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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人間、そして人間のジレンマ(フランシス・シェーファー)

 

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写真家カミール・コタルバの作品 ”Hide and Seek":デジタル時代の人間疎外(引用元

 

Francis A. Schaeffer, He Is There and He Is Not Silent, chap.2より抄訳

 

本章では哲学的思想の中の二番目の領域である、人間および人間のジレンマについて考察していこう。これまで見てきたように、人間および人間のジレンマに関し、そこには二つの問題が存在している。

 

第一番目は、人間は、非人間とは異なり人格的(personal)存在であるが、依然として人間は有限な存在であるという事実である。そして人は有限であるがゆえに、彼自身の内に十分な統合点を持っていないのである。前述のジャン=ポール・サルトルが言ったように、「もし有限点が無限の標点を持っていないのなら、それは無意味であり不条理なものにすぎない」。

 

しかしそれにも拘らず、人間は、非人間とは異なっている。そう、彼は人格的な存在なのであり、非人間とは区別されるところの人間の「人間らしさ("mannishness")」を有している。これが第一の問題である。つまり、彼はその「人間らしさ」ゆえに異なる存在であるにもかかわらず、依然として彼は有限であり、自分自身の内に十分な統合点を持っていない。

 

人間および人間のジレンマに関わる第二番目の点は、いわゆる「人の気高さ(nobility)」と私が呼ぶところのものである。この語は過去のロマン主義を髣髴させる部分があるゆえにあまり好まれない語かもしれないが、それでもやはり、人間には感嘆すべきものがあると言わねばならない。しかしこれと対照的に、人にはまた残酷性がある。それゆえ、人はこういったすべての驚異・気高さと共にまた、人類史を通しそのおそろしい残虐性をも有してきたのである。

 

または次のように言いかえることができるかもしれない。諸倫理の領域における、彼自身および他の人間の「疎外」である。そしてここにおいて「倫理 morals」という語がもたらされるのだ。これまで私たちは形而上学上の問題に取り組んできたが、これ以後、諸倫理の領域に入っていこうと思う。

 

理性の領域には何ら回答がないという「回答」のことはひとまず差し置くとして、この倫理ジレンマに対する最初の回答は、(形而上学の領域におけるものと同様)非人格的起源(impersonal beginning)である。

 

人の有限性とその残虐性を鑑みると、両者はたしかに一つのものではなく、二つ別箇のものであるということが分かるだろう。人類はこれまで常に両者を異なる別箇のものとして捉えてきた。人間の有限性は、人の小ささである。彼は自分自身にとって十分な標点(基準点)ではない。そして彼の残虐性は彼の有限性とは一線を画したものとして常に捉えられてきたのである。

 

しかし私たちは次のことに気づかねばならない。つまり、もしもわれわれが非人格的起源を受け入れるなら、最終的に、「人の有限性」と「人の残虐性」が一に帰されるようになるという事だ。そしてこれは絶対的法則である。われわれがどんな種類の非人格性で始めようと――それがエネルギー微粒子の現代科学であろうが、東洋の〈汎なんでも主義〉であろうが、新正統主義であろうが――とにかく両者は二つというよりは一つの問題として次第に融合していくことになる。

 

非人格的起源をもってしては、倫理は倫理として存在し得ない。もし誰かが非人格的起源で始めるなら、諸倫理に対する回答は(たといそれがどんなに洗練された言い回しで表現されたにしても)「倫理は存在しない」という主張に最終的には行きつくであろう。非人格的起源と共に、やがて諸倫理は単に、形而上学の一形態、「存在者」の一形態に過ぎないものになっていく。こうして倫理は姿を消していき、二つではなくただ一つの哲学的領域が存在するようになっていくだろう。

 

そしてこの立場に置かれるなら、私たちは「何が反社会的か」「社会の嫌悪するものは何か」もしくは「私が好んでいないものは何か」という事は語れても、何が真に正しく、何が真に間違っているのかという事についてはもはや語れなくなってしまうのである。もしわれわれが非人格的なものから始めるなら、今日みられる人間疎外というのは単なる偶然の産物ということになる。

 

つまり、人は――宇宙がこれまで常にそうであったところの状態から逸脱した――非人格的存在になるのだ。だから、もし非人格的存在から始めるなら、人間のジレンマや、人間の緊張・葛藤は、けっして倫理の領域には見い出されないものになるだろう。こうして人は、これまで常にそうであり、本質的にそうであるところの宇宙との調和から追放されてしまうのである。

 

事の起源が非人格的なものだとみなすことにより、人は、偶然に――倫理的動き(moral motions)を含めた願望を持つ存在になる。人は「蹴り上げられ」そこで倫理的動作という感情が高じるのだが、その実、宇宙そのものには何ら意味がないのである。そして、これこそが究極的な意味における宇宙的疎外であり、われわれの世代のジレンマである。

 

 

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ジャコメッティの作品に登場する人間像。互いに疎外されており、観察者からも疎外されている。

 

 

われわれの世代の問題は、倫理的領域を含めた、こういう宇宙的疎外感である。人は倫理的動きに対する感情は持っている。しかし、そういった彼の感情は〔宇宙の中で〕そこに存在するものと完全に調和を失っているのである。

 

 

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  Silent cafes attract solo Japanese in search of peace, The Telegraph引用元

 

 

なぜ「倫理的動き」という言葉を使っているのかとあなたは尋ねるかもしれない。私がこの語を用いている理由は、それが特定の規範のことを言っているわけではないからだ。つまり、私は、人間というのが常に、「正しいことと間違っていることの間には相違がある」ということを感じているという事実について語っているのである。

 

あらゆる人間には倫理的動きというこの感覚が備わっている。これの備わっていない人間は古の世界には存在せず、「倫理としての倫理は存在しない」と言っている決定論者や、行動心理学者の内にさえ、これは備わっている。それゆえに、人は倫理的動作感を築き上げるも、その実これは、完全なる宇宙的疎外感へとわれわれを導くに過ぎないのである。

 

なぜなら、もしわれわれが事の起源を非人格的なもので始めるなら、この宇宙において、倫理としての倫理の存在し得ないからである。そしてこの宇宙において、「正しい」とか「間違っている」とかいう言葉に最終的意味を与えるような基準は何も無く、それらの語に関し、宇宙は完全に沈黙しているということになるのである。

 

、、しかし最終的に、東洋の汎神論および新神学を突き詰めていくと、われわれは、正当に「正」であるのか「誤」であるのかを語れないという地点に来ざるを得なくなるだろう。

 

もっとも西洋版の〈汎なんでも主義〉においては、人々は少なくともこの結論だけは何とか避けようとしている。そしてなんとか残虐性と非残虐性の間の区別を保ち、「正しい」ないしは「間違っている」という語に、もはや何ら基本的意味が付随されていないということへの認識を今も保留しようとしている。しかしそれは不可能な話だ。というのも、この主義自体が、下り坂を転がり始めた石の様なものだからである。

 

非人格的なものから始めるなら、たとい宗教的用語やクリスチャン用語で繕っても、所詮そこには最終的絶対はなく、正誤に関する最終的カテゴリーも存在しない。それゆえ、そこに残るのは、さまざまな文化圏の中でさまざまに表現される言葉であろうが、それらはいずれも――社会的に、統計学的に、状況的に――相対的なものであって、それ以外の何物でもない。平均基準という意味での、状況的・統計学的倫理というのはあるいは存在するかもしれないが、そこに倫理性は存在し得ないのである。

 

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     引用元

 

つまり、こういった状況において、「正しい」という事は、「間違っている」という事と同じくらい無意味でものになる。倫理としての倫理は消え失せ、そこに残るのは単なる形而上学であるに過ぎない。われわれは巨大なものに対峙する矮小なものに過ぎず、正誤に関し、そこに何ら意味は存在しないということになるのである。

 

イザヤ45:22

地の果てのすべての者よ。

わたしを仰ぎ見て救われよ。

わたしが神である。ほかにはいない。