ボイド、ケネス・E・へーゲン、ジョイス・メイヤー、シンディー・ジェイコブズ、メアリー・J・エヴァンズ、ジョージ・フォックス、スタンリー・グレンツ、レベッカ・グロースイス、キャサリン・クローガー、ジミー・カーター、アイダ・スペンサー、ルース・タッカー、ジョージ・ウッド、ウィリアム・ウェブ、ビル・ハイベルズ等。

 

「相補主義」と「対等主義」について――福音主義教会を二分する二つの視点

 

(自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載)

 

はじめに

みなさんご存知のように、私はこのブログの中で、クリスチャン女性の被り物について(1コリント11章)、いろいろな記事を書いたり紹介したりしています。また女性の恭順や、内面的・外面的な慎み深さなどのテーマでも証しを書いています。

 

それらは元々、異なる時期に、主が私の目を開き、その結果、悔い改めに導かれたり、示されたりしながら、一つ一つ私自身が学び、体得していったものです。

 

その後、何年かして、The Council on Biblical Manhood and Womanhood(聖書的男性像および女性像のための協議会)の刊行する出版物を手に取る機会が与えられ、「どんな本なのだろう?」と何気なく読み始めたのですが、最初の数ページを読んだだけで私はびっくり仰天してしまいました。

 

そこに書いてある専門用語こそ私には不慣れなものでしたが、内容は実に分かりやすいものでした。いや、分かりやすいというよりも、私はすでにその趣旨を(それ以前に辿って来た、自分なりの素朴な探求の過程で)「体験的に知っていた」と言った方が適切かもしれません。

 

そして教会や家庭の中での男女の役割や、クリスチャン女性の価値観などで、自分のような聖書理解および志向を持って生きているキリスト者のことを、「相補主義」クリスチャンというのだということをその時はじめて知りました。

 

相補というのは、文字通り、男女が(互いに競い合うのではなく)お互いを補い合う存在であるという意味で使われている言葉です。英語で「相補」は、complementですが、英和辞書で引くと、「~を補って完全にする。~を補足する。~の良さを引き立てる。」等の意味があります。

 

ですから、みなさんが、私の書いている聖書的男性像・女性像について、基本的に同意してくださり、共感してくださっているのなら、みなさんも、いわゆる「相補主義」という立場にたつ信仰者ということになるわけです。

 

しかし、そうは言っても、私は個人的に、「~~主義者」という言葉で自分や他の兄弟姉妹をカテゴライズすることにとても躊躇を覚えています。さらに言えば、私は自分や他の兄弟姉妹を、教団教派の名前や、主義主張の種類によって、ある名称で「くくること」さえ、できることなら避けたいと思っています。

 

なぜなら「くくる」行為は、(その行為の動機がいかに純粋なものであっても)不必要な分裂を招く可能性を作りだし、さらには、「くくった」囲いの中にいること、その「主義者」を名乗っているという事実の上に胡坐をかき、(自分も含め)その主張に実際には「生きていない」偽善者を生み出す可能性を秘めていると思うからです。

 

私たちキリストを信じる者に与えられている聖書的名称はただ一つ「キリスト者 Χριστιανός」(使徒11:26)であって、カルヴァン主義者でも、プロテスタント主義者でも、福音派・聖霊派でもないと思っています。

 

にもかかわらず、なぜ私は今日、相補主義および、それに対立する対等主義についてわざわざ記事を書こうとしているのでしょうか。実をいうと、今もあまり「乗り気で」書いているわけではありません。しかしながら、さまざまな異なる教えにあふれる現在のキリスト教界にあって、やはり最低限、自分の使っている用語の定義ははっきりさせておく必要があるでしょう。そういうわけで、以下、相補主義と対等主義について少しご説明したいと思います。

 

ことの起こり

福音主義教会内に、相補主義および対等主義という二つの立場が生まれたのには理由があります。

 

1960年以降、主に米国の神学界を中心に、フェミニスト神学が勃興してきました。そして「男女同権」を主張しつつ、これまで男性だけに開かれていた牧会職を女性にも開放するよう運動を起こしました。また、フェミニスト神学は、「ジェンダー」という新しい視点で、男女にかかわる聖書の箇所を次々と「再解釈」し始めました。

 

リベラル派の教会は早い時期から、この新しいイデオロギーを受け入れ、新しい聖書解釈を取り入れていたのですが、やがて、福音派の中にも、そのような主張をする人々が現われてきたのです。いわゆる「福音主義フェミニズム Evangelical Feminism」の誕生です。

 

こういった動きに対し、聖書信仰に立つ福音派のクリスチャンは警戒心を募らせました。もともと福音派は、自由主義神学に対する対抗勢力として生まれ、リベラル的聖書解釈を拒んできたグループです。

 

著書の中で、ウェイン・グルーデム氏は、自由主義神学者たちの聖書解釈法と、福音主義フェミニストたちの聖書解釈法に類似性があることを指摘し、「(フェミニスト神学を受容することで)これまで自由主義神学を拒んできた福音主義は、ついにリベラリズムへの街道を下っていくことになるだろう」と鋭い指摘をしておられます。

 

こうして、「あくまで従来の聖書的男性像・女性像および教会・家庭における男女の役割を保っていこう」というキリスト者と、「いや、この新しい流れを受け入れよう」というキリスト者との間で意見の対立が生じてきたのです。やがて前者は「相補主義 complementarianism」、そして後者の立場は「対等主義 egalitarianism」と呼ばれるようになっていきました。

 

両者の根本的な違い

相補主義と、対等主義の根本的な違いは、何をもって男女が平等(equal)であるか、という捉え方の違いにあるといえます。相補主義のクリスチャンは、男女は(神のかたちに創造された存在として)その本質において全く平等であり、等しい価値を持つ。けれども、それぞれが担う役割(および機能)においては違いがあると考えています。

 

それゆえに、教会・家庭において、(男女の本質に優劣の差はないけれども、役割として)聖書に書いてあるとおり、男性がかしらとしてリーダーシップをとることが正しいと考えているわけです。(家庭のモデル:エペソ5:21-33、教会のモデル:1テモテ2:11-3:7、テトス2:3-5等)

 

一方、対等主義のクリスチャンは、「男女はその本質においても、役割(機能)においても、男女間に違いはない」という考え方に立っています。それゆえ、教会において、家庭において、(男性だけでなく)女性のリーダーシップも同じように奨励されるべきだとこういった方々は考えています。

 

ジェンダーの相違は、堕落前の「祝福」それとも堕落後の「呪い」?

対等主義クリスチャンにとっての「マグナ・カルタ」は、ガラテヤ3章28節です。

 

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」

  

そして、この節を元に「だからキリストにあって、もはやジェンダーの相違はない」と、こういった方々は主張しています。また、対等主義では、ジェンダー間の相違は、人類の堕落(Fall)によって生じてしまった呪いであり、キリストの贖いによってそういった相違は取り除かれたのだと考えています。

 

一方、相補主義においては、ジェンダー間の相違は、神の創造(Creation)の結果であり、呪いではないと捉えています。(1テモテ2:15のパウロの教えにも注目してください。)

 

また、前述のガラテヤ3章28節ですが、ここでパウロは「教会における女性の役割」について言っているのでしょうか?また、この一節をもって「キリストの贖いは、男女というジェンダーの相違を取り除いた」と結論づけることは果たして理に適っているでしょうか?

 

この章全体を読むと、みなさんよくご存知のように、「信仰」と「律法」のことが詳しく述べられています。人は律法の行ないではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるということ、律法によるのではなく、「信仰による人々こそアブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とパウロは力説しています。現に、「ガラテヤ3章28節」のすぐ後に続く節を読んでみてください。

 

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(29節)

 

つまり、もし私たちがキリストを信じ、キリストのものとされるならば、それによって私たちは、国籍や身分や性別の違いにかかわらず、アブラハムの子孫であり、信仰によって義とされ、約束による相続人となる、ということが述べられているのです。

 

ですから、ここで「教会の中における女性の役割の問題」を持ち出したり、女性牧師を正当化する根拠にしたりすることは、お門違いであり、文脈を無視した強引な解釈だと言わざるをえません。

 

無理な解釈

 

しかし今、百歩譲って、この主張が正しいとしましょう。パウロがこのガラテヤ書を執筆したのは紀元53年から55年頃だと言われています。ですから、この主張が正しいとするなら、この時期、パウロはいわゆる「フェミニストのマグナ・カルタ」と言われているガラテヤ3章28節を書き、教会における女性のリーダーシップにゴーサインを出したということになります。

 

ところが、です。それから約十年後(紀元63年頃)、パウロはテモテに牧会書簡を書き、前述の「マグナ・カルタ」を全くくつがえすようなことを強い口調で言っているのです。

 

1テモテ2章 

11女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

12私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。

13アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。

14また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

15しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(1テモテ2:11-15)

 

パウロはここで創造の秩序を根拠に、女性が男性を教えたり、支配したりすることを禁じているわけですが、それなら、あの「ガラテヤ3章28節」は一体何だったのでしょう?ここに大きな矛盾が生じてしまいます。ですから、こういう意味でも、ガラテヤ3章28節を、フェミニストのマグナ・カルタとして解釈することは「誤」ということになります。

 

まず初めに「神のことばありき」それとも、「イデオロギーありき」?

以前の記事の中にも書きましたが、今回、もう一度申し上げます。フェミニスト神学においては、「主」と「従」の関係がになっています。

 

私たち被造物にすぎない、そして罪びとである人間は、永遠の神の御言葉を畏れと崇敬の思いをもって読み、日々、御言葉によって、自らが変えられ、矯正され、悔い改めに導かれ、新しくされることを望んでいます。つまり、神および神の御言葉が「主」であり、私たちはあくまで「従」なのです。

 

一方、フェミニスト神学においては、まず頑として主張されるべき「イデオロギー」というものが王座にあります。「まず神のことばありき」ではなく、「イデオロギーありき」なのです。そしてこの「イデオロギー」という鋳型(mold)に合わせて、神の御言葉は取り入れられたり、剪定されたり、ねじられたり、よじられたり、付加されたり、削除されたりしています。

 

つまり、ここでは私たち被造物が「主」となっており、主なる神はあくまで「従」にすぎないわけです。(この点について、私は以前に、キリスト中心の福音と人間中心の福音という記事を書きました。)

 

役割における「違い」と「優劣」を混同してはいけない

相補主義および対等主義それぞれの主張に耳を傾ける際に、私たちが気を付けなければならないのは、Equality(平等、同等)という言葉の用いられ方と意味だと思います。

 

対等主義のみなさんの誤解は、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっているところにあります。本質(nature)における男女の平等および等価値性と、機能・役割(function, role)における「違い」を分けて考えることができずにいるのです。

 

聖書の真理によれば、牧会職は女性の「役割」ではないとされています。しかしそれは私たち女性の価値が男性より「劣っていること」を意味するのでしょうか。もちろん違います。(このテーマに関しては、ストレスを抱え傷つき苦しんでいる女性の牧師先生および教職のみなさまへという記事を前に書きました。)

 

かしら性(headship)について

最後に、かしら(headship)のことについても少し触れておきたいと思います。

 

「女のかしらは男(1コリント11:3)」であるという聖書の真理があります。しかし現代人はこれをすぐに「男女差別」だとか「女性蔑視・抑圧」と捉えがちです。しかし、同じ節に、「キリストのかしらは神」と書いてあります。

 

それでは、これは「抑圧的・差別的な」父なる神による「キリスト差別」「キリスト蔑視・抑圧」となるのでしょうか?断じて、否です。御父と御子は本質において全く等しい存在です(ヨハネ10:30等)。その一方、御子は、かしらである御父に「従われました」。

 

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。1コリント15:28

 

もちろん、ここで御子が御父に「従う」ことは、御子を御父より「劣った」存在にすることにはなりません。このように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、男女のことだけにとどまらず、私たちが三位一体の神について深く知っていく過程においても、とても助けになります。

 

(このテーマ、つまり三位一体の神における“ontological equality but economic subordination” “equal in being but subordinate in role”については、いくつか詳しい論文が出されています。詳しくはWayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 14. Trinity, p.251をご参照ください。)

 

 

おわりに

水野源三さんが、「生きる」という題で次のような素朴で美しい詩を書いています。

 

神様の大きな御手の中で

かたつむりは かたつむりらしく歩み

蛍草は 蛍草らしく咲き

雨蛙は 雨蛙らしく鳴き

神様の 大きな御手の中で

私は 私らしく 生きる

 

神様の大きな、大きな御手の中で、私たち被造物は生かされています。創造の秩序(Creation Order)は私たち人間を縛るものではなく、女性を劣った存在にするものでもなく、逆に私たちを真に自由にし、男性が男性らしく、女性が女性らしく生きていくことを可能にする神の知恵であり、愛の顕れであります。

 

昨今、神様のお造りになったこの美しい創造の秩序に対し、反抗のこぶしを突き上げる動きが、世の中でも、教会の中でも起こってくるようになりました。

 

こういった動きに対してどうするのか?――聖書を神の言葉を信じるクリスチャンは今、それぞれが主の前に静まり、(人や自分の所属する機関にではなく)まず創造主なる神に、「応答」していくことが求められていると思います。

 

「相補主義」および「対等主義」は、神学論争という枠をはるかに超え、私たち信仰者一人一人の生き方、ものの考え方、家族・人間関係に深い影響を与えている二つの視点、二つの歩み、そして二つの信仰のあり方です。

 

そして神の御言葉を前にした二つの姿勢です。

 

あなたはどちらの道を歩んでいますか?

 

「相補主義」と「対等主義」――三位一体論をめぐる両者の衝突 【ジェンダー問題】

 

男女の「平等 Equality」という点に関し、対等主義およびフェミニズムの視点で聖書を解釈する人々が、(男女における)機能および役割の「相違」を、「優劣」と同一化して考えてしまっている誤謬について、私は上記の記事で触れました。

 

「本質における等価値性と、役割・機能における相違」は、三位一体論の中で、キリスト教会が正統教義として歴史的に認めてきたものです。この点に関して、ウェイン・グルーデム教授は次のように述べています。

 

「これをより簡単に表現するなら、『存在においては同等ながら、役割においては従属関係にある』と言うこともできるであろう。この両方が、真の三位一体論に必要とされる。本体論(ontological 存在論)的な同等性がなければ、すべての位格が完全に神とはならない。だが、経綸的(economical 立場・役割上の)な従属関係がないならば、三つの位格の相互関係に本来備わった違いが全くないことになり、従って、永遠に父、子、聖霊として存在する、三つの異なる位格は存在しないということになる。」

--Wayne Grudem, Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000), p. 251.引用元

  

しかし、経綸的な意味における、御子の御父に対する永遠の従属(The doctrine of the Eternal Subordination of the Son〔略称ESS〕)は、「近年、相補主義者たちがでっち上げた新教理である」という批判がフェミニスト神学者の間から出されています。

 

このような批判が出される二つの理由

なぜ、フェミニスト神学者は、ESSが相補主義者たちのでっち上げであり、正統的な三位一体論ではないと批判しているのでしょうか。理由は大きく分けて二つあるのではないかと思います。

 

一つ目は、前述したように、「本質における等価値性と、役割・機能における相違」に対し、彼らが両者を分けて考えることができていない点にあると思います。

 

また二つ目は、こういった人々が、三位一体論におけるアリウス的異端見解である従属主義(Subordinationism)とESSを一緒くたにして考えてしまっているという点です。

 

ご存知のように、初代教会の時代に起こった従属主義は、本質においても、役割においても、御子は御父に劣るという見解であったために、異端と認定されました。しかしESSは、御父と御子の間の本体論的(ontological)同等性を認めており、異端である従属主義とは全く異なるものです

 

*両者の根本的な違いについて、詳細かつ分かりやすく説明した論文があります。PDFファイルで読めます。

Stephen D. Kovach, Peter R. Schemm Jr, A Defense of the Doctrine of the Eternal Subordination of the Son, JETS, 42/3 (September 1999), p 461–476, click here.

 

関連記事:

 

 

追記)但し、三位一体論の中の「御子の従順」に関して、ウェイン・グルーデム氏と、ミラード・エリクソン氏の間で若干、意見の相違があることを付け加えておきます。グルーデム氏側の見解は、Wayner Grudem, Systematic Theologyを、そしてエリクソン氏側の見解は、次の著作を参照してください。