巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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世俗の時代における〈聖なるもの〉の位置について(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)

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出典

 

目次

 

James K.A. Smith, How (Not) to Be Secular: Reading Charles Taylor, chapter. 4. Contesting the Secularization 2 Thesis (抄訳)

 

想像された〈聖なるもの〉の位置

 

表現主義的個人主義*1によって統治されている社会の中における「想像された〈聖なるもの〉の位置」とは何でしょうか。

 

チャールズ・テイラーは、そのような社会は、〈聖なるもの〉に関するそれ自身の「祝祭的」表現を作り出していると示唆しています。「普段の行動/感情の中における融合の瞬間ーーそれらは、両者共に〈日常〉から私たちを引き離し、私たちは、自分自身を超えたところにある例外的ななにかとの接触の内に置かれているように感じます。それゆえに、ある人々は、こういった瞬間を、われわれの世界における新しい宗教形態であるとみているのです。」*2

 

依然として〈聖なるもの〉のための空間は残されてはいるでしょうが、何かが明らかに変化したということもまた事実です。テイラーは前項で、宗教的アイデンティティーの型を次のように分類していました。(AR=アンシャン・レジーム、AM=移動の時代、AA=〈ほんもの〉の時代)

 

アンシャン・レジームの時代

 

アンシャン・レジームの経綸においては、「〈聖なるもの〉への私のコネクションは、教会への私の帰属性を必然的に伴う」ものであり、教会(ローマ・カトリック、ルーテル、聖公会)は、社会と同一の拡がりを持っているため、そこには「神に対する忠誠と、国家への帰属の間に紐帯がある。」*3

 

移動の時代

 

移動の時代には、‟脱”包埋(disembedding)がある。そしてここに私たちは「教派主義的想像*4」および自発的共同に対する強調をみるのである。とは言え、「自分の選択した教会」に参入する時、私たちは依然として、より広大なるなにかーー‟the church"及びその遺産ーーと繋がっており、それは依然として国家の企画を養い、刺激している。

 

ほんものの時代

 

しかし現在、表現主義的個人主義者の外観をもつ〈ほんもの〉の時代において、私たちは質的シフトを経験しています。「私の参加している宗教生活や実践は、自分の選択でなければならないだけでなく、それは私に対して語るものでなければならず、自分の霊的発展という点において理に適うものでなければらないのである。*5」表現主義者は、自分自身の宗教(‟霊性”)、そして自己流の個人的イエスを作り出しています。そして〔テイラーによると〕何より重要なのは、〈聖なるもの〉が政治的忠誠から切り離されているということです。*6

 

これは、表現主義的個人主義と歩調を合わせる形で、事物をより一般に緩め始め、こうして外的制限を受け入れることはそれがいかなるものであれ、「合理的」ではなくなってきています。それゆえに、メソディストや敬虔派信者たちが神との感情的出会いに対する強調に解放的ではあったものの、正統派信仰(オーソドクシー)に対するつなぎ綱は保っていたのに対し、その後いくばくも経たないうちに、「この強調は、対象の性質に対してではなく、フィーリングの強度や真性の方へとシフトしていくのである。*7」と彼は述べています。

 

こうして新しい種類の霊的禁令が発生してきました。「各自がそれぞれ自分自身の霊的道程を辿るようにさせよ。あなたの霊的道程がある種のオーソドクシーと適合していないという主張によって先手を取られてはならない。」*8

 

有益なレンズ 

 

世俗に関するテイラーの記述は、非宗教的人口の拡大だけでなく、宗教コミュニティー‟内での” 諸変化を見る上でも有益なレンズになっていると思います。この項でのテイラーの記述は、現代キリスト教における、いわゆる「イマージング・チャーチ」や、反制度主義のかたちを取るその他の形態を理解する上でも有益なレンズを提供しているのではないでしょうか。

 

消費者文化ーーより強靭なる形態の〈魔術〉

 

伝統的、制度的宗教から人々を引き離したものは、大部分において、消費者文化の手柄であり、消費者商品のいやましに輝く光沢の中に私たちは「より強靭なる形態の〈魔術〉」を見い出します。*9*10

 

その結果、表現主義者革命は、

「移動の時代における大規模なる宗教形態を弱体化」させ、

「キリスト教信仰と文明的秩序の間のつながりを弱体化*11」させました。そして、実際、「修練と文明的秩序の間のつながりは断ち切られたが、キリスト教信仰と修練との間のつながりは挑戦を受けることなく存続したため、表現主義と、それにつらなる性的革命は、多くの人々を諸教会から引き離した*12」のです。

 

ー終わりー

*1:"expressivist individualism" / Charles Taylor, A Secular Age, p.486.

*2:Charles Taylor, A Secular Age, p.482-82./ Cp. Dreyfus and Kelly on the role of sport (and the "whoosh"), in All Things Shining: Reading the Western Classics to Find Meaning in a Secular Age (New York: Free Press, 2011).

*3:同著, p.486.

*4:同著, p.450

*5:同著, p.486.

*6:同著, p.487.

*7:同著, p.488.

*8:同著, p.489.

*9:同著, p.490.

*10:訳者注:関連記事 

*11:同著, p.492.

*12:同著, p.493.