巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「寛容」という名の「非寛容」(D・A・カーソン、トリニティー神学校)

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「寛容」という名の「非寛容」、、そして暴力ーー政治的コレクトネスと大学(出典

 

目次

 

D.A. Carson. The Intolerance of Tolerance, Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Co. 2012, p.2-6(私訳)

 

変わりつつある「寛容」の概念 

 

寛容の概念は変わりつつあり、その新定義により、寛容の形態そのものに変化が生じてきている。

 

この新定義については、いくつか褒められるべき点もあるだろう。しかし、悲しむべき事に、この新しい、現代的な「寛容」というのは本質的に「非寛容」なのである

 

またこの新しい寛容は、みずからの欠点に盲目である。なぜなら、それは自らがあたかも高い倫理的土台の上に立っていると思い込んでいるからだ。しかもそれについて疑問を差し挟むことすらもはや許されない。

 

なぜなら、この概念はすでに西洋における妥当な構造の一部と化してしまっているからである。それだけではない。この新「寛容」は、社会的にも危険であり、知的な側面から言っても虚弱をもたらす性質のものである。

 

定義の変遷

 

ではまず辞書の定義をみてみることにしよう。オックスフォード英語事典をひもとくと、動詞「許容する」(“to tolerate”)の第一義として、「(他者の信条、慣習などに対して)敬意を示すこと。(ただし、必ずしもそれに同意・同情することは意味しない。)」とある。

 

また次項には、「3.我慢する。耐える。例)彼は義兄に耐えている。4.〔医学〕~に耐性がある。」と記されている。

 

コンピューターに基づいたEncarta事典でさえも、その項に「異なる見解の存在を認めることーー他者が異なる信仰・慣習を持つ権利を、それらを抑圧することなく認めること」と記してある。

 

ここまでは問題ないだろう。しかし、である。これに関連する名詞「寛容」(“tolerance”)の語の扱いになると、Encarta事典には、微妙な変化が表れてくる。

 

「1.異なる見解の受容・容認ーー他者の持つ異なる見解を受け入れること。例)宗教ないし政治的な事柄において。また、異なる見解を持つ人々に対する公正さ。」

 

「異なる見解の存在を受け入れること」から「異なる見解の受容」というこのシフト、(つまり、「他の人が異なる信条や慣習を持つ権利を認めること」から「他の人の異なる意見を認めること」というシフト)は、形の上でこそ些細な変化に見えるかもしれないが、本質においては相当な変化をもたらすものである

 

「異なる立場ないし相反する立場が存在するということを認めること、そしてそういった立場が存在する権利を持つにふさわしいと認めること」ーーそれは結構なことだ。だが、「その立場自体を受け入れよ」となると、俄然、話は違ってくる。なぜなら、それは人がもはやその立場に反対していない、ということを意味するからである。

 

こうして新しい「寛容」は、次のように示唆してくるのだ。「他の人の立場を認めることっていうのは、その立場が正しいと信じること(あるいは、少なくとも自分の立場と同様にそれも正しいものだと信じること)を意味するのだ」と。

 

こうして私たちは、「相反する諸意見を自由に表現することに対する受諾」から、「全ての意見の受諾」へと移り、「(自分たちの同意していない)信条や主張が表現されるのを認めること」から「全ての信条や主張は等しく妥当なのだと肯定すること」へと今や飛躍を遂げようとしている。このようにして、知らず知らずの内に、私たちは旧来の「寛容」から新しい「寛容」へと移行してしまっているのである。

 

どちらの意味での「寛容」?

 

しかし「寛容」が何を意味しているかという問題は、事実、辞書の定義の項目だけでは推し量ることのできない難解さを持っている。なぜなら、現代の語用においては、上に挙げた二つの意味が両者共に巷で使われており、講演者や作家がいったいどちらの意味でその語を使っているのか不明瞭な時もしばしば見受けられるからだ。

 

例えば、「彼女は非常に寛容な人です」と言った場合、これは次のどちらの意味における「寛容」なのだろう。

 

.この人は、自分の同意しない意見であっても、それらを喜んで甘受することのできる人間だ、という意味での寛容なのか。それとも、

.この人は、全ての意見がどれも等しく妥当なものだと考えている、という意味での寛容なのか。

 

またあるイスラム聖職者がこう言ったとする。「我々は他宗教を容認(tolerate)しない。」この場合はどうだろう。この聖職者は、

 

.イスラム教徒というのは、「他宗教の存在自体を容認すべきではない」と考える人々である、と言っているのか。それとも、

.イスラム教徒というのは、「他宗教もイスラム教と同様に妥当性を持つ宗教だ」という意見に同意できない人々である、と言っているのだろうか。

 

またあるキリスト教の牧師がこう宣言したとしよう。「クリスチャンは喜んで他宗教を容認(tolerate)する人々です。」その場合、この牧師によれば、

 

.クリスチャンというのは、「キリスト教がその存在する権利を享受しているように、他宗教もまたその権利を享受すべきである」という事を喜んで認めている人々、ということなのだろうか。それとも、

.クリスチャンというのは、「全ての宗教がいずれも等しく妥当性を持つ」という事を喜んで主張している人々ということなのだろうか。

 

「あなたがたクリスチャンは、あまりにも非寛容です。」とある人々は主張している。これは、

 

.クリスチャンというのは、(自分とは異なる)あらゆる立場が根絶されることを願っている人々である、という事を意味しているのだろうか。それとも、

.クリスチャンというのは、「イエスだけが神に至る唯一の道だ」と主張している人々である、という事を意味しているのだろうか。

 

前者は明らかに誤りである。そして後者こそ真である。(少なくとも、もしもクリスチャンが聖書に忠実に生きようとしているのならば。)

 

確かにクリスチャンは、イエスが神に至る唯一の道だと考える人々である。しかし、それが果たして彼らを「非寛容な人」にするのだろうか。旧来の意味における「非寛容」で言うなら、彼らは全く非寛容ではない。

 

しかしながら、(どんな種類のものであれ)排他的真理というのは一般に、はなはだしい非寛容の印としてみられる傾向があるのは確かである。(ただしこの場合における「非寛容」という意味は、「寛容」の新しい定義に完全に依拠しているという事は留意されたい。)

 

それでは、先ほど挙げた「クリスチャンは他宗教に対し喜んで寛容を示す」という主張についてもう一度考えてみよう。ここで、最初の意味における「寛容」を想定してみてほしい。

 

つまり、「キリスト教と同じように、他宗教もまたその権利を享受すべきである」という事を喜んで認めているクリスチャンの立場である。(このクリスチャン自身、他宗教が幾つかの点においてかなり誤謬を有していると考えているとしても、である。)

 

「寛容」についての、いわゆる古典的な理解においてでさえも、そこにはある一定の不確かさが残っている。上述の主張は、法的寛容さを考慮に入れたものなのだろうか。その場合、クリスチャンは、法の下で全ての宗教マイノリティーの人々が等しい権利を有することができるよう、そのためには喜んで戦うといった事を意味するだろう。

 

もちろん、クリスチャンの観点から見るなら、これはあくまでキリスト再臨までの間の、一時的な取り決めに過ぎない。

 

現在のこの堕落し崩れた世界秩序の中にあって、おびただしい偶像礼拝の時代にあって、そして神学的・宗教的混沌の時代にあってーーこういった衝突・偶像礼拝・対峙・激しく異なる思想システム(神ご自身に対する思想でさえも)が持続しつづけるという事を神はお定めになっておられるのである。しかし新しい天と地においては、神のご意思や願いは無下(むげ)にされず、敵対されず、讃美にあふれた喜びの対象となるであろう。

 

しかしながら目下の所、カイザル(*政府と読みかえることもできる)がこの混沌とした世にあって、社会秩序を保持するべく責務を負っている。確かにカイザルは神の摂理的至上権の下にとどまっている。しかしーー神とカイザルというーーこの両者には違いがある。(イエスご自身も、『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい』と言っておられる。)

 

つまり、現在のこの秩序は、新しい天と地のようにはならないのである。それゆえ、この法的寛容でさえも(もちろんクリスチャンはこれを擁護しなければならない)、現在という時に限られたものである。

 

換言しよう。これは、神の国の夜明けはもう始まっているが未だに完成はしておらず、(いわゆる神学者の言うところの)すでに始まってはいるが最終的な終末論は迎えていないこの時期に限られたものなのである。

 

養われ育まれるべきもの

 

もちろん、「クリスチャンは他宗教に対し喜んで寛容を示す」という文において、これは法的寛容ではなく、社会的寛容を指し示しているという事も考えられるだろう。多文化社会の中で、異宗教の人々は互いを軽視することなく共存すべきである。

 

なぜなら、すべての人は神のかたちに創造されたのであり、各人は最後の日に、神に対し申し開きをするように定められているからである。また、私たちクリスチャンが社会的な意味において他の人々より勝っている、などという事も全くない。そのことも肝に銘じておく必要がある。

 

私たちは偉大な救い主のことを証しするが、だからといって、自分たちのことを優れた者などと思い上がってはいけない。その意味においても、社会的寛容というものは奨励されるべきである。

 

しかしこういう主張をされる方がいるかもしれない。「聖書の神は、たとえ新契約の期間であっても寛容を『善』とはみなしておられないのではないでしょうか。もし人が悔い改めず、回心によってキリストを主と認めないのなら、そういった人々は滅んでしまいます」と。

 

たしかに、聖書の神は(二義的な意味において)寛容を善とはみなしておられない。しかしながら、神はその忍耐ゆえにキリストの再臨を遅らせており、それはまさしく主のご寛容といえないだろうか。ーー人々を悔い改めに導くために(ローマ2:4)。

 

まとめ

 

ここで要点をまとめてみたい。悪しき思想や行動に対しては消極的に(一義的な意味における)寛容が示されるべきである。ーー彼らの悪行の要因についてはこれを大胆に指摘しつつ。

 

その一方、こういった悪しき思想や行動を行なっている人々に対しては、臆することなく積極的に(ここでも一義的な意味における)寛容が示されるべきである。ーーその際、それにより彼らが悔い改め、信仰を持つよう希望を抱きつつ。

 

その意味において、個々人に対する寛容というのは、養われ育まれるべき、すばらしい徳であるといえよう。

 

ーおわりー