巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

初代教会と詩篇23篇

ローマのプリスキラのカタコンベにある壁画「良い羊飼い」(AD3世紀)出典

 

目次

 

初代教会と詩篇23篇

 

トレイシー・トラサンコス女史の論考「詩篇23篇がいかに入信の秘跡を予表しているか」*1を興味深く読みました。

 

彼女は、1956年に出版されたジャン・ダニエルー神父の著書『聖書と典礼』を参考に、教父たちが詩篇23篇(LXX22篇)をどのように読み、またこの詩篇が初代教会において、どのような形で洗礼志願者(catechumens)への霊的教育に用いられていたのかを教父文書を引用しつつ説明しています。

 

それによると、古代教会の洗礼志願者*2は、詩篇23篇(LXX22篇)を暗誦しました。そして新しく洗礼を受けた人は、復活の聖なる徹夜祭(今日の"Easter Vigil")にこの詩篇を歌い、初聖体拝領(first Holy Communion)に与りました。

 

聖アンブロシウスは洗礼志願者たちにダビデの詩篇に耳を傾けるよう指導し、次のように言っています。

 

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 聖アンブロシウス(340-397)

 

「あなたがたがいかなる秘跡を受けたのか、あなたがたに語りかけているダビデ〔の詩篇〕に耳を傾けなさい。ダビデは霊の内にそれらの神秘を予見し、歓喜の内に『私には乏しいことがない』と宣言した。なぜか。なぜならキリストの御体を拝領する者はもはや飢えることがないからだ。あなたがたはこれまでどれ位、意味を理解することなく詩篇22篇を聞いてきたことだろう。さあ、これがいかに天的サクラメントに適合しているのかを見て悟りなさい。」*3

 

「緑の牧場」(2節)は何を意味しているのでしょう。アレクサンドリアのキュリロスは、次のように解説しています。

 

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アレクサンドリアの聖キュリロス(376-444)

 

「緑の牧場は、常に新鮮で青々としたロゴス、霊感された聖書のみことばと理解されなければならない。そしてこれが信者の心を養い、霊的力を与えるのである。」*4

 

また教父たちは「いこいの水」(2節)をバプテスマを予表するものと理解していました*5。聖アタナシオスは次のように書いています。「懐疑なき憩いの水とは聖なるバプテスマを意味しており、それにより、罪の重荷が取り除かれるのである。」*6

 

アレクサンドリアの聖キュリロスは、「牧場」と「水」と「バプテスマ」の関係を次のように説明しています。「牧場とはーーわれわれがそこから転落したところのーーパラダイスであり、今やキリストがわれわれをそこに導き、憩いの水、すなわちバプテスマによりわれわれを建て上げてくださるのである。」*7

 

洗礼のシンボリズムは3節にも見い出されます。ニュッサのグレゴリウスは言います。

 

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ニュッサの聖グレゴリオス(335-394)

 

「あなたがたはバプテスマにより、キリストの死にあって主と共に埋葬されなければならない。しかしこれは死そのものではなく、死の影であり像(image)である。その後、主は秘跡的食卓(sacramental table)を備えてくださり、あなたがたを御霊の油で聖膏(anoint)してくださる。しかる後に、主は、人の心を喜ばせ貞節なる陶酔を生み出す葡萄酒をわれわれに携えてきてくださるのだ。」*8

 

アレクサンドリアの聖キュリロスも同様のことを教えています。「われわれがキリストの死にあってバプタイズされたがゆえに、バプテスマは死の影および像(image)と呼ばれている。」*9

 

詩篇23篇がどれほど初期キリスト信者の血となり肉となっていたかは、AD203年にカルタゴで殉教死したと伝えられている22歳の聖ペルペトュアの手記からも伝わってきます。*10

 

彼女は生まれたばかりのわが子に乳を与えながら、召使のフェリチタスと共に獄中で殉教死を待っていました。そんなある晩、ペルペトゥアは夢をみます。ーーはしごがあり、それは天にまで達していました。はしごの途中には竜がいましたが(夢の中で)彼女はそれを克服し、ついにはしごのてっぺんに辿り着きました。そしてそこで見たものを彼女は次のように書き記しています。

 

「そこには広大な園が拡がっていました。見ると、園の中央に白髪の人が座っていて、牧者の姿で羊の乳搾りをしていました。そして白い衣を着た何千という人たちが彼の周りにいました。その人は私の名を呼び、私に口いっぱいのチーズをくださいました。私はそれを両手で受け取り、食べました。」*11

 

願わくば、私たちもまたこの信仰を継承する者として、ダビデの詩篇の中のキリストと共に生き、そして主の教会を通した典礼と秘跡の神秘の中で堅くキリストと結ばれていきますように。

 

ーおわりー

 

詩篇23篇を詠唱する〔ビザンティン典礼〕

 

詩篇23篇(LXX22篇)

 

Ψαλμὸς τῷ Δαυΐδ. 〔賛歌。ダビデの詩〕

1.ΚΥΡΙΟΣ ποιμαίνει με καὶ οὐδέν με ὑστερήσει.

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2 εἰς τόπον χλόης, ἐκεῖ με κατεσκήνωσεν, ἐπὶ ὕδατος ἀναπαύσεως ἐξέθρεψέ με,

主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い

3 τὴν ψυχήν μου ἐπέστρεψεν. ὡδήγησέ με ἐπὶ τρίβους δικαιοσύνης ἕνεκεν τοῦ ὀνόματος αὐτοῦ.

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

4 ἐὰν γὰρ καὶ πορευθῶ ἐν μέσῳ σκιᾶς θανάτου, οὐ φοβηθήσομαι κακά, ὅτι σὺ μετ᾿ ἐμοῦ εἶ· ἡ ράβδος σου καὶ ἡ βακτηρία σου, αὗταί με παρεκάλεσαν.

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

5 ἡτοίμασας ἐνώπιόν μου τράπεζαν, ἐξεναντίας τῶν θλιβόντων με· ἐλίπανας ἐν ἐλαίῳ τὴν κεφαλήν μου, καὶ τὸ ποτήριόν σου μεθύσκον με ὡσεὶ κράτιστον.

わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

6 καὶ τὸ ἔλεός σου καταδιώξει με πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς μου, καὶ τὸ κατοικεῖν με ἐν οἴκῳ Κυρίου εἰς μακρότητα ἡμερῶν.

命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 

*1:『ナショナル・カトリック・レジスター誌』

*2:関連記事:

*3:De Sacr. V, 12-13

*4:Patrologia Graeca. XXVII, 140 B

*5:関連記事

*6:Patrologia Graeca. XXVII, 140 B

*7:Patrologia Graeca. XXVII, 841 A

*8:Patrologia Graeca. XLVI, 692 A-B

*9: Patrologia Graeca. XLVI, 841 B

*10:関連記事

*11:Patrologia Graeca. IV, 8-10