巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「でも、プリスカは男性伝道者アポロに教えませんでしたか(使徒18:26)?しかも彼女の名前は夫アクラの名前よりも『先に』書かれています。ですから、聖書は女性の霊的リーダーシップを認めているのです」という主張はどうでしょうか。

 目次

 

John Piper & Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhoodより翻訳

 

「しかし、プリスカはアポロに教えませんでしたか?」

 

質問

しかし、プリスカはアポロに教えませんでしたか(使徒18:26)?しかも、彼女の名前は、夫アクラの名前よりも「先に」書かれています。この事が示しているのは、初代教会の慣習において、女性が、教会の教職から排除されていなかったということではないでしょうか。

 

応答

私たちは、プリスカが、パウロの同労者であったことを大いに認めています(ローマ156:3)!プリスカと夫アクラは、コリントの教会でもエペソの教会でも非常に影響力がありました(1コリ16:19)。今日の教会にも、プリスカのような女性はたくさん存在しています。クリスチャン夫妻が、未信者(あるいは少し混乱している信者)の元を訪れた際、妻は黙っていなければいけない、ということは聖書は言っていないと私たちは理解しています。

 

イエスの御名によるバプテスマや御霊の働きについてプリスカがどのように説明し、貢献したかという、そのダイナミズムは想像に難くありません。しかしこのダイナミズムは、パウロが1テモテ2:12で女性たちに禁じている、公的で権威の伴う聖書講解とはかなり異なっています。それでは、そのような状況において、私たちはどのように振る舞うべきなのでしょうか。

 

私たちはこれを単純化しすぎたり、女性や男性が「この場合は~~できる/できない」というような人為的な規則のリストを作ったりしたくありません。むしろ、これは、プリスカの知恵や洞察を押し込めたり、黙らせたりすることなく、かつ、夫アクラのheadshipに敬意を示すという、個々のダイナミズムにおける繊細なあり方や姿勢が要(かなめ)となる領域だと思います。

 

ここの聖句からは、プリスカとアクラとアポロが、実際に、互いにどのように関わっていたのかというスピリットやバランスについては説明し得ません(知り得ません。)ただ分かるのは、フェミニストの再構築している「プリスカ像」というのもまた、根拠のないものであるということです。そしてプリスカが、権威を伴う教職に就く権利を持っていたのか否か云々の問題は、私たちがほとんど情報を知らないある一つの出来事をベースに構築できるものではありません。

 

また、「妻プリスカの名前が、夫の名前よりも先に書いてあることが、プリスカが指導者であったことを示しているのだ」という主張についてですが、それも単なる推測に過ぎません。ルカは彼女の名前を先に書くことで、女性に対し敬意を示したいと思ったのかもしれませんし(1ペテロ3:7)、私たちには知り得ない何か別の理由でそうしたのかもしれません。

 

「新約聖書のプリスカの例は、女性が当初から、権威を伴う教えをしていたことの証拠だ」という主張は、繰り返し繰り返し、福音主義フェミニストによってなされ、そこから、彼らは「これこそが、ジェンダーを基にした男女間の役割の相違を否定する、何よりの聖書的根拠だ」と結論付けようとしています。しかしながら、プリスカに関する彼らのこういった主張は、不正確かつ根拠のない推論です。そして、妥当でない推論をいくら積み上げても、それは「何よりの聖書的根拠」にはならないのです。

 

このテーマに関し、さらに考察を深めたいみなさんへ

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 5(拙訳)

 

対等主義者側の主張

 

プリスカとアクラは、アポロに、神の道をもっと正確に『説明』しました(使18:26)。ですから、女性は教会の中で男性に聖書を教えてもいいのです。

 

この主張は、多くの対等主義の著述家によってなされています。アイダ・スペンサーは次のように述べています。

 

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 「プリスカは自身が有能な教師でした。使徒18:26を読むと、ルカは『それを聞いていたプリスカとアクラは、彼(アポロ)を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した』と記しています。Ektithemai(説明する)という動詞は、『公的な言明そして解説』という意味を含んでいます。」*1

 

リンダ・ベレヴィールは、「これはパウロによってなされた教えと同じ型の教えであった、なぜなら、両者には同じ単語が使われているから」と言い、次のように書いています。

 

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「〔使徒18:26において〕ルカは、プリスカとアクラがアポロに、神の道を説明("expounded", exethento)したと言っていますが、この動詞は、ルカがパウロの教えを描写する時に使った動詞です。「〔パウロは〕神の国のことをあかしし(exetitheto)」(使徒28:23)。ですから、教会の発展における現段階において、それが、プライベートな形でか公的な形でか、もしくはフォーマルな形でかインフォーマルな形でか、と区別を設けようとするのは、時代錯誤な試みと言わざるを得ません。」*2

 

スタンリー・グレンツは、この文脈において、それが公的な教えであったか、プライベートな教えであったか正当に区別することはできないとし、次のように言っています。

 

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「相補主義者側の主張とは裏腹に、使徒の働きのここでの聖句は、明らかに教会の中における女性による『権威を持った教え』を指し示すものです。この聖句には、これが家でなされたプライベートな教えなのか、それとも、教会でなされた権威を持った教えなのかについての区別をつける根拠はどこにもありません。この聖句の出来事をもって、「公的な教えのリーダーシップ」と「非公式なガイダンス」を区別しようとする試みは、神の民の中における「権威ある教え」と、いわゆる「非権威(nonauthoritative、インフォーマルな)な教え」に細かすぎるライン引きをするようなものだと言えます。」*3

 

ギルバート・ビレズィキアンとなると、さらに論が推し進められ、私的な会話の事が記してあるこの一節を基に、彼は、プリスカとアクラに、「神学校教官」の地位を授与しています。*4

 

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「実際的な目的遂行のため、プリスカとアクラは、前途有望な牧師の卵である学生に、神学校教官としての役割を果たしたのです。二人は、キリストの生涯における贖罪的出来事および、その神学的重要性を、(それについて知らなかった)アポロに説き教えたのです。」 *5

 

回答1.

聖書は、男女が、みことばや教理について共に話し合うよう奨励しています。

 

第2章で取り扱ったように、使徒18:26は、男女が、私的な話し合いや、小グループでの学び会の場で、聖句の意味について共に話し合うことを奨励しているすばらしい箇所です。そして、これは歴代、世界中のクリスチャンたちによってなされてきたことです。*ですから、このこと自体はまったく問題ではありません。*6

 

回答2.

「プライベートおよび公的な教えの間には区別がない」と主張することは、――①テクストの語と②文脈という――解釈における二つの根本的要素を無視することです。

 

ベレヴィールとグレンツは、「プリスカとアポロの会話」と、「パウロによってなされた公的な教え」の間に存在する相違を否定していますが、それはとりもなおさず、このテクストの特定語を無視することにつながります。

 

使徒18章のここの聖句では、プリスカとアクラが公的に教えたのだと読み手に誤解を与えないよう、「それを聞いていたプリスカとアクラは、『彼を招き入れて(they took him)』、神の道をもっと正確に彼に説明した」(使徒18:26)とわざわざ記されてあるのです。

 

「彼を招き入れて」という句から指し示される事は、二人が彼に話しかける機会を待っていて、公衆の面前から少し離れたところに彼を呼び寄せた、ということです。*7

 

そしてこの文脈が指し示すのは、これが「彼は会堂で大胆に話し始めた」(使徒18:26a)というアポロの公的スピーチとは対照的な行為であったということです。グレンツは、この聖句には、そのような区別を設ける「根拠はない」と言っていますが、彼はここの聖句の言葉に十分な注意を払っていません。

 

この聖句の動詞「ektithemi」(説明する)が、使徒28:23における、パウロの公的な説教行為にも使われている、とのベレヴィール(Belleville)の主張に関してですが、彼女は語の意味と、それが異なる文脈の中で使われる用法について、その両者を混同してしまっています。「ektithemi」(説明する)という動詞自体は、ただ単に、「入念な説明、詳述によって情報を伝達すること("to convey information by careful elaboration, explain, expound*8」という意味であり、それが公的な説明なのか、それとも私的な説明なのかという判断は文脈がそれを示すのです。ベレヴィールのこういった主張は、言ってみれば、次のような感じになるでしょう。

 

1.使徒23:23で、この動詞は、「ローマでパウロがユダヤ人たちと朝から晩までイエスのことについて議論した行為のこと」を指しています。

2.従って、使徒18:26のプリスカの箇所においても、この動詞は、「ローマで、プリスカがユダヤ人たちと朝から晩までイエスのことについて議論した行為のこと」を意味しているに違いないのです。

 

彼女の犯している誤謬がどこにあるのかと言いますと、ある事例の中で用いられている用語の文脈を、そのまま、他の事例における語用に取り入れる(import)ことができると考えている点にあるわけです。

 

そしてこれは聖書解釈における根本的な誤りです。公的にも、私的にも、人はもちろん、何かを「説明する」ことができます。そして、それぞれの聖句が指し示しているのは、使徒18:26ではそれが私的になされたものであり、使徒28:23では公的になされたものであるということです。

 

回答3.

プリスカの例は、女性が、公同の集会の場で、聖書を教えることを正当化する根拠とはなりません。

 

前章でみましたように、教会の公同の集まりという具体的な状況において、パウロは、統治(governing)と教え(teaching)という二つの活動を男性だけに規制しています。(1コリ14:33-36、1テモテ2:11-15、また1テモテ3章およびテトス1章で言及されている長老・牧師の適性条件についての章も参照のこと)。そして、使徒18:26において、プリスカと夫アクラが、私的にアポロに説明したことはこれらの諸聖句に矛盾していません*9

 

ーーーーー

プリスカの名前が、夫アクラよりも「先に」書かれているので、、という後半部分の議論について

 

対等主義者側の主張

 

プリスカの名前がアクラよりも「先に」書かれています。しかも、それは彼らがミニストリーに携わる状況下に於いて、そのような順位で書かれているのです。ですから、ここから分かるのは、彼らのミニストリーにおいて、むしろ妻プリスカの方がリーダーであったということです。

 

リンダ・ベレヴィールは次のように主張しています。

 

「ここで普通でないのは、ルカが彼らの職業(天幕作り)について言及している際には、名前の順序が『アクラプリスカ』(使徒18:2、1コリ16:19参)となっているのに対し、ルカとパウロがミニストリーの観点から話している際には、いつも『プリスカアクラ』と順序が逆になっているのです。〔使徒18:18、26、ローマ16:3、Ⅱテモテ4:19〕ここから示されるのは、二人のうち、優勢(dominant)なミニストリーおよび指導者としてのスキルを持っていたのは、プリスカの方であったということです。」*10

 

回答

名前の順序が実際に何を意味しているのかを確定することは困難です。

 

プリスカとアクラの名前の順序に関し、さまざまな憶測や推論が飛び交っていますが、確かな証拠(hard evidence)というのはほとんど裏付けされていない状況にあります。ある時にはプリスカの名前が先になり、別の時には後に書かれているというバリエーション(変化)は、ただ単に文体上のことなのでしょうか。もしくは、新約記者たちが、女性に敬意を示そうとして、そうしたのでしょうか。

 

レオン・モリスは次のように言っています。「6回の言及の内、4回に渡り、プリスカの名前が彼女の夫よりも先に書かれています。ここからある人々は、『彼女は社会的に高い家系出身だったのだ』とか、または『彼女は夫よりも有能だったのだ』等、推論を出しています。」*11

 

F・F・ブルースは、次のように述べています。

 

「パウロはしばしプリスカの名前を夫アクラよりも先に書いています。これはもしかしたら、彼女の方がより印象的なパーソナリティーを有していたゆえなのかもしれませんが、『彼女の家系が、夫の家系よりも高かったためかもしれない』と推測している人々もいます。彼女は、、、由緒高いローマ人の家門に属していたのかもしれず、それに対して、夫アクラは、小アジア北方に位置するポントス出身のユダヤ人でした。」*12

 

またクランフィールドは、プリスカの名前がしばし先に言及されている理由として、次のように推測しています。

 

「、、それはおそらく、彼女が夫アクラよりも先にキリスト信仰を持ったからなのかもしれず(そしてもしかしたら、彼女を通して、夫はキリストにある信仰に導かれたのかもしれない。)」もしくは、「社会的に彼女の方が上流だった」という以上にもしかしたら、「教会における働きで、彼女の方が夫よりも顕著な役割を果たしていたのかもしれない。」*13

 

さらに、「ルカとパウロがミニストリーの観点から話している際には、順序はいつもプリスカアクラ』となっているのです。」というベレヴィールの主張は、正しくありません

 

現に、1コリント16:19において、「彼らの家の教会」のことに関連し、パウロは夫妻のことに言及していますが、その順序は、「アクラプリスカ」と、夫の名前が先にきています。しかも「彼らの家の教会」のことですから、これは確実に、彼らのミニストリーに関わる箇所です。「アクラプリスカ、また彼らの家の教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。*14

 

結論として言えるのは、彼ら夫婦の名前の順序の意味について、はっきりと何か確証ある事を言うことは困難であるということです。そして、ベレヴィールやその他の著述家たちは、聖句が証明できること以上の内容を、ただ単に推測し主張しているに過ぎないのです。

 

ー終わりー

 

*1:Spencer, Beyond the Curse: Women Called to Ministry, 107.

*2:Belleville, Women Leaders and the Church (2000), 59

*3:Grenz, Women in the Church, 82-83.

*4:訳者註:ビレズィキアン氏は、ここ数十年、エヴァンジェリカル界メインストリームに、福音主義フェミニズム思想を広めるに当たって、絶大な影響を及ぼした神学者であり、開拓当初からウィロー・クリーク・コミュニティー・チャーチの長老を務めてこられた方です。詳しくは「対等主義の教会 検証シリーズ④:強い指導者の影響を受けた対等主義者(Leader-influenced Egalitarians)」をご参照ください。)

*5:Bilezikian, Beyond Sex Roles, 201-2. それから、Jacobs, Women of Destiny (1998), 194. Brown, Women Ministers, 177, 179も参照のこと。

*6:*chapter 2, p.75

*7:BDAG understand "proslambano" in this verse to mean, "to take or lead off to oneself, take aside"(883).

*8:*BDAG,310

*9:訳者註:関連論文のご紹介(動詞 ektithemi, ἐκτίθημι の語彙研究)Daniel Wallace, Did Priscilla “Teach” Apollos? An Examination of the Meaning of ἐκτίθημι in Acts 18:26

*10:Belleville, Women Leaders and the Church, p.68. また、Bilezikian, Beyond Sex Roles, 200-201、それからGrenz, Women in the Church, 82, Jacobs, Women of Destiny, 194-95〔→Witherington, Women and the Genesis of Christianity, 220を引用〕Brown, Women Ministers, 175をも参照ください。

*11:Morris, The Epistle to the Romans (1998), 531.

*12:Bruce, Romans, 1973, 271

*13:Cranfield, Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans (1979), 2:784

*14:執筆者注:ビレズィキアン氏は、ここでもまた、そこに書いていないことを無理に聖書の中に読み込もうとして次のように言っています。「ローマ人への手紙は、ローマにある諸集会で読まれるよう意図されていました。そしてもちろん、こういった手紙はアクラとプリスカ、および彼らの家の教会でも読み上げられていたことでしょう。そして、その家の教会で、彼らは共同牧会(co-pastored)をしていました。(Beyond Sex Roles, 201.) そして、ビレズィキアン氏はローマ16:3-5の箇所を記しているのですが、そこの聖句には、ただの一言も、「共同牧会」のことについては書かれていません。