巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プロテスタント信仰の原点に立ち返る(三谷隆正)

Image result for 三谷隆正

三谷隆正(1889-1944)京都府与謝郡弓木村(現・与謝郡与謝野町)出身で、横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。明治学院中学在学中、異母姉三谷民子(のち女子学院院長)の影響でクリスチャンとなった。父の事業破産によって、第一高等学校在学中から住み込みの家庭教師として自活。東京帝国大学在学中より、内村鑑三に師事。1915年に大学を卒業すると、法制とドイツ語の教授として第六高等学校に赴任。1924年に病で長女と妻を相次いで失う。1926年に六高を辞して上京、千駄ヶ谷教会に長老として参加。1927年から第一高等学校教授となり、法制とドイツ語を担当。数度にわたる帝国大学教授就任への誘いを断り続け、1942年に講師を辞するまで高校教師として堅実に勤務。温厚な人柄で知られ、一高の良心と謳われた。

 

印刷術の発明がなかったら、16世紀の宗教改革は不可能であったろう。そうして原始のキリスト教は徐々に忘れ去られてしまったであろう。そういう意味のことをヒルティーが言っている。面白い見方であると思う。*1

 

けだし16世紀の宗教改革における最大の文化的事件は、おそらくルターによる聖書のドイツ語訳である。それは聖書を民衆の書にしたことを意味する。すなわち、従来の教会においては、聖書は僧職の書であって民衆の書ではなかった。ちょうど日本の仏教のお経のようなものである。

 

聖書とは僧侶により、もっぱら教会において、一定の儀式を伴いつつ、ラテン語で誦せられる書であった。そうして民衆は、これを聞くだけであった。而もラテン語であるから、庶民はたいてい訳は分からずにただ聞くのである。

 

民衆にとっては、聖書とは、耳をもって聴くべき音声であった、眼をもって読むべく親しむべき書物ではなかった。その聖書を、当時の口語に過ぎなかったドイツ語に翻訳して、一般ドイツ民衆の読み物にしたのが、ルターの聖書翻訳事業である。

 

Image result for Martin Luther  Bible in German

 

ルターのこの翻訳事業により、聖書はローマとそのラテン語との覊絆(きはん)から自由にせられ、僧職とその儀式ないし教権から解放されたのである。そうしてその事がとりもなおさず、16世紀の宗教改革の核心をなすものである。

 

而して時恰(あたか)もよし、同じドイツ人グーテンベルグにより、書籍政策術としての印刷術は、すでに画期的なる完成に到達していった。そのために書物は、筆写にのみよりし昔に比し、はるかに得易きものとなり、庶民といえどもこれを手にし得る底(てい)の財となっていった。かくて精神的にも物質的にも、聖書は完全に民衆の書となっていった。それが16世紀の宗教改革である。

 

この宗教改革がドイツ文化一般に及ぼしたる影響は、真に驚くべく深刻である。従ってまた実に広汎である。その事は400年後の今になって、日一日と明らかになりつつある。例えば、宗教改革のドイツ文学への影響を考えてみても、大略次のようなことが認められる。

 

第一は、再びルターのドイツ語聖書である。学者の研究はもとより、諸々の公文書等にいたるまで、高尚の文章と言えば、ラテン語と定まっていたような時代に、ルターが聖書をドイツ語に書き改めたということは、ドイツ語学ドイツ文学上の画期的大事件である。

 

ルターの聖書翻訳は、ドイツ語が聖書の内容に耐え得る言語であることを証明したものであった。そうして聖書の内容に耐え得る言語は、もっとも深邃(しんすい)なる精神的消息の表現に耐え得る言語である。

 

果然、その時以来、ドイツ語は、もっとも深刻なる内面的消息を盛る器として、飛躍的なる発達を遂ぐるに至った。そうして其勢を助長したものが、ドイツ宗教改革それ自身である。そのプロテスタント精神それ自体である。

 

なぜかと言うと、パウロのいわゆる、儀文は殺し、精神は活かす(2コリ3:6)というのがプロテスタント精神の要諦である。われらの霊を活かすものは、衷なる人の更生であって、教会的儀式的でない。日に十遍祈祷文を朗誦し、月に百遍諸所の聖礼典に列しようとも、そんな形式的な勧行だけでは、くその役にも立たない。

 

精神!精神!われらの衷なる精神を、キリストとその十字架とにつかしめなければ、駄目である。ここをもて、プロテスタントたる信者たちは、競うて自家の内面的反省に精進した。すなわち、彼らは密室に独り坐して聖書を読み、独り祈りつつ、己が霊の消息に注意を傾けた。

 

その結果産れ出でたるものは、一には日記文学である。すなわち宗教的なる自省録としての日記文学である。次には手紙文学である。すなわち、或は夫婦、或は兄弟、また或はたがいに相親しき友人・師弟などの間に取り交わされたる、信仰的内面的消息の往復である。

 

ドイツ宗教改革におけるその内省的傾向は、思想的内容に豊富なる日記文学と手紙文学とを産んだのである。そうしてその間、内面的精神的なる微妙なる動きを表記する言葉として、ドイツ語は微妖幽玄なる詞藻を、おおいに増し加えたのである。この事は、ドイツ文学の発達とその特色とに関し、きわめて重大なる意味をもつ事である。

 

いったいドイツ文学の歴史は、比較的に新しいものである。つい近頃まで、すなわちフランス革命頃までというものは、ドイツ人の教養はもっぱら外国文学に依頼するものであった。その点、明治以来の日本によく似ている。

 

例えば、プロシャの賢君フリードリヒ大王の如き、フランス語を常用し、フランス文学に心酔した人であって、大王の書いたドイツ文は、はなはだみっともないドイツ文である。ドイツ文学に比べると、フランス文学や英文学ははるかに先輩である。

 

ドイツ文学は18世紀の中葉、レッシング、ゲーテ、シラーの三人を経て、はじめて大成の域に達したと言っていい。而もこの三人に共通な特色は、彼らの文学がその内容において、著しく内面的であることである。

 

おそらく世界古来の文学の歴史において、大成期のドイツ文学、すなわちいわゆる古典時代のドイツ文学ほど、燦然(さんぜん)として内面的光輝に輝く国民文学は例が少ないであろうと思う。それは衷なる霊の深き渇きに触れたる文学である。

 

そこに描き出されてあるものは、生活の外面的葛藤であるよりは、主として魂の内面的葛藤である。内面描写において特にすぐれたる文学である。

 

そうしてドイツ文学が持つこの独特なる内面的傾向と、16世紀の宗教改革以来養われ来ったドイツ新教の内面的傾向と、この二つが互いに無関係であり得る筈がない。なるほどドイツ精神における如是、内面癖は、16世紀以前にも認められ得るであろう。例えばその一例として、1327年に死んだドイツ神秘家エックハルトを挙げることもできるであろう。

 

しかしとにかく、16世紀のドイツ宗教改革が、宗教生活の内面化をその基調としたことは、極めて明らかな事実である。そうしてその結果、上述のような、特に内面的な傾向をもつ哲学が生まれたこと、是亦きわめて明らかなことである。

 

そうしてその源が、或はそれの主たる原動力が、ルター訳のドイツ語聖書にある。聖書がドイツ民衆の書となり、ドイツ民衆が直接に、母国語を以て聖書に親しみしことにある。僧侶たる専門家の介在なしに、民衆が自分の自室で、みづから聖書を読み親しんだことにある。

 

その間の機械的一要素として、印刷術と、それによる読書の簡易化という事が、ドイツ民衆の精神生活に対し、どれほど貢献したことであろうか。精神生活に対する読書の影響は、何といっても大きなものである。

 

すなわち又、読書が信仰生活に及ぼす影響も、ずいぶん大きなものである。殊にプロテスタント的信仰と読書とは、切っても切れぬ縁を以て結ばれている。何故であるか。

 

いったい真に独立した一家の見というものは、人が独り在る時にのみ立ち得るものである。ひとから物を言い聞かされている間は、自家独特の見を立て得るものでない。耳から入る言葉は、聴く者に反省の機会を与えてくれない。そのすきもなしに、どしどし矢つぎ早に迫って来る。

 

だから我々が本当にじっくり物を考えて、独自の見解を固めるのには、先づ耳を蔽う必要がある。耳を蔽うて密室に独坐独考する必要がある。唯然書物だけは、密室に於ける独坐独考を妨げる事が少ない。なぜならば、書物は物言ふ人間ほど矢つぎ早でない。早口でも遅口でも、此方の注文通りの速度である。加えるに極めてつつましやかであって、決してあつかましく迫らない。

 

その上に書物は、どんなに偉い書物でも、偉い人間ほどそれほど、我々を威圧する事がない。われわれはそれに対して、ぎこちない圧迫感を感ぜしめられない。書物は我らにとって、最も気の置けない師であり、心友である。

 

故に書物ならば、之を我々の密室に招じ入れても、我々は我々の独坐独考を妨げられることなきを得る。書物は我敢えて問ふにあらずんば、決してその沈黙を破ることなき、わが同室者である。

 

我々は書物と同室しつつ、完全に書物を忘却し得るし、またしか欲する時、直ちに彼と面語することができる。すなわち耳から入る言葉は、精神の独立を損じ勝ちであるけれども、眼から入る音なき言葉は、精神の独立を損ずること極めて少なくして、しかも最も親切にわれら独自の思慮に、助勢してくれることができる。

 

信仰についても、事は全く同じでなければならぬ。本当に聖書を了解し、しっかり福音の真理をつかむには、説教や講演や、そういう耳から入る言葉にばかり、聴き耳立てていてはいけない。

 

そういうものをいくら熱心に聴いても、自分自身で聖書を熟読しない間はだめである。自分みづから聖書に親しみ、独り静に聖霊の教導を祈ることをしない間は、だめである。

 

プロテスタント的信仰の、カトリック的信仰に対する強味は、正にここにあるのである。すなわち、プロテスタント的信仰は、平信徒各自が、自分で聖書に親しみ、自分の祈りを祈ることによって、培われたものである所に、その本領がある。

 

自分で聖書を読むことをせず、牧師の説教を通して、耳からのみ聖書について聴くのを事とするプロテスタント!そんなプロテスタントは、味を失いたる塩である。

 

プロテスタントの信仰は、そんなあてがい扶持(ぶち)であってはならない。あてがい扶持を望みの仁は、宜しくローマ教会に往くべし。あてがい扶持としては、ローマ教会ほど行き届いた扶持は、ほかでは貰えないであろう。日本の新教教会でくれる御扶持などは、貧弱きわまる。

 

信仰とは神様に信頼することである。僧侶や教会に縋(すが)ってそのあてがい扶持を貰うようなことをしないで、直接神様に御すがりして、直接神様の御手から、その日その月の御扶持をいただく事である。

 

故に、信仰において我ら神に近づこうとする時、それは神様と我らとの直取引でなければならぬ。その間に他人が介在してはならない。その意味において、説教や講演の時間は、真に信仰的なる時間ではない。我らが真に神様と直接し得るのは、教会者流謂ふ所の礼拝の裡(うち)でもない。我らが唯ひとりで祈りてある時である。唯ひとり聖書を読みつつある時である。

 

こと信仰に関する限り、それは神様と我らとの間の直接の問題であって、牧師や監督や法皇や、教界の如何なる権力者であろうとも、そういう第三者に、われらの霊の休戚を委ねることはできない。

 

我らは我らの聖書を、声もて我らに迫らざるこの書物を、唯ひとりの介添えとして、密室のうちに神をよばうて立つのである。この聖書あるによりて、すべて教権を以て我らを威圧せんとする者の手を脱れて、大胆に自由に、父なる神の聖前に出て、直接キリストの執り成しに与ることができる。

 

聖書は我らを教権の矛(ほこ)からかばうてくれる盾である。聖書は我らプロテスタントの信仰のために備えられたる唯一の武器である。プロテスタントとは聖書に立って、教権に抗する者の謂である。そのプロテスタントが聖書をみづから読まずして、どうする。

 

某という文盲の大工さんが、ある機会から生粋のプロテスタント的福音に接した。そうして福音的信仰に眼醒めた。その結果、彼は驚くべき熱心を以て、文字の学習を始めた。やがて聖書が読めるようになった。後には信仰雑誌『聖書之研究』をも読むようになった。これがプロテスタント的信仰である。

 

現代日本の教会の信徒たちは、驚くべく聖書を読まない。聖書以外の信仰書を読まない。一体に読書らしい読書をしない。教職者たちさえ、ろくな読書をしない人が多い。だから彼らは独立の信仰を持たない。一体に精神的に独立していない。

 

彼らは言う、聖書の研究などということは、平信徒のやるべきことでない。それは専門家のみのやるべきことである。われわれ平信徒は、専門家の研究の結果を信受するよりほかない。そういう風に考えている人が大多数である。

 

Photo credit: byronv2

 

すなわちその精神において、カトリック教会と少しも択(えら)ばない。折角ルターが聖書を平信徒の書にしたのに。そうして印刷術の大発達が、聖書ならびに聖書以外の多くの良書を、完全に民衆の書たらしめているのに。

 

読まずに聴いてばかりいたのでは、我々は精神的に独立を喪(うしな)う危険がある。我々は我々のプロテスタント的独立の信仰を固くする為、またなべて我々の精神的独立を確保する為、聴いてばかりいないで、大いに読む必要がある。信仰と精神との独立を重んずる士は、決して読書を軽視してはならない。

 

『三谷隆正全集第4巻』「世界観・人生観;読書に就いて」より一部抜粋、昭和7年(1932年)。

*1:Carl Hilty, Uber das Lesen.