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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

異教文化を「聖別」?――フラダンスを用いたキリスト礼拝のあり方をご一緒に考えてみましょう。【ゴスペルフラ/文化と宣教/イマージング運動検証】

ポストモダニズムと聖書の真理 宣教(Missiology) 礼拝

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先日の記事の中で、ある姉妹が、教会の主日礼拝で催されるゴスペルフラダンスのあり方に良心のつまずきを覚え、苦悶しておられる旨をみなさんに共有しました。

 

その後も私は、「元々異教女神に捧げられていたフラダンスをキリスト教礼拝の中に取り入れる」という発想の源流(ルーツ)を追い求めてリサーチを続けていました。

 

そこで行きついたのがハワイのニューホープ・クリスチャン・フェローシップのウェイン・コディロ牧師の「文化」に対する思想および神学でした。ホノルルにある教会のHPを読むと、"New Hope is known for redeeming the arts and technology."と書いてあります。

 

つまり、ここには、「私たちクリスチャンは、芸術やアート、テクノロジーといった文化一般をredeem(贖う)ことができるんだ」という前提があるわけです。そしてこの前提を土台に、元々異教女神に捧げるダンスであった「フラ」という世俗文化・芸能をredeemして、イエス・キリストへの礼拝と賛美のために、そして宣教のために用いようと、そのように考えておられるのだなということが分かりました。

 

もともと異教神が祀ってあったカーバ神殿

 

こういった「異教文化をredeemする」という発想に関し、私は数年前に、非常に興味深い会話を耳にしました。

 

キリスト者の伝道者とイスラム教徒の方が「カーバ神殿」の起源について熱く議論していたのです。ご存知のようにイスラーム以前、メッカにあるカーバ(カアバ)神殿は元々多神教の祀ってある偶像礼拝の宮でした。

 

 カアバの歴史は非常に古く、イスラーム以前の時代にはアラビア人の信仰していた多神教の神々の神殿として使われ、アニミズム時代(ジャーヒリーヤ、無明時代)には、360もの神々の聖像が置かれていた。当時のカアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神はアッラーフであり、救済を司る神として崇められていた。

 また、アッラート、マナート、アル・ウッザーという三女神の父とされていた。アッラーフを除いた神々の中での最高神が月の女神であるアッラートであり、月経を司る五穀豊穣の老婆の女神であった。(引用元

 

そして、このキリスト教伝道者は、「あなたの信じる神がまことの神なら、その神は、そもそもなぜ偶像礼拝の宮をわざわざ『聖別し』『リフォームし』、ご自分の聖なる宮とする必要性があったのでしょうか?

 

神は全能なる方であり、無から有をお造りになる方です。そして神は聖なる方であり、偶像崇拝を忌み嫌われます。ですから、全能であり聖なる神は、異教宮を『リフォーム』するのではなく、むしろ全く新しい場所に、ご自分のための聖なる宮をお造りになることができたのではないでしょうか?」と相手のイスラム教徒にチャレンジしていました。

 

そうすると、このイスラム教徒の方は言葉に詰まり、「うーん、そういえば確かに、なぜ神はそうされなかったのだろう?」と再考している風でした。

 

イマージング・チャーチ・ムーブメントと文化宣教

 

またさらにリサーチを進めていく中で、ウェイン・コディロ牧師が、イマージング・チャーチ運動からの影響を受けておられることを知るに至りました。

 

例えば、2008年4月1-3日に開かれたAwaken2008というイマージング系のカンファレンスに、コディロ師は、有名なイマージング指導者リー・ストロベル(Lee Strobel)やウィロー・クリークのビル・ハイベルズ氏などと共に参加しておられます。ここを参照ください。)また、この検証記事を読んでも、それが根拠のない噂ではないことが分かります。(*このサイトでECと付記してある人々が、「イマージング系の指導者」という意味です。)

 

兄弟姉妹へのメッセージ

 

私自身も異文化の人々への宣教に重荷を持つ者として、「なんとかして一人でも多くの魂にイエス様の福音を伝えたい」という兄弟姉妹の純粋な愛やそこから流れ出る創意工夫に敬意を払っています。

 

しかし、いや、それだからこそ、私は同じ重荷を共有する同胞として、みなさんに一つの問いかけをしたいと思います。私たちの聖書の神は、本当にフラダンスという異教芸能を私たちがredeemし、それをキリストが礼拝される宮で上演することを正しいあり方だとみなしておられるのでしょうか。

 

そして、もしそれが正しいのなら、その根拠はどこにあるのでしょうか。神の属性である聖(holiness)と、この宣教メソッドとの間に摩擦はないでしょうか。クリスチャンは異教的なものや、偶像礼拝に対し、それに対峙(confront)するべきでしょうか。それとも、それをredeemし、リフォームして用いても差し支えないのでしょうか。

 

 

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