巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人生の目的は何であるか(三谷隆正)

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三谷隆正(1889-1944)

問題の所在

新約聖書マルコ伝10章17-28節

 

人生の目的は何であるか。

これはすべての人生問題中での最大問題であります。然しこの問題は、生きた人間の問題であって死者の問題ではありません。死んでいる者は生きて居りません。生きていなければ又生きるについての問題もありません。

 

人生は、人生を生きている人、また生きるべく決心している人にとってのみ真剣な問題であります。生きることを否定してかかれば、その瞬間から人生問題はなくなります。

 

ゆえに人生の目的が何であるかを問題とする以上、まず生きる決心を固めてかかる必要があります。そうでなければ問題それ自身が真剣沙汰になり得ません。

 

そういうと多くの人は反駁して言うでしょう。自分たちにとってはそもそも生きるべきか否かが問題なのだ。生きることに決心するためにはまず、何の為に生きるのかを明らかにしなければならぬ。まず人生の目的如何が分かってから、しかる後に生きることに、または自殺することに決めたいのだ。そういう風に言います。

 

しかしそれは順序が違います。それは抽象的な概念的理論の順序でありまして、具体的実践的な人生の順序ではありません。生きたる人生は、その逆の順序をとって進むものであります。

 

例えば、一生の事業として学問を選ぶとする。それはまず学問の意義目的が分かっていて、しかる後一朝にして決まることではありません。学問の意義目的が分かるまでには、かなり学問の道にいそしんでみなければなりません。そうやって励んでいる間に、徐々として学問の意義目的が納得できてくるのです。そうしてついには学問を以って、一生の仕事たらしめてもいい、自分の一生を学門の為に捧げようという決心がつくのです。

 

だからこの決心は、いわば自分であらかじめそう決心するように仕向けていって、その自らなしたる準備が整った時分におのずから出来上がったようなものであります。まずこの自らなしたる準備とそれに伴う一種の冒険となしに、すなわちまず学問をやってみることなしに、一生の目標を学問に決めるというような決断ができるものではありません。

 

只に学問のことに限りません。商売をするのでも、はたまた結婚をするのでも、いやしくもある具体的な生き方の左右を決めるのに、冒険なしに決めようなどと思うのは、人生を知らぬ考え方です。人生とはそんな虫のよい不精を許しておくようなのんきな問題ではありません。

 

まず怠らず学問せよ。しかる後、学問の意義が分かります。まず先に商売に勉強励せよ。しかる後、商売の意義が分かります。同じように、まず忠実に生活せよ。しかる後、人生の目的が何であるかを悟り得るにいたります。

 

すなわち、まず忠実に人生を生きるべく決心するのでなければ、人生の目的如何を悟るための資格が備わりません。だから、人生の目的如何を考える以上、まず固めてかからなければならぬことは、真面目に生きようという決心であります。この順序を逆にしようとして、不精に座り込んでいたのでは駄目であります。

 

すなわち真剣に生きるべく決心し、敢然として生活に突進していくだけの勇気のある人のみが、真実、人生の目的如何と問う資格のある人です。ゆえにまた、真剣に人生の目的如何を考えつつある人にとっては、生きることそれ自身が真に貴いことであります。すなわちまた、真の生命ほど貴いものはないのであります。いかにして真の生命を得、その生命を生きることによって人生の目的を実現しようか、これはすべての真面目なる生活者にとってきわめて緊急なる実際問題であります。

 

すなわち真面目なる生活者にとっては、人生の目的と真の生命の獲得と、この二つは離るべからざる関連にある問題であります。真の生命の獲得という問題を棚にあげておいて、ただ抽象的に人生の目的如何とのみ考えるのは、たとえば材料の問題をよそにして置いて、架空な設計図ばかり考案しているようなものであります。設計だけでは人生は始まりません。生命の充実なくして、真の人生が成就する筈がありません。

 

これだけの事を頭に置いてから、マルコ伝10:17以下を読んでみると、ここに走り来たりてイエスに教えを乞うた紳士が、きわめて真面目な生活者であったことが察せられます。それは「永遠の生命を嗣ぐためには、我なにを為すべきか」という彼の問い方で分かります。

 

彼は人生の問題のうち一番緊切な問題は、永遠の生命を嗣ぐことであると考えていたのであります。ゆえに彼はこの根本問題をひっさげてイエスのもとに走り来たりました。彼の問題の提出の仕方は正しい。ゆえに「イエス彼に目をとめ、いつくしみて言い給う」と記されてあります。

 

パウロも「神の国は言(ことば)にあらず、能力(ちから)にあればなり」と申しました(1コリ4:20)。人生の最大問題は言(ことば)ではありません。力であります。概念でありません。生命であります。従って、信仰生活における最大問題も、言でなくて力、教理でなくて生命であります。

 

ここにキリスト教が単に哲学的なる理想主義と大いに異ふ点があります。この意味においては、キリスト教は理想主義的でなくて、むしろ現実主義的であります。神の国とは、けっして空な夢を語るものでありません。もっとも現実なる生命とその力との源であります。

 

すなわち人生における最大最深の問題は、どこからこの力、この生命を獲るかということであります。キリストはこの生命を与えんために我等の間に来たまいました。単に神についての概念を明確にし、道徳律の内容を教え示すために来たまえる神の子ではありません。それだけのためならば、十字架の死は多分無用であったでしょう。古の預言者の教えだけで、多分事足りし筈であります。

 

キリスト者としての我らの中心問題の所在は、とこしえなる真の生命であります。キリストは単なる教師でありません。生命を賜う者であります。信仰とは教理を理解することでありません。如実に生命と力とをいただく事であります。

 

しかるに古来、多くの学者たち、宗教家たちが、この問題の所在を見誤りました。すなわち、彼らにとって人生の根本問題とあ、生命それ自身の獲得よりも、生命の流れて来たるべき行路の確定でありました。言い換えれば、生きる力それ自身を求めるよりも、己が裡にありと信ぜられたる力を、いかに向け且つ伸ばしたらいいかという問題であります。

 

ゆえにたとえば、孔子が教えましたように、人生の最大問題は「道」であります。道に志し、道を学び、道を行なうことであります。その道が問題であって、道を行なう力、この力の泉なる生命ではありません。またこれが古来なべての道徳論に共通なその心的態度であります。

 

そうして同じような心的態度が古来多くの宗教の基底にありました。そういう宗教においては、信仰とは神の前に正しいとせらるる所の道を悟ることであって、その悟りを生かして実現していく所の力を神から受領することではありませんでした。力は我らの裡にすでに存するのでした。

 

この既存の力、いわゆる善根をみずから伸ばしていくこと、そのために正しき道についての正しき智識を獲得すること、それが信仰の根本でした。だから信仰とは、道についての一種、超自然的な神々しき悟入でありました。知的な問題であって、生命的な問題ではありませんでした。したがってまた、信仰とは静かに神を観照することであって、神の賜う生命を満喫して盛んなる活力に溢れることではありませんでした。

 

同じような心的態度が、キリスト教界内にも早くから現われました。そうして現在も、多分大多数の信者を拘束して、かれらの霊の自由を圧しつつあると私は考えます。今でも多くの人が、生命と力のためよりは、道を聞くために教会に行きます。聖書を研究します。もちろん道また軽んずべからずであります。イエスも我らを戒めて、一歩といえども道を外れてはならぬと仰せ給いました。

 

しかし道だけの事ならば、モーセがあります。孔子があります。ソクラテスがあります。イエスがこれらの預言者や哲人たちにまさって、否、全然異なって、われらの救い主たるキリストであり給うゆえんは、道において存せずして、とこしえの生命においてあります。

 

キリストは生命の主でありまして、道の教師ではありません。彼は単に教え給わずして、救い給います。いましめ給うのみならずして、みずから我らの手を捕えて引き起こし給います。こうした生命的関係が救い主キリストと我らとを結びます。悟入というような知的関係ではありません。生命と生命との人格的接触であります。この人格的関係を名づけて、キリストは愛の関係とのたまいました。

 

この愛の態度が、信仰における心的態度でなければなりません。少なくともキリスト教的信仰は愛の態度以外の心的態度に根拠することはできません。その信仰上の根本問題が人格的な生命摂取の問題であって、知的な悟道の問題でないから、キリスト者の、キリストと神とに対する心的態度は、孔子先生やソクラテス先生に対すると同じものであることができません。

 

我らは孔子やソクラテスから道を教え示され得ます。しかし生命そのもの、力そのものを受領することはできません。しかるにキリストは、我らにとって生命と力との源であります。彼に頼みて我らの裡に生命溢れるのであります。

 

走り来たり、跪いてイエスに教えを乞うたユダヤ紳士は、その人生問題の握り方において、正しくありました。人生問題の根本はまさに彼の言いしごとき生命獲得の問題であります。しかしこの正しき問題に対する正しき解答をいかにして得るのであるか。

 

その点に関して、彼の心的態度に重大な誤りがありました。富み、且つ貴かりしこの紳士は、その高雅なる稟性と教養とにより、人生の価値が那辺にひそむかについては、すぐれたる洞察を持っていたでありましょう。それにも拘らず、彼は問題の究極について、まだ考え方が徹底しておりませんでした。

 

生命を求めながら、彼はまだ真の生命を求むるすべてを知っておりませんでした。この彼の誤りを証するものが、「善き師よ」という彼の呼びかけであります。すなわちまたイエスが、「なぜ我をよしと言うか?」と言って、彼を咎めたまいし所以であります。

 

、、人生におけるもっとも深い問題は生命獲得の問題であります。この話の主人公たるユダヤ紳士の話をもって言えば、永遠の生命を嗣ぐことであります。しかし生命を嗣ぐことは、生命を嗣ぐことであって、単に生き方を、その道すじを教わる事ではありません。生命獲得の問題であって、五倫教示の問題ではありません。生命を求めると言いながら、生けるいのちそれ自身を求めずして、善き師の善き教訓を聞こうとのみ考えるのは、問題それ自身を正解せざるものであります。

 

問題は生命の欠乏にあります。道徳的知識の欠乏に存しません。そもそも道徳が問題なのではありません。活ける生命が問題なのです。ふむべき道は知らぬのではない。その道をふみ行く力に欠けているのです。その力をどこからか貰わねばならぬのです。だから生命を求めるのです。

 

、、永遠の生命を嗣がんがために、我らのふむべき第一歩は、「善き師よ、我なにを為すべきか?」と言って、道徳的知識を求めることではありません。「主よ、我を救いたまえ!」(マタイ14:31)と言って、キリストにすがることであります。「汝らは、聖書の永遠の生命ありと思ひて之をしらぶ。されどこの聖書は我につきて証するものなり」(ヨハネ5:39)とあります。

 

聖書知識は、我らに永遠の生命を与えません。ここに聖書と言ってあるのは旧約聖書のことでありますが、新約聖書についてもこの聖句は文字通りあてはまります。聖書は道理を教えるための教科書ではありません。活ける神の子キリストを伝え、彼に於いて神の賜う、活ける生命を約束せる公約書であります。我らがイエスの前に跪くのは、我らの救い主イエス・キリストから、豊かなる生命をいただくためであって、単に道をきくためではありません。

 

イエスは先生ではありません。我らの救い主にして神であります。このことを悟らずして、イエスに来たりて単に道をきくものは、よしやその人がその所有全部を売ってこれを貧者に施そうとも、永遠の生命を嗣ぐことはできません。

 

かの紳士は、財に於いて富める人でありました。また身体に於いて「若者」でありました(マタイ19:22)。その上に、その社会的地位において「司(つかさ)」であったようでありますから(ルカ18:18)、その当時における、富みかつ貴き階級の一人であったのでしょう。加えるに、高雅なる品格を具えた有徳の君子人であったらしくあります。すなわち彼はあらゆる意味において富める人でありました。

 

財と才と地位と三拍子そろった富裕者でありました。彼ほど、物的と心的と両面において富裕である時、その彼がおのれの生命の貧しさに気づき、貧しき思いをもって生命を求めるようになることは、たしかに難き事であります。まことにラクダが針の孔を通るよりも難き事であります。

 

ゆえにイエスは言い給いました。「さいわいなるかな貧しき者、神の国はなんじらのものなり」と。必ずしも財における貧富を言うのではありません。心の貧しき者が幸福であります。我らに恃(たの)むべき才や財やの豊かなる時、われらの心は富みかつ足りて乏しきを悟らず、求むることを忘れがちであります。その意味において、富める者の生命を得、神の国に入ることは難くあります。

 

しかし貧しきものは幸福であります。彼はおのれの乏しきを知っております。たのむべく誇るべきものの己にないことを知っております。その心、その貧しき心こそ幸福なるかなであります。

 

貧乏はつらくあります。才の貧しいのも、健康の貧しいのも、すべての貧乏がらくではありません。殊に、われら精神的に多少の自ら恃むところがあって、そのゆえに自ら富めりと自信して居ったのに、その自ら恃みしところが砕かれて、われらの自信が木っ端みじんとなってしまう時は、われらが最も痛切に自家の貧しさを感ずる時であって、また人生における最も苦しい経験のひとつであります。精神的なる富が、唯物的なる富以上の富として感ぜられるように、精神的なる破産の苦みは、唯物的なる破産の苦みに百倍千倍する苦みであります。

 

自分も多少の信念は有っていた筈だ。信仰もあったつもりである。しかるにこのざまは何たることか。ああ、自分の信念、自分の信仰、それらはかくも力ないものであったのか。自分はこれほど弱くまた愚かなものであったのか。そう悟って我とわが痛ましき姿をかえりみる時、我らの悲しみいたみは言語を絶します。

 

しかし幸福なるはかかる痛苦の時です。打ちのめされてくずおれ切ったる心であります。その貧しさの極みなる心であります。その時その心はまっすぐにイエスを見上げて、無条件に彼にすがることができます。それは自己については虚無な心であります。

 

ただ仰ぎて生命と救いとを求むるより以外にすべも知らず、自信もなきものであります。その純なる求むる心こそ我らをして真に生命を求めしめ、よりてまた獲得せしむる心であります。その求むる所は最早、単なる道でありません。生命それ自身であります。

 

人生の目的は何であるか。これは空に考えて解る問題ではありません。まず生命を獲得する必要があります。ゆえにまた先ず生命を求める必要があります。ゆえにまた、貧しき心が必要であります。而も我らの心貧しくて甚だくずおれてある時、その時は真に幸福なる時であります。

 

なぜならば斯る貧しき心のみが、真に生命を求むる心であり、また生命を満喫するに適当な飢えたる心でありますから。斯くてまた真の生命を満喫する時、生命それ自身に併せて、いのちの目的はもっとも鮮明に悟られ得るのであります。それまではすべての人生目的論が、架空な議論であります。

 

ーおわりー