巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「神中心の神学」と「人間中心の神学」――ポストモダン思想の三大特徴(スティーブ・ゴールデン)

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Steve Golden, Starting Points, The Influence of Postmodernism より一部抄訳

要約

ポストモダニズムの哲学は、次に挙げる三つの思想に基礎づけられています。①究極的真理は存在しない、②言語というのはコミュニケーションをする上でとりわけ効果的なものではない。時間的・文化的距離がある際には特に。③言葉の意味は、主としてテキストの読み手によって決定される。そしてこういった諸原則が聖書解釈にもたらす影響として、それらが無用なものとみなされる事が挙げられます。聖書学者たちは単に言葉を再定義し、そうして自分にとって最も合意のいく意味を選べばいいのです。こうして人間の言葉が聖書解釈の出発点となっていきます。

 

本論 

ポストモダニズムの諸理論およびそれらがクリスチャンの聖書観や世界観にいかなる影響を及ぼしているかを考察する前に、まず、こういった世俗の諸思想が私たちの物の考え方にいかに微妙な影響を与えているかについて理解することが大切だと考えます。1

 

コロンビア国際大学の元学長であるロバートソン・マックキルキンおよび、コロンビア聖書神学校のブラッドフォード・マーレンは、ポストモダニズムが聖書解釈の領域に挑戦を与えている、鍵となる三つの領域を次のように要約しています。

 

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 Robertson McQuilkin

 

.不変にして、究極的な真理は存在しない。

.言語は、他の人の思考に正確にコミュニケートすることはできず、時間的・文化的距離により、そういった試みは尚更、効果のないものになる。

.言語の不十分性は必ずしも悪ではない。なぜなら、意味というのは、彼岸にあるもの(他者の言葉を含めた物や出来事)と、此岸にあるもの(自分自身の主観的感覚)の組み合わせで構成されているからである。たしかに他者の言葉は語形成の役割を担っているけれども、支配的要素というのは、私自身がそのテキストに何をもたらすかである。2

 

第一番目の争点は、あらゆる思想や哲学を貫く真理の基準が存在するのか否か、という点にあります。ポストモダニズムについてある程度調べた方なら確実に「真理は相対的である」という言述を耳にしたことでしょう。この自己矛盾した一般フレーズは、第一番目のポイントに直接関連しています。また、究極的真理というものは、脱構築がなんとか崩そうとしている観念そのものでもあります。

 

二番目の争点は、コミュニケーションに関連することです。ポスト近代はしばし、言語ゲームに帰着します。つまり、言葉は、本来その明確に意味するところを意味せず、もしくは「私たちの文化は、古代文化がその意味を理解できていたようにはもはや理解することができない」というのです。確かに、どんなテキスト理解であれ、私たちがそのテキストの書かれた当時の文化を知ることでより一層理解は深まります。だからこそ、私たちの取り組むテキストの歴史的・文化的背景を知ることは非常に大切です。

 

しかしながら、今日、ある種の聖書学者たちはそこをはるかに行き過ぎ、次のような主張を繰り広げるようになっています。「その当時の文化はこういった諸概念を理解することができなかったのだろう。だから、私たちは彼らがどのように考えていたのかを学ぶ必要があり、自分たち自身の――より発達した思考を――彼らの考えの上に押し付けるべきではない」と。しかしながら、聖書解釈の領域における、この手の主張の問題点は、「他の諸文化や時代は、現代のそれより知的ではなかったのだ」という彼らの前提にあります。こういった学者たちは、「時間の経過=進歩」だという誤信をしてしまっています。尚、文化的距離という思想においては、それを主張する学者によってさまざまな主張ヴァリエーションがあります。

 

さらに、ある聖書学者たちは、「神は、文字通りの永続的真理を人間にコミュニケートすることができなかった。神はある意味、文化的理解よって束縛されていたのだ」とさえ結論づけています。しかしこの主張は、聖書の十全性という真理に相反しています。聖書は、神の御意図により、いつの時代にも理解可能なものです

 

そして三番目の争点は、「意味」一般に関することです。人は自分が読んだり見たりするものの内に、自分の〈外側〉に存在する究極的意味を見い出すことができるのか?信仰者はこの問いに対し、神の御言葉をベースに「然り。見い出すことができる」と力強く答えることができると思いますが、それに反し、ポスト近代のレンズを通してこの世界を見ている人は「否。見い出すことはできない」と回答せざるを得なくなるでしょう。

 

不幸なことに、「テキストには、それ自身としては意味がほとんど存在せず、意味をもたらすのはあくまで読み手その人なのだ」という物の考え方は、私たちの教会にもかなり浸透してきています。例えば、聖書の学び会などで次のような質問を受けることはありませんか。「ここの聖句は、あなたにとってどういう意味がありますか?」と。聖句に関する参加者それぞれの捉え方・考えを集めていく一方、個人の主観的感覚の〈外側〉で聖句が言明している内容に直接向き合い、取り組んでいくことを避けるといった現代の傾向は、ダイレクトにポストモダン思想の線に沿ったものです。3

 

人間中心の神学

このように私たちの「物の考え方」の領域に侵入し、聖書が教えている事とは異なる「真理」を主張しているポストモダンの諸見解――。これらの根幹にあるのは一体何なのでしょう。そうです、それは人間中心の神学です。自律を欲したアダムとエバが神の御言葉を疑うことを選び取り、主の掟に従わないことを選び取ったように、私たちの多くもまた、聖書の中で「同意しがたく不快な」箇所を脇に打ちやり、「自分たちの方がよく知っているのだから」と言わんばかりの態度で生きているのです。

 

1.As noted in the introductory article to this series, Andrew Fabich makes a compelling case for why the term postmodern should be replaced with antimodern and neomodern, depending on the specific philosophy. However, for the purposes of this series, postmodern will serve as a catch-all term for ease of reading. For more of Fabich’s argument, see “Time to Abandon Postmodernism: Living a New Way,” Answers Research Journal 4 (2011): 171–183, www.answersingenesis.org/articles/arj/v4/n1/abandon-postmodernism.

2.Robertson McQuilkin and Bradford Mullen, “The Impact of Postmodern Thinking on Evangelical Hermeneutics,” Journal of the Evangelical Theological Society 40, no. 1 (1997): 69–82.

3.Of course, in the arena of application, we might ask, “How does this passage apply to us?” That question requires us to deal with the content of the passage and is the appropriate and expected conclusion of any study of Scripture.

 

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