巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、つつしんで御身を礼拝いたします。(トマス・アクィナス)

 

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"The temptation of St. Thomas Aquinas" by Diego Velazquez;

目次

 

聖体に対する聖トマの祈り」(トマス・アクィナス作)

 

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、つつしんで御身を礼拝いたします。あなたを見つめながらも全く見通す力のないわたしは、心のすべてをあなたに委ねます。

 

今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、あなたを認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。

 

神の御子の言われたことは、何ごとであれ信じます。この真理にまさるまことは、世にはないからです。

 

十字架上では神の本性だけが隠されていましたが、ここではその人性も隠されています。主にある二つの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことをわたしも願います。

 

わたしはトマのように御傷を見なくとも、あなたがわたしの主であることを宣言します。わたしに、あなたをますます深く信じ、あなたを希望し、あなたを愛させてください。

 

主の御死去の記念として、人にいのちを与える生きたパン、わたしの心をあなたによって生かし、甘美なあなたを常に味わわせてください。

 

御血のひとしずくだけで、世のすべての罪を償うことのできる主イエス、願わくはけがれたわたしを、御血をもって清めてください。

 

今隠れていますイエス、渇き望むものを与えてください。覆いを取られた、あなたの顔を見出し、あなたの栄光を見る幸いな者となりますように。アーメン。

 

モン=コルニヨンの聖ジュリエンヌ(ベネディクト十六世)

 

一部抜粋(引用元

 

ある司祭が、パンとぶどう酒を聖別していたとき、聖体の秘跡におけるキリストのからだと血の現実の現存について強い疑いを抱きました。

 

すると不思議なことに、聖別したホスチアから少量の血が滴り落ち始めました。こうしてわたしたちの信仰が告白することが確かめられたのです。

 

ウルバヌス4世は、史上もっとも偉大な神学者の一人である聖トマス・アクィナス*1――聖トマスは当時、教皇に同伴してオルヴィエートにいました――に、この偉大な祭日の聖務日課の式文を作るよう命じました。今も教会で用いられているこの式文は、きわめて優れたものです。

 

そこでは神学と詩が融合しています。この式文のことばは心の琴線を震わせて、至聖なる秘跡への賛美と感謝を表すよう促します。知性も、驚きをもってこの神秘を学びながら、聖体のうちにイエスとその愛のいけにえの生きたまことの現存を認めます。このいけにえが、わたしたちを御父と和解させ、わたしたちに救いを与えてくださいます。

 

わたしは、現代の教会の中で「聖体の春」が到来していることを喜びをもって認めたいと思います。どれほど多くの人が聖櫃の前に沈黙のうちにとどまり、イエスとの愛の対話を行っていることでしょうか。少なからぬ若者のグループが至聖なる秘跡の前で礼拝の祈りをささげることのすばらしさを再発見していることを知るのは慰めです。

 

尊者ヨハネ・パウロ二世は回勅『教会にいのちを与える聖体』の中でこう述べました。「多くの地域では聖体礼拝が日々欠かさず行われ、尽きることのない聖性の源泉となっています。キリストの聖体の祭日に信者がうやうやしく参加する聖体行列は、主から与えられた恵みであり、毎年、参加者に喜びをもたらしています。聖体に対する信仰を示す積極的なしるしは、ほかにもいろいろと挙げることができるでしょう」*2


コルニヨンの聖ジュリエンヌを思い起こすことにより、わたしたちも、聖体におけるキリストの現実の現存への信仰を新たにしたいと思います。

 

『カトリック教会のカテキズム要約』が示すとおり、「イエス・キリストは、唯一で比類のないしかたで聖体の中に現存しておられます。実際、イエス・キリストは、真に、現実に、実体的に、つまり、そのからだと血、霊魂と神性とともに現存しておられます。だから聖体の中に、神であり人である全キリストが、秘跡的に、つまりパンとぶどう酒の形態のもとに現存しておられます」*3


親愛なる友人の皆様。主日のミサにおける聖体のキリストとの出会いを忠実に守ることは、信仰の歩みにとって不可欠です。しかし、聖櫃のうちにおられる主を頻繁に訪れることにも努めようではありませんか。

 

聖別されたホスチアに礼拝のまなざしを注ぐことによって、わたしたちは神の愛のたまものと出会います。イエスの受難と十字架、そしてまた復活と出会います。わたしたちが礼拝のまなざしを注ぐことを通して、主はわたしたちをご自身へと引き寄せます。ご自身の神秘へと引き寄せます。それは、主がパンとぶどう酒を変化させるのと同じように、わたしたちを造り変えるためです。

 

聖人たちはつねに聖体との出会いのうちに力と慰めと喜びを見いだしてきました。聖体賛歌『隠れたる神性よ』(Adoro te devote)のことばをもって、至聖なる秘跡のうちにおられる主に繰り返していおうではありませんか。「常いやまし給え、わが御身への信仰、御身への希望、御身への愛を」*4

 

聖体賛歌『隠れたる神性よ』(Adoro te devote)

 


1.Adoro te devote, latens Deitas,

Quæ sub his figuris vere latitas;

Tibi se cor meum totum subjicit,

Quia te contemplans totum deficit.

I devoutly adore you, O hidden God,

Truly hidden beneath these appearances.

My whole heart submits to you,

And in contemplating you,

It surrenders itself completely.

 

2.Visus, tactus, gustus in te fallitur,

Sed auditu solo tuto creditur.

Credo quidquid dixit Dei Filius;

Nil hoc verbo veritátis verius.

Sight, touch, taste are all deceived

In their judgment of you,

But hearing suffices firmly to believe.

I believe all that the Son of God has spoken;

There is nothing truer than this word of truth.

 

3.O memoriale mortis Domini!

Panis vivus, vitam præstans homini!

Præsta meæ menti de te vívere,

Et te illi semper dulce sapere.

O memorial of our Lord's death!

Living bread that gives life to man,

Grant my soul to live on you,

And always to savor your sweetness.

 

4.Pie Pelicane, Jesu Domine,

Me immundum munda tuo sanguine:

Cujus una stilla salvum facere

Totum mundum quit ab omni scelere.

Lord Jesus, Good Pelican,

wash me clean with your blood,

One drop of which can free

the entire world of all its sins.

 

5.Jesu, quem velatum nunc aspicio,

Oro, fiat illud quod tam sitio:

Ut te revelata cernens facie,

Visu sim beátus tuæ gloriæ. Amen.

Jesus, whom now I see hidden,

I ask you to fulfill what I so desire:

That on seeing you face to face,

I may be happy in seeing your glory. Amen 

*1:Thomas Aquinas 1224/1225-1274年

*2:同10

*3:同282

*4:竹島幸一訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』平凡社、1993年、819頁