巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

分裂があたかも一致であるかのようにみなし、分裂に安住することについて(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

The Handing-over the Keys (Sanzio Raffaello、1515)

 

目次

 

Bryan Cross, Settling for division as though it were unity, 2009

 

bryan

ブライアン・クロス。敬虔なペンテコステ派の家庭に生まれる。医療宣教師を目ざし、医学部に進学するも、信仰と科学との両立問題で葛藤を覚え、医学の道を断念。大学卒業後、改革派(長老派)の信者になる。カベナント神学校卒業(M.Div.)。2003年、聖公会に移る。さらに2006年10月、妻と二人の娘と共にカトリック教会とのフル・コミュニオンに入る。セント・ルイス大学にて哲学博士号。現在、マウント・マースィー大学哲学科助教授。(testimony

 

「一致(unity)」に関する二つの異なる観念

 

私がプロテスタントの友人たちと頻繁に交わすテーマの一つが、一致に関するものです。例えば、「なぜプロテスタント信者は、カトリック教会で聖餐(ユーカリスト)に与ることが許可されていないのですか?」「なぜカトリック教会は、カトリック信者がプロテスタント礼拝の中で聖餐に与ることを許可していないのですか?」といった質問をよく受けます。


それに対し、私は次のようにお答えしています。ーーユーカリストは一致のしるしであり、カトリック教会の視点からみると、プロテスタント信者は教会から分離した状態(in schism)にあります。それゆえに、プロテスタントがカトリック教会でユーカリストに与ることや、カトリックがプロテスタントと共に聖餐に与ることは、虚偽であるということになります。

 

そうしますと、プロテスタントの方々からは大抵次のような応答がきます。「私たちプロテスタントは、自分たちがカトリックから分離した状態にあるとか、分裂しているとはみなしていません。私たちは皆、キリストにあって一致しています。私たちは皆イエスを愛しており、キリスト教の基本部分における信仰を共有しています。」

ここには「一致(unity)」に関する二つの異なる観念があります。なぜなら、キリストがお建てになったことに関する二つの異なる観念が存在するからです。

 

プロテスタント、カトリックそれぞれの教会観


プロテスタントは一般に、ーー(現在この地上に生きている信者等)その構成員の一部は可視的であるもののーー、キリストがお建てになった教会というのは霊的にして不可視的な実体であると捉えています。

 

一般的プロテスタントの思考の中では、キリストに信仰を持っている人は誰でも、キリストがお建てになった教会の構成員です。また普通、プロテスタントは、「キリストが可視的にして、階層的に組織されたみからだをお建てになった」ということを信じておらず*1、仮にキリストがかつてそうされたとしても、そのようなみからだは現在、もはや現存していないと考えています。「不可視的なものとしての教会観念」というこのプロテスタント概念は、16世紀に勃興しました*2。そしてこの教会観念により、分離/分派(schism)という可能性自体が排除されます。

 

カトリック教会は2000年の間、「キリストは可視的にして、階層的に組織されたみからだをお建てになった」ということを信じ、教えてきました。そして、「可視的にして、階層的に組織されたみからだとしての教会」というこの観念から、一致というものの意味が引き出されます。

 

霊的にして不可視的な実体としてのプロテスタント教会観においては、「必要不可欠な信仰事項('the essentials')」というのは究極的に個々人の決定にかかっています。しかし可視的にして、階層的に組織されたみからだとしてのカトリック教会観において、この「必要不可欠な信仰事項('the essentials')」というのは、教会権威によって決定的に決定されます。

 

そして教会権威が必須事項として決定しているものは、福音主義における最低公分母よりもずっと多くのものを包含しています*3。それゆえ、カトリックの視点でみると、プロテスタントは、ーー教義的なものだけでなく、サクラメントに関してもーーキリスト教の必須事項に関し、教会と一致していない状態にあります。


例えば、カトリック教会の視点では、プロテスタントは合法的ユーカリストを有していません。なぜなら、プロスタンティズムは使徒継承を保持していないからです。同様にして、それと同じ理由により、プロテスタント教職者たちには合法的叙階(valid ordinations)がありません。

教会に関するこういった二つの観念ーー一つは可視的、もう一つは不可視的ーーにはまた、一つのみからだの中での『一致』の意味に関する異なる含意があります。

 

仮にキリストがお建てになったのが不可視的なものであるけれども、そこには可視的メンバーがいるのだとしたら、この不可視的実体と完全に一致するのに唯一必要なことは、キリストに対する信仰だということになります。

 

そうなると、分離/分派に関する観念は、ーーキリストに信仰を持っている人が、別のキリスト信仰者に対し十分な愛を持って愛することに失敗しているという限りにおいてーー愛の欠如に帰着します。ここにおいては、一致と分離/分派は、根本的に霊的なものです。


ですから、霊的なものとしての、プロテスタント教会観でいくと、もしも私たちがイエスを愛し、互いに愛し合っているのなら、たといどのような教派組織ないしは集会に属していようが、その時私たちはフル・コミュニオンの関係にあります。

 

それとは対照的に、可視的で階層的に組織されたみからだとしてのカトリック教会観でいくと、教会とフル・コミュニオンの関係であるためには、人はそのヒエラルキーによって教示されている信仰を信じる必要があるだけでなく、そのヒエラルキーの権威の下に自らの身を従えなければならないのです。

それでも幾人かのプロテスタントは、自分たちは可視的教会を信奉していると言います。その場合、彼らが意味しているのは、「数多くの地域諸教会/集会があり、それぞれに可視的ヒエラルキーがある。(例:主任牧師、副牧師、長老等、、)。そして全てのクリスチャンはそういった地域教会/集会のメンバーであるべきだ」ということです。

 

こういったプロテスタントの方々によると、地域諸教会/集会は、一つの公同的(普遍的)可視的ヒエラルキーの一部である必要はありません。そうではなく、(それぞれが可視的ヒエラルキー組織であるところの)それらの地域諸教会/集会は、キリストに対する同一の基本信仰およびキリストに対する愛を共有することによって、不可視的に互いに結び合い、一致しているとされています。

 

この立場の抱えている一つの問題は、「可視的なヒエラルキー的一致は、地域的レベルにおいて必須であるが、それよりも高次のレベルにおいてではない」というその主張の恣意性にあります。


もしも地域教会にヒエラルキー組織が必要なのだとしたら、普遍的教会においてもしかりです。しかし仮に普遍的教会にヒエラルキー組織が必要でないのなら、地域教会/集会にもまた必要ではありません。

 

もう一つの問題は、この主張が、

キリストは多くの教会(Churches)をお建てになった。ゆえに、そこには多くのからだ(Bodies)および多くの花嫁(Brides)がいる、もしくは、

キリストがお建てになった教会はそれ自体、霊的、不可視的実体である。だが、(個々人であれ可視的知識諸教会/集会であれ)そのメンバーの幾人かは可視的である、

という立場に帰着してしまうということです。

中間的立場は存在しない

 

それが故に、カトリック教会の教え(=キリストは一つの、普遍的にして可視的、そしてヒエラルキー的に組織されたみからだをお建てになり、すべてのクリスチャンはそこにフル・コミュニオンの関係を持って属するべきであるという教え)と、プロテスタントの教会観(=キリストがお建てになった教会は根本的に不可視的な霊的実体であり、ーー彼らがどこで誰と共に礼拝しているかに拘らずーーキリストに信仰を持っている全ての人はすでにそこに属しているという教会観)の間に、中間的立場は存在しないのです

 

そして、それゆえに、プロテスタント教会観は、現行のクリスチャンの間の分裂状態に対する無関心を引き起こさせています。多くのプロテスタントは、同じ市内に異なる教団教派が併存しているという現象を、ノーマルなことだと見、さらにそれが健全であるとみなしている人々さえいます。

 

あらゆる都市、そして全世界に、本来ならばただ一つのキリスト教機構が存在すべきだという考え自体が、彼らの想像的地平の完全圏外にあります。ですから、そういう彼らが教会一致のための尽力目標を持っていないことも十分に理解できます。


一般的プロテスタント思考においては、キリストに対する信仰によって私たちは互いにすでにフル・コミュニオンの関係にあるために、それ以上の一致を追及する根拠はありません。

 

ですからこの文脈の中でいわれる「一致のための尽力」というのは、‟自分たちが皆すでにフル・コミュニオンにある” というすでに存在している真実を皆が確認することができるようにとの、手助けとしての意味しかありません。こういったプロテスタント見解においては、教会一致のための尽力というのは、せいぜい、公同的自己認識および啓発を促すための運動としてしか意味を持っていないでしょう。

それとは対照的に、カトリック思考においては、教会一致のための尽力というのは、実際的分裂の癒しに関することであり、(単なる精神的なものではなく)実際の分離(schisms)により教会から離脱した状態にある人々との和解を意味しています。

 

それではそういった和解はどのようにして具現化するのでしょうか。ーーそれは、それらの人々を、キリストのお建てになった「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」との和解に導くことによってです。

 

しかしこういった観念は、ほとんどのプロテスタント信者の耳に高慢な響きをもって聞こえてくるはずです。なぜなら、まさしくプロテスタントにとり、その「教会」とは不可視的なものだからです。どんな機構であれ、他を押しのけ、われこそが真の教会なりと主張できるような機構はどこにも存在しないのです。

 

仮にすべての可視的組織機構が単なる人間によって建てられたものであるなら、上の言明は真となるでしょう。しかし仮に、一つの可視的にしてヒエラルキー的組織された機構(Body)が神であり人であるイエス・キリストによって建てられたのだとしたら、それは真ではありません。カトリックはキリストがまさにそれをお建てになったということを信じており、その鍵をペテロに与えました。


プロテスタントにとっては、キリストを信じることは、すでに主の教会(Church)と和解していることを意味しています。しかしカトリックの教会観においては、完全にキリストと一致するために、人はキリストのお建てになった可視的そしてヒエラルキー的に組織された教会と完全に結び合い、その中に包含される必要があります。

共に立つために

 

プロテスタントの兄弟姉妹のみなさんに申しあげます。「キリストが教会に対し御意図されている一致のためのみなさんのビジョンはあまりに小さすぎます。みなさんは分裂があたかも一致であるかのように分裂状態に甘んじておられます。」

 

しかも問題はそれより一層深刻なものです。教会(Church)が不可視的であるという観念は、ーーキリストのみからだがあたかもなにか不可視的なものであるかのように取り扱うことによりーー遂行的に、キリストの受肉を否認しています。それに関し、私はこの記事*4の中で詳述しました。

 

さらに、私たちの間に存在する可視的分裂は、神が分け隔てられているという虚偽の証言をこの世に発信しており、それゆえに、キリストがこの世に与えたいと願っておられるものーー三位一体の神の内における一致と愛という具現化されたビジョンーーを、この世界の人々からはく奪しています。

 

ヨハネ17章でのキリストの祈りは、ご自身に従う人々の間の「可視的」一致を要求しています。なぜなら、互いに対する私たちの一致を通し、この世は、御父と御子の一致を「見る」ことになっているからです。


キリストのみからだとしての教会は、(主が「完了した」と言われた後、ハデスに下った時(エペ4:9)に行なわれたように)捕囚として捕えた囚人たちのもろもろの支配と権威の武装を解除する(コロ2:15)というキリストの使命を遂行し続けなければなりません。

 

そしてこの使命に関し、キリストは、ハデスの門も打ち勝てないと私たちに仰せられました。そうです、それらのものは、主の使命における教会の行く手を阻むことができません(マタイ16:18)。これが私たちの使命であり、これを達成すべく、私たちはフル・コミュニオンの中で共に立ち、共に進んでいく必要があります。

祈り

主イエスよ、あなたの御憐みの中で、現在、カトリックとプロテスタントを隔てているこの分離を癒してください。御父、御子、御霊の名によって。アーメン。

 

ー終わりー

 

*1:訳者注: 

*2:訳者注:

*3:訳者注:

*4: