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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【後篇】

ニカイア公会議以前の初代教会

 前篇〕からの続きです。

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ディオクレティアヌス帝治下における迫害

 

さて、教会はローマ帝国による最後の大迫害に直面した。神は摂理的配慮によって、この迫害に耐え抜いた暁に教会の勝利を約束しておられたのであった。

 

ディオクレティアヌスは284年に即位した。この皇帝は、「ローマ的伝統に基づく徳目と神帝(現人神)理念に加えて3世紀のエクファントス、ディオトゲネス、さらに『ヘルメス文書』などによって展開された神寵帝理念(*秀村、前掲p76-77)」を精神的宗教立場としていた。

 

しかも、ディオクレティアヌスは東洋的な独裁政治だけが、混沌とした状態を安定させることができると考えたので、紀元前27年にアウグストゥス帝が創始した皇帝と元老院とが主権を分担する両頭政治を285年に終わらせ、四分治制(*ケアンズ、前掲p130)をとり入れた。

 

彼は帝国を12の小管区と96の属州に分け、これを4つの行政区に分割した。そして、東の正帝として自分が坐り、副帝にガレリウスを選び、西の正帝にマクシミアヌスを立て、副帝にはコンスタンティウス・クロルスを選んだ。

 

この四帝はそれぞれ神の人たちと呼ばれ、ディオクレティアヌス自身hユピテルの子と呼ばれ、西帝はユピテルの子ヘルクレスの子と呼ばれるようにした。こうして、東帝は西帝よりも優位に立つものと定めた(*秀村、前掲p77)

 

このような処置の中に、われわれはディオクレティアヌスやその他の皇帝の神格化という事実を読み取らなければならない。そして、これまでの皇帝に優るとも劣らず、宗教と国家とを密接に関係づけていることが分かるのである。

 

このように自らを神的なものとする皇帝とキリストのみを主とする教会とは早暁、大衝突せざるをえなかった。皇帝は即位した284年から303年までの約18年間は、キリスト教に寛容であった。ところが、突然、303年にキリスト教徒を迫害しはじめた。

 

この変心の真因はなんであるか明らかでない。ラクタンティウスによると、皇帝の婿で東の副帝ガレリウスはキリスト教を嫌悪していたので、彼がディオクレティアヌスに迫害を強要し、ついに迫害を許可されたのであるという。

 

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303年4月、四帝の連署で第一勅令が発布された。この勅令の内容は、キリスト教会の破壊、聖書の引き渡しと焼却、キリスト者の公職追放、宗教的集会の中止、高位にある教職者の市民権と名誉のはく奪であった。

 

この勅令の実施は帝国全土で行なわれたが、コンスタンティウス・クロルスの統治するゴール、スペイン、ブリテン地方では小教会の破壊にとどまった。この地方はキリスト教の勢力はまだ微弱であったし、コンスタンティウス自身の一神教信仰が強硬手段をとらせなかったらしい(*秀村、前掲p78)

 

一神教信奉が強硬手段を控えさせたということがもし事実であるとするならば、われわれに、ある興味を喚起する。これまでのローマ皇帝はみな多神教の立場であり、彼らが多神教なる故に、これを拒否するキリスト教には非寛容であった。

 

コンスタンティウスはどのような具体的な一神教信仰をもっていたか明らかでないが、秀村教授によるとおそらく、多神教を統合超克した太陽神も包摂した最高神であったのだろうという。そして、教授は、この一神教信仰がキリスト教への道を徐々に準備したといえるだろうという。

 

一神教がただちにキリスト教信仰へとは結びつかないとはいえ、コンスタンティウスの子のコンスタンティヌスが特殊な政治的状況の下に段々とキリスト教の側に立たされていった背後には、父子二代にわたる一神教的傾向が大きく影響していたことは否めない。

 

ディオクレティアヌスの第一勅令発布後、まもなく宮廷で怪火が起った。ガレリウスはこの罪をキリスト教徒に帰し、これを公敵として迫害することを進言したけれども、帝はなお躊躇していた。ところが、第一勅令発布の二週間後に再び宮廷で火炎が起った。この火炎が起ると、皇帝は容赦もせず第二の勅令を出して、教職者を逮捕し投獄することを命令した。

 

第三勅令に及んで、教職者全体に神々に犠牲を捧げることが強制され、これを拒否したものは処刑された。305年になって第四勅令が発布された。ここに至って、キリスト教徒全体に、神々に犠牲を供えることが厳命された。これを拒否するものは死刑かまたは鉱山労役刑に処せられてしまった。

 

こうして、徐々に拡大されてきたキリスト教徒迫害も、キリスト教根絶には失敗したのである。帝国の全域で均一に迫害がなされなかったこと、特に西帝の統治下では迫害はそれほど厳しくなく、またこの地方では311年までには迫害が停止されていたことなどから、キリスト教徒の根絶はついに実現せず、良心に呵責を覚えたガレリウスは「国家の規律にそむかない限り」信仰を許す寛容令を311年に公にするに至った。

 

ついにこの年、キリスト教徒の神も、宗教の対象として容認されるようになったのである。この後、コンスタンティヌスがミルウィウヌ橋の戦いで勝利し、ローマに入城して、313年にミラノの勅令を公布したときから、キリスト教はローマにおける公認宗教の地位を勝ち取ったのである。思えば、キリスト教徒にとっては長くて暗くつらい年月であった。

 

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コンスタンティヌス帝

 

ディオクレティアヌス帝の迫害においてもやはり、キリスト教徒が殉教していった理由は、偶像礼拝とこれに関わる一切のことを拒否した信仰によっている。われわれは最後に、この信仰内容について少しばかり考察してみたいと思う。

 

迫害下のキリスト教徒の信仰

 

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異教の多神教世界に信仰をえた当時のキリスト教徒たちは、主が預言されたとおりの十字架の道を歩んだ。当時のローマ市民ならびに属州民がクリスチャンになることは、死を選ぶのに等しかった。それでもなお、信仰告白者は後を絶たず、教会の勢力は迫害で減少するよりは益々増大していった。

 

このような当時のキリスト教徒のたくましい信仰とエネルギーは一体どのような内容の信仰に起因しているのだろうか。あるいは、こう尋ねてみたい。あの激烈で苛酷な迫害に直面しても、なお、人に従うよりは神に従う行為を選ばせた信仰内容は何であったのだろうか。

 

たしかに、人肉食とか近親相姦とか、魔術、陰謀、人類憎悪、無神論者、かくれた罪とかという邪推、誤解などが2世紀半ばの時点までの迫害の原因となっている。あるいは3世紀の中頃までは、キリスト教徒に対する民衆の反感情が迫害を起こした原因ともなっている。しかし、これらはみな主因ではない。

 

迫害の主因、またキリスト教徒が迫害に直面して背教よりは死を選んでいった根本因について、秀村教授は「キリスト教の排他的一神教(*秀村、前掲p66)」であるという。キリスト教徒は、この信仰内容の故に、異教の神々の祭儀に参列することを拒否し、また、このような祭儀自体を否定した。

 

このことはとりもなおさず、キリスト教徒が皇帝礼拝をも含めた偶像礼拝と、その祭儀全体を全面的に否定したのであるから、ローマ帝国と異教社会に徹底的な挑戦をしたことを意味している。しかも、この挑戦の動機となったものは、キリスト教的一神教であった。

 

このことはエウセビウスの教会史の中にも表明されている。特に殉教者を扱う箇所になると、「唯一の最高の神」とか「神」というみ名の呼び方は、キリストというみ名に劣らず多く出てくる。

 

A・ハルナックも、いかなる意味でも多神教の汚れに触れないように自らを守ることが、この時代のキリスト教徒の至高の義務であったと証言している(*Adolf Harnack, The Mission and Expansion of Christianity in the First Three Centuries, trans.James Moffa, 2nd ed. rev.; New York: Williams and Norgate, 1908, I, 292)。さらに、教会では偶像礼拝の罪が、その他の罪よりも一層厳しく扱われたとハルナックは言っている(同著)

 

当時のキリスト教徒は、単に異教の宗教儀式を否定し、参加しなかったというだけではない。異教宗教と関係が密接であった劇場に行くことも遊びに参加することも拒絶した。

 

また、彼らの異教との断絶は、異教徒の著作を読むことも拒否し、偶像とのかかわりのある商売にも携わらないというほどに徹底していた(同著p300-311)

 

このように、ローマ帝国の支配下で信仰に入ったキリスト教徒たちは、異教の神々と皇帝を神として礼拝すること、さらにこれらに関わるあらゆる生活の面で偶像によって汚されないように自分を清く保った。偶像との徹底的な対決に彼らを立たせたのは、キリスト教の排他的一神教にあったということは正しい。けれどもなお、これだけでは十分に説明できない点が残る。

 

多神教に対して、キリスト教徒は単なる唯一神教の立場から一切の神々への供犠を拒否したということはできないのである。唯一神教としてはユダヤ教が当時ローマ帝国内には公に存在を許されていた。しかし、彼らは皇帝の像に献酒したり、香を焚くことをしなかったが迫害はされなかった。彼らは先祖伝来の宗教を守っているものとして、他の被征服民の宗教と同じように公認されていたからである。

 

しかし、他の被征服民は自分たちの神々の他に、ローマの神々と皇帝をも排することを要求され、これに服従させられた。しかし、唯一の神のほかには神々も皇帝の像も拝さないユダヤ教徒は、かたく唯一神教に立っていたが迫害はされなかった。

 

ここにはたしかにシューベルトが指摘するように帝国側には首尾一貫しない態度が見られる。従って、キリスト教徒も唯一神教に立っているという限りでは、ユダヤ教と同じように扱われてよい可能性はあったはずである。

 

しかし、帝国側はキリスト教を父祖伝来の民族宗教とは見ず、一つの新しい熱狂的なセクトと考えて、父祖からの関係はない新興の宗教とみなしてしまったのである。さらに、キリスト教はローマ人と属州民の間に急速に受け入れられていったのだから、ユダヤ教にはない危険を感じさせられた。

 

ここに帝国側がユダヤ教徒を迫害しないで、キリスト教徒だけを迫害し、特に、その一神教を、帝国の統一を妨げるものとして敵視した理由があると思われる。

 

この場合、一神教は「キリストのみ」という信仰内容であったことはまた、エウセビウスの証言からも明らかである。「キリストのみ」という主張は明らかに排他性を含んでいる。この排他性がローマ帝国の宗教政策と真正面から衝突したのである

 

キリストのみを礼拝すべき神として、他の一切の偶像の神々を否定した。そして、この意味での唯一神信仰こそ、当時の多くのキリスト教徒の断固として妥協できない堅い信仰内容となっていたものであった。

 

それでは、この唯一神信仰のみが、迫害をあのように耐えさせていったのだろうか。われわれは妥協のない唯一神信仰こそ迫害を耐えさせた主因であることをもう一度確認しておこう。

 

その上に、やはり見落としてはならない信仰の要素もあったことを見ておかねばならない。それは終末信仰である。迫害を受け苦しみ、そして背教よりも死を選んでいったキリスト教徒の信仰の中には、天の栄光を望み見る終末信仰が生き生きと輝いていたのである。("Persecutions," New Catholic Encyclopedia, XI. 519)。

 

*ブログ管理人注:初代教会クリスチャンの終末信仰に関する参考記事


ローマ帝国の迫害下にあったクリスチャン殉教者の信仰は「キリストのみ」を拝すべきであるという排他的な唯一神信仰と、この世よりは来たるべき世での永遠の至福を尊いものとして仰ぎ望んだ終末信仰とを内容とするものであった。

 

そして、この二つの要素が、あの激しい国家権力側の迫害との戦いにおいて、遂には武器を用いないで、帝国を敗北させ、キリストに勝利の栄光をもたらしたのであった。

 

ー終わりー

 

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