巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーライサ・マリタンの信仰行程

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Raïssa Oumansoff Maritain (1883-1960). ロシア生まれのユダヤ人カトリック女性思想家。十歳の時、家族と共にフランスに移住。ソルボンヌ大卒。哲学者ジャック・マリタンの妻。

 

ライサ・マリタンの回想録より一部抜粋

 

他人の経験は、もしそれがいかに偉大なものであれ、何人にとっても完全に十分なものとはいえない。各人は、自分自身のために、本質的な問題、少なくとも自分にとって死活の問題の検討をし直さなければならない。私たちはそれゆえに、自分たちの探索、真理の探究を続けていった。

 

.....学者は、哲学をやらない場合、一般に単なる経験的な良識にとどまる。だが、人間であって、なんらかの方法で哲学しないということができるであろうか。.....かれらは、思惟を否定しながらも、結局は、なんらかの思惟の要請に帰着しないわけにはゆかなかった。

 

かれらは、たえず知性に依存することを余儀なくされた。それは、抽象と普遍化なしには、どんなにわずかなことがらも表現し得ないためであり、知性の方法とその活動の原理に対する暗黙の信頼なしには、ごくわずかなことも肯定したり否定したりすることが不可能だからである。

 

「自分が講義を受けた有名な科学者たち、またその著作を読んだ科学者たちは、苦しむこともなくこのように混乱した漠たる精神状態にとどまることをみずから認めることがどうしてできるのだろう?」私は自問した。

 

理解できる現実のすべては、それに近づきそれをつかんだと思ったときには蜃気楼のように消えてゆくし、また聖の聖なる「事象」自体が、純粋に経験的な検証のほこりの中に溶解されてゆくのである。というのは、われわれの認識の客観性自体が、現実把握の能力が、当時支配的であった哲学によって一般的に否定されていたからである。

 

こうしたことは、知性に対して、不思議なほど稀薄化された空気を、無限の不都合を与えていた。弱い光線しか受け取っていない、あの太陽も見ることのない深海魚のように、私たちは観察と経験の水の中を泳いでいた。精神のいかなる自明性の助けをも得ずに、科学の天空に辿り着かねばならなかった。、、私は途方にくれた。

 

科学と哲学のあの巨人たちのすべてと戦うには、また自己の深い直観の正当性をみずから擁護するにはあまりにも無力であったので、私は悲しみのうちに沈んでいた。

 

ーーーーー

なんということだろう!少なくともしばらくの間、こうした形而上学的な問題を打ち捨てておかねばならなかったとは。私たちが受けていた科学教育は、実証科学の厳密な秩序における、非常に高度な教育であった。、、ジャックと私は、特別な興味をもって、教授たちのうちでもっとも魅力的でもっとも優秀なフェリックス・ル・ダンテックの講義を受けた。

 

私たちは、ダンテックといつも長い間話し合った。彼は自分の哲学である唯物論を説明した。私たちに、また彼に教えを乞う人々に、「自分は唯物論の真理を受け入れないわけにはいかないが、唯物論は、キリスト信者の使徒信経(Apostles' Creed)と同じく、証明し得ない一つの信仰である」と語っていた。この告白は、この点の事実を認める気がそれほどなかった彼の同僚たちの眉を顰めさせた。

 

私はキリスト信者の使徒信経を知らなかったし、唯物論者の信仰をも欲しなかった。しかし、私は思っていた。「いつかは、そうしなければならないのだろう。だれも私たちに、これ以上筋道の立った教義を提供することはできまいし、ほかの教義にしたところで、たかが『我なにをか知る?(ク・セ・ジュ?)』に行き着くぐらいだから、やはり期待はずれのものなのだ」と。悲しみが、そして、その前で少しずつ光が消えてゆくような魂の空虚の苦い味わいが、私の心に沁み透っていた。

 

ル・ダンテックはまた、無神論を宣言し、それは自分の中で抑えがたいものであることを認めていた。彼は私たちに、「自分は今まで、子供の時でさえ、宗教的信仰を持ち得なかった」と語った。彼は熱心に公教要理の授業に出て、宗教のクラスではいつも一番だったが、神を信ずるとはどういうことか、まったく分からなかった。

 

このように確信的で、絶対的で、平静な無神論者に会うことは稀である。すでに何年か前から、私は無神論に傾いていた。事実、自分はもう神を信じていない、と信じていた。けれども、この確信は、いかなる苦悩、自己の全存在のいかなる荒廃、いかなる混乱の代償によって得られたものであったことか!

 

私たちは善かれ悪しかれ、先入主に依存して生きることはできない。私たちはそのことを考えにいれて、正義と価値を測らねばならない。けれども、どんな尺度に従って測るのであろうか?すべての事物の尺度はどこにあるのだろうか?

 

存在することは一つの偶然なのか、恩恵なのか、または不幸なのか、私は知りたい。

 

そのころ私たちを救ったもの、私たちの現実の絶望をまだ条件的な絶望にしていたものは、まさしく私たちの苦しみであった。ほとんど意識されぬあの精神の尊厳が、不合理に還元できない、ある要素が存在することを示すことによって、私たちの心を救ったのだ。

 

すでに私は、自分を無神論者と信ずるにいたっていた。ついに説得されて、というよりも「科学的なもの」として与えられたたくさんの論証に蹂躙されて、私はもう、無神論から身を守ろうとはしなかった。神の不在は、全世界の人々の息の根をとめていた。

 

もし私たちもまた、真理という言葉に、善と悪、正と不正との区別に、なにかの意味を見い出すことをやめるなら、もう人間的に生きることはできない。

 

私はこのような喜劇を演じたくはなかった。苦しみに満ちた人生を受け入れることはできよう。しかし、不合理な人生を受け入れることはできない。ジャックは、貧しい人々のため、「プロレタリアート」の奴隷的な状態をなくすために戦うことが、まだ苦しむに値することだと、長い間、考えていた。かれ自身の義侠心がかれに力を与えていた。けれども、いまや、彼は、私と同様に絶望的な自分を見い出していた。

 

世界に、苦しみに悩むただ一つの心、死の苦痛を知るただ一つの肉体しかないときにも、それは弁明を要求するだろう。ただ一人の子供の苦しみしかないとしても、また、動物だけが地上で苦しむとしても、なお、このこと、このすべてのことは、つぐないを要求するであろう。

 

いずれの場合にせよ、事物の状態は、存在を明らかにする真の光なしには受け入れられない。このような光があり得ないなら、存在もあり得ない。そして、生きる値打ちもない。

 

もし、、もし、、。私たちは、この苦悩の歌に、陰鬱な詩節(ストロフ)の数々を付け加えていった。けれども、私たちの魂には、いつもあの条件法があった。あの小さな希望が、光明への道へ半ば開かれた戸が、いつもあった。

 

ーーーー

植物園を立ち去る前に、私たちは厳かな決意を抱いた。それは私たちの心を鎮めてくれた。その決意とは、「懐疑主義、相対主義の哲学がその唯一の光であった不幸で残酷な世界の所与を、力の及ぶ限り真正面から、その最後の帰結に到るまで見つめよう」という決心だった。

 

偽りの安泰のうちに眠る偉大な人々のどんな仮面、どんなごまかしをも私たちは受け入れたくなかった。彼らが差し出す快楽主義は、味気ないストア主義、耽美主義と同様に、一つの詐術、一つの慰みであったのだ。また、ソルボンヌが語ったからといって、すべてが言い尽くされたと私たちはもう考えたくなかった。

 

私たちは、いましばらくの間、未知のものに対する信頼を失うまいと決心した。私たちの激しい呼び声に応じて、人生の意味が蔽いを解かれることを、また、新しい価値が私たちの完全な同意を引き寄せて、いまわしく価値なき人生の悪夢から私たちを解き放すほどくっきりと姿を現すことを期待して、私たちは体験すべき経験を信ずると同様に、生存することを信じてみようとした。

 

もしこの経験が無に帰するなら、結論は自殺であろう。歳月がそのほこりを積み上げぬうちに、私たちの若い力が尽きぬうちに自殺すること。真理に従って生きることができないならば、自由な拒絶によって死にたいと、私たちは考えた。

 

ーーーー

そのころ、神の御恵みによって、私たちは、アンリ・ベルクソンを発見した。彼はコレージュ・ド・フランスで教えていた。

 

.....真理という言葉が口にされただけで、私の心は歓喜に震えた。この言葉の美しさは、一切の闇ーー無知の闇、誤謬の闇、虚偽の闇、測定の誤りであり虚偽である不正の闇そのものーーに対立する精神の太陽として、私の目に輝いた。真理を認識する。これは重複法的な表現である。真理のうちには現実と存在が含まれているように、すでに認識が含まれているのである。

 

疑いもなく、私たちは考えないでいることができない。考えることは人間の一機能である。だが、もし私たちが現実理解のなんらの能力をも持たないとするならば、私たちの思考は、一つの夢想にすぎず、また、純粋に主観的な機能、目的のない心霊的開花、機械論によって考え出されたあの副現象にすぎないであろう。

 

真理は、首尾よき発見の長き一日のために、太陽のように昇るのであろうか。それとも、私たちの悲惨な夜だけを照らすために、月のように昇るのか。真理は、星影にきらめく夜空のように、同時に光でありまた闇であるのか、私たちは知らなかった。それがどんなものであるとしても、真理は私たちの主であって、私たちはその僕(しもべ)でありたい、ということを知っているだけであった。

 

.....ずっとのちのことであるが、私がよく知っているある人が、「人間は超越的な物で身を養う動物である」と書いている。それとは言い方が違うけれども、ベルクソンは、ある糧がわれわれの手の届くところにあること、現実を真に認識することは可能であること、直観によってわれわれは絶対に到達することを確言した。また、私たちのほうでは、存在するものを真実に絶対的に認識することは可能であると解釈した。

 

諸概念を超えるのは直観によるのか、それとも概念を形成する知性によるのか、ということなどは、その頃の私たちにはどうでもかまわないことであった。重要なこと、本質的なことは、可能な帰結、すなわち絶対に到達することであった。驚くべく透徹した批判によって、ベルクソンは、偽科学主義的実証主義の反形而上学的偏見を追放し、精神をその現実の機能に、その本質的自由に呼び戻したのである。

 

私たちは、激しい好奇心と聖なる期待感に満ち溢れて、ベルクソンの講義を聴きにゆくーー。そうして、真理の収穫を携えて、さもなくばその収穫を約束されて帰るのであった。健康な空気を吸って蘇り、元気に溢れ、先生の講義にさらに長い長い解釈を加えながら。冬は過ぎ去り、春が来ようとしていた。

 

私たちはまた、週に一度、コレージュ・ド・フランスの小教室で少数の学生に対して行われたベルクソンのギリシア哲学解説の講義に出席した。

 

私たちは、解説される原書が置かれている教卓のすぐ近くを占めていたので、ベルクソンと共にこの本をほとんど読むことができるほどであった。この接近、この親密さは、解説者である先生と、解説される学者とに、同時に私たちを近づけるように思われた。二人の学者の結合された知性の輝く雲の中に、私たちは皆包み込まれたかのようであった。

 

私が講義に出た年には、ベルクソンはプロティノスを解説していた。、、私は大喜びで、課外にプロティノスを読み始めた。しかし、私にとって、この本を読んだことについては、ただ一つのまばゆいような思い出が浮かび出て、残りのすべてを幽暗の中に投げ入れている。

 

夏のある日、田舎で私は、『エネアデス』を読んでいた。寝台に腰を下ろし、膝の上に書物を置いていた。プロティノスが、神秘家として、また形而上学者として、魂と神とについて語っている数多い節の一つに達した時、歓喜の矢が私の心を刺し貫いた。その瞬間、心は愛に燃え、今読んだ文章を情熱的な接吻でおおいながら、この本の前にひざまずいている自分に私は気がついた。

 

.....そして私は、いましがた不意に見い出したもの、一瞬のうちに姿を見せ、そして消えていったあるものを、求め続けたのである。

 

プロティノスを読んでのち、初めて、私はプラトンと、次いでパスカルを読んだ。この人々の偉大な声は、その果てしない反響で私の魂を満たした。まだおぼろげではあったが、私はこの声の中に、私にとっての新しい一つの世界の予告を感じ取った。

 

パスカルのうちで、とりわけて私に強い力を及ぼしたもの、それは、彼が持った深淵の、かれがその縁を歩んだ深淵の感覚であり、確実性を拒まれた「人間」の名にふさわしいすべての人をとらえる、眩暈と絶望の知覚である。また、生きるために真理が必要であること、魂を真理に結びつけるためには絶対が要求されることを、かれが体験し深く苦しんだことである。

 

ーーーー

私たちは、すべてに絶望したときにも、未知のものを信頼していた。この未知のものが、人生に意義を与え得る価値を啓示することができるだろう、という希望を抱きつつ私たちはとにかく生きようと決心していた。そして人生は私たちに運んできた。最初にベルクソン、次にレオン・ブロワを。

 

一つの目的に向かって、手探りで歩んでいたベルクソン。その目的は到達するにはほど遠いが、そこから発する光は、想像を絶する天界の空漠をよぎる星の光のように、彼と私たちのもとにいつしか届いていた。

 

そして、長年の昔から愛によって神に結ばれていたレオン・ブロワ。彼のこの愛が本質的に永遠のものであることを知っていた。人生は、彼を伝説的な、高価な、神秘な宝物として、私たちに岸辺に運んできたのである。

 

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田舎からの帰途、私たちは、シャルトルに三日間滞在して、大聖堂を訪れた。、、初めての訪問後、何度かシャルトルに行ったけれども、そのたびに、大聖堂はまた新しい相貌を示すのだった。あるときは美そのものであり、あるときは信仰そのものであった。

 

最後に行った時、私たちは、信じられないほど複雑に入り組んだアーチや控え壁を通り抜け、大地からはるかに隔たった外壁の露台を一巡した。そのとき、この大聖堂は、フランスの空に浮かぶ幻想的な全能の船といった思い出と印象を私たちに残した。

 

しかし、一見したところでは、この大聖堂は、私たちにとって、その造形的な言葉で私たちに語りかける、神学と、聖史と、聖書解釈学の先生であった。それは、『ユダヤ人による救い』が語ったことーー新約と旧約がキリストの中で結合されていること、新約は旧約の完成であり冠であるとともに、旧約は新約の予表であり基礎であるということーーを私たちに繰り返し語っていた。

 

この大聖堂の書は、崇高で親しみ深く、やさしいことどもを、私たちに語っている。たとえば「人間の創造」を表す彫像群。キリストが、愛情をこめて人間を創っている。この最初の人のまだ定かならぬ頭部は、神の膝の上に憩うている。そして「世界を創造する神」の、考え深い美しい顔。そこにはあの厳かな顔だけがある。創造は、まだまったく神の考えのうちにあるのだが、その汚れない美しさを推測することができる。澄み切った水をと透して湖の底が見えるように、この美しさが、神々しい表情のうちに、透かし見られるのだ。

 

その後、祭壇の素朴な御像の傍らに、ランプと蝋燭の灯に照らされ、繻子と金の衣をまとった聖母の傍らに、休みに行った。そこは、すべてが、つつましさと静寂に満ちていた。

 

場所の荘厳さ、心にふれる神秘の畏るべき現存、それらは、愛と単純さとの純粋な憩いのうちに溶け込んでいた。このように高度な多くの美が一致と調和のうちにあることの根拠は、真理の存在以外にはあり得ないと私たちは信じるようになった。

 

ーーー

その少しのちであったろうか、旅行中、車窓から次々に森が後に飛んでゆくのを眺めていたときに、私はふたたび神の存在を感じた(初めてこの感情をもったのは、プロティノスを読んでいたときだった)。

 

私は外を眺めていた。はっきりしたことはなにも考えていなかった。すると突然、私の中で深い変化が起こった。私が感覚による知覚から、まったく内的知覚へと移されたかのように、走り去る木々は突然それ自体より大きくなり、驚くべき深さを帯びた。森全体は、語るように、ある者のことを語るように思われた。それは象徴の森となり、創造主を指し示すこと以外の機能をもたないようにみえた。

 

「なにかあるものを見て、ある魂は、事物はそれ自身によって存するのではないこと、神が存することを一瞬のうちに知ることがある」とジャックは語っている。

 

信仰の確実性を知る以前に、私は、自分の存在の現実性と、私を虚無の外に置く深い第一義的な原理の現存とを、すばやい直観で感じ取る経験をしばしば持った。強い直観がその激しさでときに私を恐れさせたが、その最初のものは形而上学的絶対者についての認識を私に与えたのであった。

 

ーーーー

神の働きと魂の英雄的な従順の、なんというすばらしい結合、禁欲と観想との、なんという完全な一致が、この〔シュラン神父著〕『霊的公教要理』をつくりなしていたことだろう!

 

私たちはのちに、この著者の非凡な生涯を知り、また、観想について語るのにシュラン神父は自己の体験に資を求められばよかったということを知った。、、そのうちの一つをここに転載したいという望みを私は抑えることができない。

 

「長い間、魂が苦しんだとき、、神は平和のうちに魂をお立てになる。、、、この平和は、河のように流れ来る。一国のうちに流れ入り、堤防が切れているときには他国のほうに向きを変える河のように。この平和は、入ってきたのち、本来の姿ではないもの、すなわち非常に激烈なものとなる。このようになるのは、神の平和だけである。

 

 この平和だけが堂々と進む。地を荒らすためではなく、神が与えた水底のすきまを満たしにくる潮のざわめきのように。この海は、静かではあっても、野獣のように吼えながら押し寄せてくる。そのざわめきをつくりなすのは、水の豊けさのみであって、その激しさではない。

 

 海はその充満のうちに地を訪れ、神が限界としてお与えになった岸辺に口づけに来る。この海は、威厳と壮大さとをもって満ちて来る。平和は、このようにして、魂のうちに来る。苦しみの後に、大いなる平和が魂を訪れに来る。魂にさざ波を立てる風のそよぎさえもなく、神の諸善とその王国の富をみずからと共にもたらすこの神の平和は、アルシオンであり、また、平和の到来を示す小鳥であるところの、その先触れを持っている。天使の訪れが、平和に先立つ。

 

 神の平和は、天上的な調べをもって、その善に対立するためではなくその豊けさのゆえに、魂そのものをまったく錯乱させるほどの激しさをもって、この世とは異なる生の一要素として来るのである。この豊けさは、その善の障害に対する場合を除けば、決して暴力的にならないし、また、好戦的な動物は、この平和の岸から逃れてゆく。そうして、エルサレムにおいて約束されたすべての善が、平和とともに来る。こうして神の平和は、恩寵の貴重な富と宝との、豪華さと豊けさをもってくるのである。」

 

神の国は、私たちの地平線のかなたに、まだ定かならぬがすでにまばゆいばかりの線で描かれていた。

 

ー終わりー

 

ライサ・マリタン『あるカトリック女性思想家の回想録ーー大いなる友情』(原題:Les grandes amitiés : souvenirs、1941年初版)より一部抜粋