巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

置き換えられた「サクラメント」ーー元賛美リーダーによる過去30年の振り返りと自省の記録

出典

 

目次

 

Les Lamkin, How the Church Exchanged Worshiping God For Cheap Emotional Thrills(抄訳)

 

置き換えられた「サクラメント」(by レス・ラムキン)

 

ユーカリスト的に機能するプレイズ&ワーシップ??

 

私たちは、合理的・歴史的・聖書的実践を、人間の「感情」に置き換えるという試みの表れを、「聖餐サクラメント」に対する「音楽による新サクラメント」という置換の内に見い出すことができると思います。

 

ブライアン・スピンクスは著書『ワーシップ・モール (The Worship Mall)』の中で、CCM運動を検証し、その中で、ブロガーであるサラ・コーニッグの言葉を次のように引用しています。

 

「プレイズ&ワーシップの時間は、神的な存在の憐れみと愛との親密なる交わりの中に入りゆく手段です。ーーこれを恩寵の手段と捉えている人もいるほどです。プレイズ&ワーシップは、主要な典礼的(liturgical)要素としての主の食卓〔=聖餐式〕に置き換わるものであるだけでなく、それはある意味、参加者にとって、ユーカリスト的(聖餐的)に機能しているのです。」

 

CCM運動に対して公正な見方をするなら、確かにコーニッグの言明は、極端な見解ではあると思います。しかし、CCM礼拝の支持者の多くがーーコーニッグほど露骨ではないにしてもーーCCMの根底に横たわる前提として、次のような考えを持っているのではないかと思います。

 

つまり、「音楽というのは、その感情的なインパクトゆえにーーその他の礼拝要素すべてを統治し、私たちの礼拝の中で傑出した地位を占めてしかるべき」という前提です。

 

私は音楽の持つ力を疑ってはいませんし、音楽が私たちの心に深く触れるということを疑ってもいません。しかし現在私が疑問に思っているのは、それが個人的に、そしてキリストのみからだとして私たちを造形していく上でのその適切性に関してです。

 

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する」とイエスがおっしゃった時、主の脳裏にあったのは露骨な肉感性だったのでしょうか。ジャスティン・ビーバーや、レディー・ガガの「聖化された」安っぽいパロディーでもって、人々を教会に引き寄せようという考えは、しみも傷もないキリストの花嫁として本当に私たちを造形していくものなのでしょうか?

 

教会の中に生じた「好み文化」

 

スマホやiPodの出現により、歴史上はじめて、私たちは、自分の好きな音楽だけを聞き、嫌いな音楽はスルーすることができるようになりました。パンドラやSpotifyプレイリストで何かの拍子に自分の望まない歌が出てきたりした場合も、「拒絶」のボタンを押すだけでOKです。もう二度とその曲を聞かなくてもよくなります。

 

こうして教会の中で、一種の「好み文化」が産出されていきました。「自分は、典礼中心のA教会に通っている。でも向こうにあるB教会では自分の好みの音楽ワーシップをやっている。なぜ自分の好みじゃない典礼を我慢して、この教会に通い続ける必要などあるだろう?」

 

「教会Cでは、講解説教の代わりに『語り』をやっていて、キャンドルや香の代わりに、マルチメディア・スモーガスボードをやっている。」

 

ステージの上のミニ・プールで即席バプテスマを行なっている教会の主任牧師は、「教会というのはね、決して人を飽きさせちゃいけないんだ。」と何度か私に力説しました。

 

これは反論の難しい主張です。というのも、結局のところ、礼拝において何が正しくて何が間違っているのかを決める権限を誰が私に与えているというのでしょうか。

 

ある人々の言うように、礼拝というのは、やはりスタイルや好みの問題に尽きるのでしょうか。私はちょっと批判的になりすぎているのでしょうか。ある礼拝者を感動させる礼拝の様式も、もしかしたら、隣にいる別の礼拝者にとっては退屈極まりないものであるかもしれないではありませんか。

 

しかし私にとっての葛藤は次のものでした。ーーつまり、やはり聖書は決して礼拝を「個々人の好み」に関連づけてはおらず、「感情」や「音楽」とも関連づけてはいないのではないかと。

 

ヨハネの福音書4章をみてください。イエスは「霊とまことによって礼拝すること」を言っておられないでしょうか。もちろん、主はそう言っておられます。しかしここで主の言及しておられる「霊」というのは、なにか曖昧で、感情的な意味での内面性のことではないと思います。

 

礼拝に関するここ数十年の私たちの神学は、堅固な聖書的釈義に基づいているというよりはむしろ、人気の作詞作曲から引き出されている傾向が強いと思うのですが、どうでしょうか。

 

次の歌詞を読んでみてください。

 

♪ There’s a sweet, sweet spirit in this place. And I know that it’s the Spirit of the Lord / There’s a sweet expression on each face. And I know that it’s the Spirit of the Lord.

(♪ この場所には甘美な、甘美な霊がいる。それが主の御霊だということを私は知っている。/それぞれの顔には甘美な表情が漂っている。それが主の御霊だということを私は知っている。)

 

それから次の歌詞もみてください。

 

♪ Holy Spirit you are welcome here / Come flood this place and fill the atmosphere / Your glory, God, is what our hearts long for / To be overcome by Your presence, Lord.

(♪ 聖霊よ、あなたをここに歓迎します。/この場所をあふれさせ、雰囲気を満たしてください。/神よ、私たちの心が求めているのはあなたの栄光です。あなたの臨在によって圧倒されるために、主よ。)

 

上記の歌詞が含意しているのは、とどのつまり、聖霊というのは、主として、私たちの感情的ニーズのために仕えるべく存在しているということではないかと思います。

 

しかし私はこれに賛成しかねます。礼拝というのは本来、キリストのみからだが、神のいのちに参入する主の招きを受容する営為だと私は考えています。そしてこのいのちは、三位一体の神の中に存在する、無私にして完全なる愛の内に表現されています。

 

また礼拝は本来、造形的(formative)なものであるはずです。そしてそこから引き出される経験は、恩寵の手段として、その中で、神のいのちがーー個人的にそしてキリストのみからだとしてーー私たちに授与されるものではないかと思います。

 

ワーシップ・ソングとロックンロールーー感情の ‟質” は違うのだろうか?

 


何年か前に、この事について友人と話し合ったことがあります。私は友人に言いました。「ワーシップ・ソングを聴いた時に生じる感情と、自分のお気に入りのロックンロールの歌を聴いた時に生じる感情がどうも同じであるように思われてならない。感情の‟質”という点で考えた場合、両者に違いはないように思われるんだ。」

 

すると友人は言いました。「うーん、私はそうは思わないな。私はワーシップ・ソングを聴いた時、ロックとはどこか ‟違う” ように感じるもん。」もしも友人の感覚が正しいのなら、現在、聖書に基づいたliturgyの回復を求めている人々は(自分も含め)、過去のゆえに過去に生きている単なる反動主義者だということになると思います。

 

しかしそれは違うと思います。いわゆる‟聖なる”エモーションというのは存在しません。C・S・ルイスは、私たちの感情が、変動しやすいゆえに、あらゆる乱用・誤用にさらされやすいという事を指摘しています。「御使いがハイであればあるほど」と彼は、私たちのパワフルな感情について言っています。「それが落下した時、悪魔はより巨大なものになるのです。」

 

私たちの感情はパワフルな影響を及ぼします。聖書は、神や神の偉大さ、栄光、愛に対する応答として私たちが感情を用いることを奨励しています。しかしそれと同時に、信仰および実践の分野で、その感情を唯一の指針とみなしてしまうことに対し、聖書は私たちに警告を与えています。

 

Vital Pietyというブログの中で、ケヴィン・ワトソンは、体験に関するウェスレーの取扱いについて議論しています。彼は、体験に関するウェスレーの言明が現代、誤解されていることに触れ、次のように言っています。

 

「近年、体験というのは、、自分を取り巻く世界との出会いを描写するものとして用いられており、その結果、往々にしてそれは、現在人気の文化の持つ ‟流行の視点” へを追認することにつながっています。」

 

そして現在流行している文化は、神のいのちを、露骨な肉感性に置換すべく私たちをだまそうと立ち働き、こうして、クリス・トムリン、ジーザス・カルチャー、ヒルソングの類によって、官能性は教会内にこっそり侵入してきています。*1

 

ああ、なんというペテン!なんという詐欺!神は礼拝の中で御自身を私たちに与えたいと願っておられるのです。それなのに、私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。

 

もしも過去に戻ることができるのなら

 

私はミュージシャンです。これまでの30年に渡り、私は自分の教会の賛美チームを率いてきました。しかし今になって思うのです。ああ、過去に戻ることができるならと。

 

それが叶うのなら、私はこれまで自分のやってきたこと全てを撤回したい。ロックン・ロールの一切合財をステージから取り下ろしたい。ワーシップという名の元に自分がやってきた露骨な感情の吐露を消し去りたい。そして、、(あえてこの言葉を使いますが)あらゆる偶像礼拝を撤回したい。

 

「偶像礼拝?」

「レス、ちょっとそれは言い過ぎじゃないですか?批判するにもほどがあると思うんですけど、、」

 

そうかもしれません。でも、、、やはり私はそれを否定できないのです。コンテンポラリー・ワーシップの中で実際に何が崇められているのかを皆さん、よく考えてみてください。

 

天地の造り主、恐るべき威厳を持つ王である神でしょうか。教会史全体を通し、また私たちの人生の中で祝われてきた神の偉大なる救いの御業でしょうか。私にはそうは思われないのです。

 

結局のところ、コンテンポラリー・ワーシップの中で崇められているのは、私たち自身の感情的ステータス、私たち自身の感情的望み、私たち自身の心理学的自我、私たち自身の肉感性に対する願望ーーこれなのではないでしょうか?

 

神礼拝ーー人間に与えられた至高なる召命

 

礼拝というのは本来、神についてのものであり、私たちのためのものです。

 

礼拝が神についてのものであるというのは、つまり、私たちの礼拝において神こそが唯一の主体であり対象であるということです。

 

そして礼拝が私たちのためのものであるというのは、つまり、礼拝が造形的なものであって、単なる表現ではないということです。

 

しかしながら、コンテンポラリー・ワーシップは、それらすべてを逆転させ、礼拝を「私たちについてのもの」「私たちの願望に関するもの」「私たちのフィーリングや感情に関するもの」にし、そしてそれを「神のため」という風に見立てています。

 

ここには非常に重要ななにかがかかっています。神のいのちの内に参入するというのはどういうことでしょうか。神を知る営為はサクラメントを通してなされるものなのでしょうか。

 

ーー個人的にも、そしてキリストのみからだとしてもーー神が私たちを知るのはサクラメントを通してなのでしょうか。私が神との交わり、そして同胞クリスチャンとの交わりの中に入れられるのは、公同的キリストのみからだである教会を通してなのでしょうか。

 

聖アウグスティヌスは次のように告白しています。「主よ、汝は偉大であり、大いにほめたたえられるべき方、、、そして人間は、取るに足りない汝の被造物でありながら、なおも汝を讃えようと望みます、、、汝は私たちを動かし、汝を讃えることを喜びとなしたまいます。なぜなら、汝はご自身のために私たちを造りたまい、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないからです。」

 

私たちは神礼拝をするべく創造されました。神を礼拝することは、私たちの至高なる召命であるばかりではありません。イエスは「心を尽くし、、あなたの神である主を愛せよ」と言われ、それが最も重要な掟とみなされています。

 

そうであるなら尚更のこと、--私たち自身のためにも、そしてこの世界のためにもーー私たちは礼拝を再び正道に戻す必要があると思います。

 

ー終わりー

 

ある長老の証し

 

私は賛美を愛しています。そして過去16年間に渡り、私は某メガチャーチの長老として仕えてきました。私は開拓当初から教会を去る日まで、その教会の忠実なメンバーでした。教会はゼロの状態から急成長し、米国内外に知られるようになりました。主任牧師は教会成長/開拓の組織を指導しています。

 

私にとっての「ワーシップ」というのは、教会で見るものでした。壁に架けられた十字架やライトが、音楽と共にチカチカ小刻みに色を変え、前方の巨大なステージはスモーク・マシーンの効果により霧で濛々としていました。

 

その後、私の家庭に、続けさまに二つの死という悲劇が襲いました。この悲嘆の最中、今まで見えていなかった多くのことが明らかにされていきました。それは教会で起こっていることだけにとどまらず、自分の人生の中の数多くの領域にも及びました。

 

ある日、私と妻は、保守的な聖公会のミサに出席しました。そこで私は初めて、「音楽のボリュームよりも人の歌声の方が大きい賛美の空間」というものに遭遇しました。それだけでなく、人々がうやうやしく福音書を読み上げる姿にも感銘を受けました。

 

横をみると、妻は泣いていました。私も驚きの目で茫然とこの礼拝光景をみていました。こういう風に人は生ける神を礼拝するのか、、とにかく自分にとって驚きでした。そして聖餐の時となりました。おお、その時のことを私はなんと表現したらいいのでしょう!

 

こうして、私と妻は、聖公会信者になりました。自分がアングリカンになるって?そんなクレージーなことがあり得るのか??まだ友人たちにはこの事実を明かしていません。もし話したら、きっとみんな、彼の頭、ちょっとオカしくなったんじゃないかと思うに違いありません。

 

今自分が出席しているミサの中では、すべての事が十字架に向かい、神に関することに向かっています。典礼歌の言葉から御言葉の朗読に至るまで、すべてが神に向かっています。

 

歌う人たちがステージでどんな服を着ているのかとか、ミュージシャンや歌手たちの歌唱力はどれくらいかとか、そういう事がもう気にならなくなりました。思えば、前の教会では、多くの人が実際には、ミュージックのテンポについていくことができず、そのため、席に突っ立ち、口を動かさずただステージを見つめていました。

 

振り返ってみると、私たちは、人々を教会に引き寄せるために、フィーリングや、「求道者の気分を害するようなことを言わない」というポリシー、便宜さを優先させ、その結果として、本当に守るべき大切な事柄を最小化してきたように思います。

 

今、自分にとっての ‟ワーシップ” の最大の山場は、「聖餐」です。その時、牧師は一片のパンを置き、目をじっと見つめながら言います。「これはあなたのために裂かれたキリストのからだです。」そして私は「アーメン」と言います。

 

ー終わりー

 

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