巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【前篇】

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(執筆者:日本基督改革派南浦和教会牧師、日本基督神学校講師 泥谷逸郎師、情報源

 

われわれの祖国日本では現在、靖国神社を国家護持しようとする動きが盛んである。この動きに多少反対を試みたものとして、考えざるをえなくなる問題は、過去における日本のキリスト教会あるいは個々のキリスト者が日本の国家の圧力に屈服した態度である。

 

大正期から昭和20年の敗戦にいたるまでの日本のキリスト教界は、国家の全体主義的、軍国主義的な圧力に抵抗すること極めて少なく、ついには、「神社は宗教ではない」という国家側の言い分をうのみにして、教会全体を偶像の前にひざまづかせてしまった。過去におけるキリスト教会は、「人に従うよりは神に従うべきである」という聖書のみことばに服従するよりは、官憲のことばに従って、教会を温存した。

 

この事実を知ったときから、ある疑問が私の頭を離れなかった。それは、教会史上の大迫害といわれるあのローマ帝国によるキリスト教迫害の折には、多くのものが背教したとはいえ、なお、数多くの聖徒たちが背教するよりは死を選んでいったのはなぜか、ということであった。この「なぜ」という問いを持ち続け、いつかは自分なりにある解答をまとめてみたいものだと考えていたのである。

 

こういうわけだから、この小論文は「なぜ」という問いに対して、特にローマ帝国の迫害下にあったクリスチャン殉教者の信仰内容の面から答えを得ようとする一つの試みなのである。

 

迫害史の中でも、特にこのローマ帝国下の迫害については史料が不足しており、キリスト教も異教もともに弁証的な意図をもった著作が多く、客観的な経過を調べ、評価を試みることは容易ではない。そこで、自分の手に入るある限られた資料から解答を試みた次第である。

 

ところで、われわれは迫害史を見ていく場合、二重の進展の光の中で迫害を見ていかなければならない。(*H. Daniel-Rops, The Church of Apostles and Martyrs, trans, Andrey Butler (London: Dent&Sons), p.165.) 第一は、ローマ帝国が最初の3世紀の間、政策的には中央集権制を強化する方向をとり、その結果、帝国内の反対勢力を粉砕する政治が行われたことである。このような帝国の政策下にあって、帝国内の帝国になりつつあった教会の存在は、好ましからざるものであった。しかも、この教会が帝国とは本質的に相いれない性格を備えていたのである。

 

次に第二の点として、教会側から光をあててみると、教会の良心としては、帝国の進む方向はどうしては妥協できない点が増大してきた。ここに、帝国と教会とは和解不可能な対立に入らざるをえず、どちらかが敗北しなければ問題は解決されない事態に陥ったのである。

 

ローマ帝国の迫害を、以上の二重の折り重なった光の中で見つつ、特に、当時の殉教者の信仰に焦点をしぼって見ていきたいと思う。クリスチャンがローマ帝国と衝突せざるをえなかった最大の理由は、きわめて宗教的な事がらであったことは言うまでもない。

 

われわれはまず、キリスト教が和解不可能なまでに対立した帝国の政策を調べる前に、帝国内の宗教事情と、宗教政策とを見てみることにしたい。

 

ローマ帝国内の宗教

 

ローマ人は神々の存在を信じていたという点では、たしかに「宗教心に富んでいる」人種であった。しかし、ギリシャ人の宗教心の表現とローマ人のそれとの間には、前者は神々を人間的姿態として表したのに対して、後者は神々を意志と力とによって自己顕現するものとして捉えた。神々は、「そのような非人格的な諸力であり、そこには神像のほか、神話や密儀をも含んだ」のである。(*秀村欣二『ローマ皇帝支配の意識構造』岩波講座、「世界歴史3、古代3」、岩波書店、1970年。p45)

 

このような神々を敬うということは、神々の守りを信頼して、神々にふさわしい犠牲をささげる祭儀を行なうことにほかならなかった。そして、人間の敬神に対する神の恩恵の施しは、相互に授受する関係によって成り立っていた(*秀村欣二、前掲p46)。このような関係に立って、ローマ人が信じ受けいれていた神々は実に千差万別であり、わが国の八百万の神々に似た様相を呈していた。

 

ローマ人は国家神としてはユピテル、マルス、クィリヌス、ヤヌス、ヴェスタを信じ、その他に家族や氏族によって信じられていた固有の神々を祭っていた。なお、その上に、ローマの支配権の拡大と時代社会的要請のゆえに、イタリア諸族と南イタリア諸都市などから新来の神々を受け入れた。

 

そして、これらの移入の神々をも民族が祖先伝来、受け継いできた宗教であること、またこれらの宗教を破壊することは、民族性を破壊することを意味していたので、政策上の理由から国家神に加えることをも躊躇しなかった。こうして、ローマ人は、外来の宗教をローマ宗教の中に「包摂吸収」したのであった(*秀村欣二、前掲p46-47)。

 

ローマ人が外来の宗教を国家神に躊躇なしに加えていった態度は、非常に政策的な意図からなされたことは疑問の余地がない。彼らは占領部族や民族の伝統的な宗教は、その祭儀がローマ人の宗教と「公安・良俗に反しない限り(*秀村欣二、前掲p48)」公認され、国家的祭儀の中に受け入れられた。

 

要するに、ローマ人の宗教は国家的なものであり、またその宗教は本質的に祭儀の執行にあり、個人的な信仰としては認識されていなかったのである。このために、ローマ市民は国家宗教に対して忠誠を尽くす責任を課せられており、外来宗教の祭儀に参加する場合は、特に元老院によって許可されなければならなかった。

 

ユダヤ教は被征服民の伝統的な祖先伝来の宗教として、ローマ帝国によって公認されていた。ユダヤ人は、一神教に立ち、異教の祭儀には参加しなかった。彼らはローマの国家宗教の祭儀はもちろんのこと、外来の異教の祭儀にも参加しなかった。

 

それでもなお、一宗教として公認され、彼らの宗教と祭儀を守ることができたのである。これはユダヤ教がきわめて民族的な宗教であったことの他に、「霊的絶対的な真髄は、隠蔽されたままであったため(*ハンス・フォン・シューベルト「教会史綱要」井上良雄訳、新教出版社、1966年、p69)」である。

 

ところが、キリスト教はそういうわけにはいかなった。キリスト教は最初のうちは、ユダヤ教の中に含まれているものと考えられていた。ユダヤ教徒とキリスト教徒とが区別されることになったのは、ドミティアヌス帝の治世の終りごろに行なわれた取り調べの結果であるらしい(*シューベルト、前掲p70)

 

キリスト教徒はこの区別によって「父祖の宗教を棄てた」一つのセクトと見られたために、被征服民の祖先伝来の宗教とは認められなかったのである。さらに、ローマ人は、神々の怒りがキリスト者と異教社会に下っていると考えたので、あらゆる不幸や災害の原因をキリスト教徒にかけた。しかも、このような心情は古代末期のアウグスティヌス時代まで本質的には変わっていなかったのである。

 

以上述べたようなローマ宗教、ユダヤ教およびキリスト教の宗教事情の上に、キリスト教徒にとってはさらにやっかいな偶像礼拝がローマ帝国内に起った。それはローマ皇帝礼拝である。この皇帝礼拝成立の裏には、東方ヘレニズムの影響が見られる。(*秀村欣二、前掲p51)

 

ローマ帝国は東方ヘレニズム世界へ侵略の手をのばしていくと同時に、東方の支配者礼拝と直接関係するようになった。秀村教授はこの点に関して次のような有益な証言をしている。

 

「前197年、ティトゥス・クィンクティウス・フラミニウスは、マケドニアの圧制からのギリシャの解放者として、ゼウス、ローマ女神・・、ローマの信義女神・・とともに、救済者として祀られた(Plutarchos Titos, 16)

 こうして共和制末期には、ギリシャ人は、従来、平和と秩序の再建者としてアレクサンドロス大王とその『後継者たち』に捧げた神的栄誉を、ローマの将軍たちに帰するようになったが、それはやはりローマ女神やその他の神々との合祀者・・とされている場合が多かった。

 従って、カエサルが東方世界における勝利者として、以前の諸王に対すると等しく、現人神、、または端的に神とし、あるいは慈恵者、創建者などの尊称も結合して神的栄誉を捧げられたことは怪しむに足りない。

 このカエサルに対するヘレニズム的支配者礼拝の影響はローマにも現われ、前45年5月『不敗の神に』という碑文を刻まれたカエサル像が、クィリヌス神殿やカピトル丘上におかれることにより、支配者礼拝が公的に、元老院議決や民会議決によってローマに採り入れられたことを意味する。(*秀村欣二、前掲p51)

 

しかしながら、カエサルが神格化されることに対する抵抗が、共和主義者のみならず、ローマ市民の中にも潜在していたのであるから、以上に述べたヘレニズム的な君主礼拝がローマ市民ならびに上層階級の間に無条件に受け入れられたわけではない。

 

ところが、カエサルの悲劇的な死が、事態を一変させた。彼の死後の政治的、社会的な混乱を契機にして、ローマ的信仰の新しい型として、カエサルの神格化が起り、元老院が彼の神格化を決議したのである(*秀村欣二、前掲p52)。こうして、皇帝礼拝はローマ帝国内に始まった。しかも、この皇帝礼拝の強要こそ、キリスト教徒が苦難にあわなければならなかった主要な原因の一つである。

 

キリスト教が福音宣教とその受容の拡大とともに直面しなければならなかったローマ世界の宗教事情は、以上述べたようなものであった。それはすなわち、無数の神々を祭る多神教の世界であり、ローマ市民はローマの国家宗教のみを奉ずればよかったが、被征服民は自分たちの祖先からの宗教を信じる上に、ローマの国家宗教を受け入れなければならなかった。これに従わないことは、国家に対する反逆罪を犯すことと同視され、苛酷な仕打ちを受けることを意味していた。

 

ユダヤ教徒は一神教に固く立つものであったが、父祖からの宗教と認められ、ローマ帝国から寛容に扱われ、国家的祭儀への参加は免除された。しかし、これはシューベルトが批判しているように、確かにローマ側の「首尾一貫しない態度であった(*シューベルト、前掲p69)」。この矛盾を改めようとして、ユダヤ教への改宗は死刑をもって禁じられていたのである。

 

キリスト教徒は寛容を受ける対象にはされていなかったので、帝国側はクリスチャンにキリストを信じる上に、ローマの国家宗教を受け入れることを強要した。しかし、この強い圧力、ローマ国家宗教を受け入れるかあるいは死かという強圧に対して、多くのキリスト教徒は屈服せず、国家の宗教政策の前に自らの信仰の節操を守ったのであった。

 

われわれは次に、ローマの多神教世界にあって、キリスト教徒がどのように苦しんだかを見ながら、その中に、当時にクリスチャンの信仰内容を読み取っていくことにしたい。

 

キリスト教とローマ帝国との衝突

 

キリスト教とローマ帝国との衝突は、一方は権力も武器も持たず、他方は強大な武器と軍隊とを常備していたわけであるから、自らどのような様相を呈するか、おおよその検討がつく。すなわち、一方的に血を流されるキリスト教徒側の受苦というかたちで衝突がなされていったことは言うまでもない。

 

一般的に言って、ローマ人は血を好む人種であったと言えよう。古代ローマ世界では死刑を公衆の面前で執行することは普通であった。このような血を見ることをローマ人は喜んだのである。ローマにあっては、共和制の終り頃から、統治者によって、血を好む群衆の好みが、気晴らしや娯楽のために組織的に利用された。このことによって、群衆はますます堕落させられてしまったのである(*Daniel-Rops, op.p.166)

 

このローマ人一般の気風と精神の腐敗堕落が、キリスト教徒の血の迫害に一役買っていることは否めない。血を好むローマ市民を満足させるために皇帝たちは、ローマ人の面前でクリスチャンの血を容赦なく流して、血に飢えかわいている彼らの欲望を満足させたのである。

 

堕落した群衆の好みを満足させるために、最初にキリスト教徒を血祭にあげたローマ皇帝はネロ(54年ー68年)である。ネロの治世中の64年7月に、ローマ市に大火が起り、市の大半が焼けた事件があった。この大火は放火によるものであり、クリスチャンが放火したという罪名を着せられた。ネロは、こうして、キリスト教徒を放火犯人に仕立てて、彼らを迫害したのである。

 

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 皇帝ネロ

 

一体、なにがこの迫害の主因なのだろう。タキトゥスによると、キリスト教徒の「かくれた罪」と「人類憎悪」が迫害の主因であったという。かくれた罪とは、キリスト教徒が陰謀、魔術、人肉を食べること、近親相姦に耽っているといった類のものを言っており、人類憎悪とは、キリスト教徒はローマ国家と社会にあって法律と慣習によって生活している人々の敵であり、多神教社会全体を憎悪しているととられていたことを指している。

 

この人類憎悪という邪推によって、当時のキリスト教徒は迫害されたのである。この邪推を裏返してキリスト教徒の側から言うならば、それほどに当時のクリスチャンは自らの信仰に生きていたのだ

 

ネロ皇帝による迫害は、ローマ市に限定されていたが、これはローマ政府による最初の公式な迫害であった点に重要な意義があった。さらに、これは先例を作った迫害となった。

 

この迫害後、キリスト教徒が不当に受けた憎悪の結果生じたものは「汝ら存在すべからず」という、法律上の態度であり、これが後々にまで有効となった。こうして、キリスト教は長く法的に禁止された。いわゆる禁教となったのである。(*ヨゼフ・ロルツ「教会史」神山四郎訳、ドン・ボスコ社、1966年、p58)

 

ネロの次に見ておかなければならない迫害者はドミティアヌス帝(81年ー96年)である。皇帝の精霊によって誓約し、その像の前で献酒と焚香をしなければならず、また、皇帝を「主」と呼ばなければならなかった慣習はドミティアヌス帝に始まる(*秀村欣二、前掲p59)

 

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ドミティアヌス帝治下、迫害されるクリスチャン

 

そして、この慣習は、トラヤヌス帝とその後の皇帝たちに受け継がれたのである。共和制的な心情を持ち続けていた政治家、哲学者たちはドミティアヌスのこうした政策に抵抗したが、結局、皇帝によって追放させられたり、投獄されたり、処刑されてしまった。

 

この時点におけるキリスト者の迫害は、キリスト者であるだけのために迫害されたとはいい切れない複雑な政治的社会的要因が絡み合っていた。この時期の迫害は、納税を回避しようとしたユダヤ人に向けられた迫害であったが、ユダヤ教徒とキリスト教徒が区別されていない時であったので、後者は前者とともに迫害の中に巻き込まれたという要素がここには見られる。

 

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皇帝ドミティアヌス

 

しかし、この時点で特に記憶しておかねばならないのは、キリストのみを神とするキリスト教徒に対しては不利な事柄、すなわち、皇帝の霊によって誓い、その像の前に酒を献げ、香を焚き、皇帝を主と唱える習慣がドミティアヌスから始まったことである。

 

五賢帝時代(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスー96年から180年までの時代)における迫害は、トラヤヌスに始まる。ネルヴァ帝はキリスト教徒を迫害しなかった。次帝のトラヤヌス帝のキリスト教に対する態度は112年にビティニヤの監督であった小プリニウスと皇帝との間にかわされた往復書簡の中にうかがうことができる。

 

プリニウスはこれまでキリスト教徒の審問の経験がないので、クリスチャンという名そのものが処罰に値するのか、あるいはその名と結びつく犯罪が処罰されるのかよく分からないといいながら、彼がクリスチャンに対してとった態度を報告している。

 

この報告によると、プリニウスは三回訊問して、あくまでもキリスト教徒であることを告白しつづけるなら証人喚問もすることなく、総督の警察行政権によって属州民は死刑に処し、ローマ市民の教徒はローマに護送した。

 

密告によって告発されたもののうち、キリスト教徒であることを否定し神々の彫像とトラヤヌス皇帝の像に対して献酒、焚香、およびキリストを罵ることによってクリスチャンでないことを実証するならば釈放した。さらに、訊問の結果、キリスト教徒は「頑くな、度外れた迷信」を奉じている以外には民衆から疑いをかけられているような陰謀、不倫の行為はないことを報告している。

 

この報告は、キリスト教徒という名自身が処刑に値するというプリニウスの態度を明示している。また、この報告のとおり、ビティニア地方のクリスチャンはただその名のゆえに処刑されたり、ローマに護送されたのである。

 

ここでもやはり、ネロのときと同じように、彼らの信仰が神々と皇帝の像に献酒したり、香を焚くこと、その他の偶像礼拝の行為を拒否させるものであったことが分かる。

 

プリニウスは、一地方の総督でありながら、どうしてこのような勝手気ままな苛酷な処置ができたのだろう。それは当時、各州の総督あるいは知事は、警察行政権という広汎な警察権と行政権の全権を把握しており、「国家警察や宗教警察の職務執行も、この全権の中に含まれていた(*シューベルト、前掲p72)」からである。当時、キリスト教徒が扱われたのは、このような総督の処置によるものであり、刑事訴訟の方法によったのではなかった(*シューベルト、前掲p72)

 

以上のプリニウスの書簡に対して皇帝は次のような内容の返事を送っている。

 

すなわち、プリニウスがキリスト教徒という名そのものゆえに処罰したことは、原則的に正当な処置であったこと、彼らの処罰は官憲制の積極的な摘発手段によらないで、民衆側からの密告と告訴が事実であると判明したならば罰するべきである。

 

しかし、その場合、次の条件をつけよ、と命じている。告訴されたものがキリスト教徒であることを否認し、ローマの神々を礼拝することによってその否認を実証するならば、過去にどんなに疑わしい点があったとしても、そのものを棄教者として許すこと、さらに「無名で発行された小冊子は、いかなる告訴の場合でも全く無視すべきである」ことなどである(*ヘンリー・ベッテンソン「キリスト教文書資料集」聖書図書刊行会、1962年、p25-26.)

 

この返書の意義は、キリスト教徒という名それ自体が処罰に値することが公認された点である。これ以後、ローマ帝国内ではキリスト者はただその名の故に、正当な裁判手続きも省略され、ますます苛酷な迫害を受けることになった。

 

総督と皇帝との往復書簡に示されている処罰の規準は、「公安」に対する配慮であったことは明らかである。当時のキリスト教徒は公安を妨げる危険なものとにらまれていたわけで、これに対する処置も、政治的な思惑がからんでいたことは否めない。

 

トラヤヌスの後継者ハドリアヌスは、ミヌキウス・フンダヌスに対して、前総督のセレニウス・グラニアヌスの上申に答えるかたちで、キリスト教徒に対する処置を伝えている。

 

この中で、ハドリアヌスは属州民のキリスト教徒の告発に対しては確証が要求されること、そして、単なる民衆の怒号による告発は取り上げるべきでないこと、さらに、偽告発者は逆に処罰すべきであることをも命じている(*Eusebius, Ecclesiastical History, IV.9 Grand Rapids: Baker Books, 1966, pp136-137)。この命令から察するに、ハドリアヌスは、トラヤヌスの原則を踏襲しつつも、キリスト教徒に対していくらか緩和された態度をとったことが分かる。

 

敬神をもって知られていたアントニヌス・ピウスはキリスト教徒の肩をもって布告を書き、ギリシャの諸都市に、ローマ政府に反対する計画を企てるように見えない限り、彼らを苦しめてはならないと命じた(*Eusebius, op.cit., IV.13)

 

この皇帝の時代には、ローマの平和は属州にまで浸透したので、キリスト教徒もまたいくらかの平安を得た。しかし、ピウスに対して「救済者にして慈恵者」、「最も神的な皇帝」という称号が与えられて神格化がなされているとき、ローマの神々へ犠牲をささげることを拒絶したユスティヌスが6人の仲間とともに斬首された。

 

スミルナの監督ポルカルポスは「神々の破壊者」として民衆に告発され、「無神論者を除け」という怒号を浴びせられ、「皇帝の精霊によって誓え」という総督の命令を拒否したために、ピウスの後継者マルクス・アウレリウスの治下に殉教の死をとげている。

 

平和がローマ帝国内に広く浸透していたこの時代でさえも、神々に犠牲を供えず、皇帝崇拝を拒否するものは処刑されたのである。これによって、いかに帝国内にこれらの偶像礼拝が徹底しており、国家権力をもって偶像礼拝が強制されたかを読みとることができる。

 

五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスは、ストア哲学者でもあった。彼はキリスト者に対して好意的でなく、キリスト教信仰を狂信として嫌悪した。この皇帝のもとで、帝国内のゴート地方ではただクリスチャンであるという名のゆえに処刑される恐ろしい迫害が再発した。

 

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密告は明白に禁止されておらず、この地方ではキリスト教徒は大々的に逮捕され迫害されている。この場合も、キリスト者が国家の安全をおびやかすものと考えられ、信仰内容が国家の公安を妨げると受けとられ、きわめて政治的な理由から迫害されている。

 

この頃(178年頃)、ケルソスが「真正のロゴス」という書物を公にし、キリスト教徒はローマ帝国の統一と諸民族の神々による結合を不可能にするといって非難している。彼は多神教的な基盤によって統一が保たれている帝国を、キリスト教信仰そのものが危うくすると考えたのである。この非難からも、キリスト教徒の信仰が、国家の安寧秩序保持にとって危険な存在であると考えられていたことが分かる。

 

トラヤヌスの定めた「名それ自身」が処刑に値するという原則は、マルクス・アウレリウスのときにも受け継がれ、その後のコモドゥスのときにも踏襲され、クリスチャンはキリスト教徒であるという理由だけで処刑されていった。

 

この後も、地方的散発的な迫害が、小康状態の中にも続行した。そして250年のデキウス帝の最初の全帝国内の迫害の時までこの状態は続いた。この時期までの散発的地方的な迫害は、キリスト者という名それ自身が処刑に値するとみた官憲側の処置として迫害が起っているのを見ることができた。

 

この「名それ自身」が処刑に値するということの裏には、キリスト教徒が不道徳なことを避け、偶像礼拝を拒否し、公の軍務とか公務につくことを嫌った信仰内容が問題になっていたことは間違いない。こうしたクリスチャンの信仰からくる態度は、民衆の不信と嫌悪を招き、反クリスチャン感情をかりたてた。そして、この反感こそ250年以前の全キリスト教迫害の背後にある推進力であった(*"The Imeperial Crisis and Recovery, A.D.193-324," The Cambridge Ancient History, vol.XII)。

 

デキウス帝(249-251年)の時代のキリスト教徒迫害は、はじめてローマ帝国全土にわたる広範なものであった。また、その惨酷さは今までのどの迫害にも勝るものであった。このような広範囲な迫害を可能にする基盤となったものは、アントニウス勅令であった(*詳しいことは秀村欣二、前掲p69を参照のこと。さらに、この勅令発布の立法目的と結果については、弓削達「ローマ帝国の国家と社会」p59以下参照)

 

この勅令により、ローマ人の神々を拝まないものはローマ人としての権利と特権から除外されることとなり、キリスト教徒はローマ人の宗教的慣習に帰るために棄教を強制された。これを拒否することは反逆罪を成立させることになったのである。

 

この勅令を基盤としてデキウス帝治下に迫害が起った250年頃の教会の勢力は全人口の5%から12%であった(*ケアンズ、前掲p132)。したがって、この時代のローマ帝国側は、教会の勢力を心から恐れざるをえなくなったのである。帝国内外の情勢は緊迫しており、帝国の統一を維持しなければならなかった皇帝としては、精神的な分裂をもたらすキリスト教を目の上の敵にしたことはごく自然にうなずける。

 

デキウスは249年末に即位すると、数週間後にはもうキリスト教の教職者を逮捕する勅令を出している。エウセビウスは、先帝フィリップスに対する憎悪の結果、デキウスは教会迫害を開始したといっている(*Eusebius, op.cit., VI.39)。 

 

249年末に帝国の全国民が神々に犠牲を捧げ、これに礼拝を行ない、犠牲に捧げた肉と酒とを飲み食いするように命令した。この勅令は、250年になって執行された。ところが、「この勅令は本来キリスト教弾圧をもくろんだものでなく、前代のセヴェルス朝のときに流行したシリア系外来宗教より古いローマ宗教への復帰をはかったもの(*世界の歴史2ギリシアとローマ、中央公論社、1968年、p442-443)」であった。

 

しかし、キリスト教徒は、その信仰の故に、偶像礼拝の勅令を拒否したため、容赦なく逮捕、投獄、処刑され、ローマ帝国の組織をあげて全面的なクリスチャン迫害へと進展したのであった。

 

供犠の対象は、ユピテル、ユーノー、ミネルヴァ、ローマの女神、アポロ、ディアナ、ヴェヌス、ホメシス、皇帝自身の精霊など帝国を守護すると信じられていた偶像であった。皇帝は少なくとも年に一度は供犠をすべきことを命じた(*ケアンズ、前掲p129)。 

 

犠牲委員会なるものが設けられ、この委員たちの前で、一人一人が神々に犠牲を捧げることが強制された(*ロルツ、前掲p63)。そして、犠牲を供えたものにはリベルスという供犠完了証明書が交付された。このような措置は大勢の殉教者を出したが、また数多くのものが「今までの長い平和時代になれて儒弱になっていたので(*ロルツ、前掲p64)」棄教してしまった。

 

その他に、友人に贈賄したり、買入れたりして証明書を手に入れたものたちもいた。これらの人々は、実際に棄教した人々よりも、迫害中止後は苛酷には扱われなかった。棄教者も教会への再加入を希望しさえすれば、一定のざんげの手続きをへて許可されたが、信仰を守り通したものとの対立は免れなかったようである(*秀村欣二、前掲p73)

 

このような激しい迫害も、251年6月にデキウスがゴート人との戦いで戦死したために、約1年半の苦難で終わりをつげた。デキウスの後継者ガルスの約3年の時代も迫害は続いたが、地方的な規模に留まった。

 

全国的な迫害が復活するのはガルスの後を継いだヴァレリアヌス帝の時であった。彼は初めキリスト教徒には寛大であったが、即位後4年たった257年になって突然、態度をかえた。

 

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そして、第一勅令をこの年に発布し、まずすべての教職者に神々に犠牲を捧げることを要求し、また、キリスト教の礼拝と墓参りとを死刑をもって禁止した。彼ははじめは血を流すことを避けていたが、このような手段が手ぬるいと悟ると、死刑をもって教職者を苦しめはじめた。

 

ウァレリアヌスは258年に第二勅令を発し、供犠を拒否する教職者には死刑をもってのぞむことを明言し、この頃すでにキリスト者となっていた元老院議員、騎士、高官からは地位と財産を奪い、彼らが供犠を拒否するときには死刑をもって報いたのである。

 

また信者の上流婦人は追放され、宮廷と帝室領の役人とは財産を没収され、強制労働へと追いやられた。これらの措置には、ローマ上流階級からキリスト教を一掃しようとした意図があった。

 

これらのキリスト教徒たちは、その信仰が「ローマの神々と聖なる宗教の敵」であるという理由から処刑されたのであった。なぜならば、この時代のクリスチャンもまた、偶像礼拝とそれにかかわる一切の宗教行事を拒否し、生活の中で偶像にかかわる一切のことを避けて、キリスト教信仰を生活の中で実践していたからであった。この時代の殉教者は数百人を越えない人数であったらしい。

 

ウァレリアヌスはペルシャとの交戦中に捕虜となり奴隷にされてしまったので(260年)、その子ガリエヌスが後継者となった。彼は皇帝となると先帝の政策を転換し、キリスト教迫害を中止して、教会財産を返還し、教職者たちも自由にその職務にもどるように命じた(*Eusebius, op.cit., VII.13)。

 

こうして帝国と教会との間に休戦が成り立った。まだ、キリスト教は公認されてはいなかったが、休戦が約40年続いたので、この間キリスト教会の勢力は覆いに進展し、「帝国内の帝国」への道を一路邁進したのである。

 

特に東方諸州では信者の数は着実に増加し、属州の役人、都市の公職者、軍人が主を告白して信徒の群れに加わった。こうして、教会の仁てキ゚、財政的基礎はかたまり、次に迎える最後の大迫害を迎える頃には、皇帝の臣下の六分の一ないし十分の一がクリスチャンになっており、皇族の中にも信者が存在していた(*シューベルト、前掲p74)。