巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

永続性の根底にあるもの(山田昌)

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 「わが憐みなる神よ、御身を呼び求めたてまつる。あなたは私を造り、あなたを忘れていたときにも、その私をお忘れにならなかった。あなたを心のうちに招じ入れたてまつる。

 心が熱望をもってあなたをお迎えするように、心を準備してくださるのはあなたである。熱望を心にふきこんでくださるのもあなたである。いま、御身を呼び求める私を見捨てたもうな。あなたは、呼び求めるものより先に来たりたまい、さまざまな声でくりかえしくりかえし、遠くからその声を聞き、むきかえり、自分を呼びもとめていられるあなたを呼びもとめるように、私に迫りたもうた。」ーーアウグスティヌスの『告白』第13巻1章より

 

目次

 

山田昌著「教父アウグスティヌスと『告白』」より一部抜粋

 

永続性の根底にあるもの

 

おおよそ偉大な思想家は、二つの側面をもっている。彼らはすべて、その思想のうちに「永遠なもの」をもっている。「永遠なもの」は時代を超越し、何千年をへだてて若々しい生命を感じさせる。「永遠なもの」は、常に「現代的なもの」である。

 

しかし他面、すべての偉大な思想家は、彼自身が生きた時代を徹底的に生きぬいた人である。何人も時代の子たるをまぬがれることはできない。偉大な思想家といえども、その時代の子たることをまぬがれない。いやかえって、偉大な思想家なるがゆえにこそ、彼らはその時代の子である。

 

偉大な思想家は、彼が生きた時代を代表し、象徴する。このように、偉大な思想家は、「永遠的」であるとともに、「時代的」であるという二面をかねそなえている。

 

しかもこの二面は、彼らの思想において、併存するのでも、混在するものでも、対立するものでもない。彼らの思想の、この部分は永遠的でこの部分は時代的であると、分かつことができない。分かたれたものは、永遠的でもなく時代的でもなくなってしまう。

 

それはなぜか。彼らの思想における永遠的なものは、まさしく時代的なものに即してあらわれるからである。彼らは時代を逃避して永遠を追いもとめたのではなくて、彼らの生きた時代(彼らにとっての現代)を徹底的に生きぬくことによって、永遠性をかちえたのである。

 

それゆえ、ある思想家について、彼の永遠的なものを見いだすためには、彼がいかなる時代に生き、いかなる現代を生きぬいたかを深く知る必要がある。

 

アウグスティヌスの「現実」

 

彼の生涯のうちで、もっとも静かであったのは、おそらくカシキアクムに過ごした半年であったろう。それ以後の彼の生活は、けっして「安穏」とか「閑暇」とかいえるものではなかった。彼は騒々しい「世間」を逃避して静寂な「僧院」に閑居したのではけっしてない。

 

彼は回心以後、対マニ教論争、対ドナティスト論争、対ペラギウス論争に、それぞれ15年以上の年月をかけている。論争ということは、けっして楽な仕事ではない。ましてや彼がまきこまれた論争は、宗門内部のけんかのようなものではなくて、生死をかけた仕事であった。

 

その論争をしながら、一方では信者たちに聖書の講義をし、しかも『三位一体論』や『神の国』のような大著を、それぞれ十余年もかかって書いている。並大抵の努力ではない。

 

しかもアウグスティヌスは、終日、僧院にこもって、読書と著作ざんまいにふけったのではない。当時の司教は激職であった。司教は教会内部の裁判長でもあった。あらゆるもめごとが司教のところにもちこまれてきた。昼の時間の大半は、そういう仕事についやされた。

 

著述と読書はおおむね夜の仕事であった。われわれは、アウグスティヌスのあの膨大な著作が、ほとんどすべて、彼の深夜のアルバイトから生まれたことを知らねばならない。その時代の人々が知り、いまでは神のみの知りたもう、昼の仕事があったことを忘れてはならない。

 

要するに、アウグスティヌスが「世間」を去ったということが、けっして「逃避」ではなかったように、「教会」における生活も、けっして安閑たる隠者の生活ではなかった。

 

彼の時代、「教会」はあらゆる意味で、形成の過程にあった。「教会」は、信者未信者を問わず、当時のすべての人々にとって、現実的勢力であり、ますます現実的勢力たることを増しつつあった。

 

アウグスティヌスにとって、教会の中に生きることは、まさに彼の時代の「現代に生きる」ことであり、けっして後世のわれわれが考えるように、現代からはなれて隠遁の生活を送ることではなかったのである。

 

ルターの場合

 

「世間」から去ってではなく、まさに「世間において」福音を実践すべきだという思想は、近代キリスト教の精神である。その代表者であるルターについて考えてみよう。彼の時代をよく理解するならば、彼のキリスト教思想の必然性もみとめることができよう。

 

アウグスティヌスとルターとのあいだには、じつに千年という間隔がある。そのあいだに、西ヨーロッパの情勢は一変したのである。

 

まず教会が変わった。教会は西ヨーロッパの一大勢力となった。修道院は封建貴族と肩をならべる大地主となった。「世間」も変わった。西ヨーロッパには、アウグスティヌスの時代にまだ勢力を占めていた「異教徒」なるものは、もはや存在せず、ほとんどすべての人間が、すくなくとも形式的にキリスト教徒となった。

 

「世間」一般の宗教的レヴェルが上昇したのにたいし、「教会」の宗教的レヴェルは低下した。かつてほんとうに貧しかった修道院は、いまでは富者となった。それなのに、彼らはいぜんとして自分たちは「清貧」であり、「世間」は堕落していると考えている。自分たちは霊的に優位で、世間の人間は劣等であると考えている。

 

このような時代錯誤的な優越感にたいして、ルターは反省の目を向けた。そして千年前、アウグスティヌスが「世間」を去って「教会」におもむいたのと逆のコースをとり、「教会」を去って世間におもむいた。

 

それは教会の生活がつらくて、たえきれず、世間に逃避したのではない。「世間」の中に、新しい「教会」をうちたてるためだった。アウグスティヌスが「世間」から「教会」に、神によって呼ばれたように、ルターは「教会」から「世間」に、神によって呼ばれる。ここに、近代的キリスト教の精神が成立する。

 

アウグスティヌスの「隠遁性」を非難する人々は、この近代キリスト教の立場から「教会」と「世間」とを考え、その立場からアウグスティヌスを判断しているのだ。彼らは、アウグスティヌスとルターとの生きたそれぞれの「現代」のあいだに、実に千年のひらきがあることを忘れている。

 

キルケゴールの場合

 

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では、ルターにはじまる近代キリスト教の精神は、現代のわれわれにとっても、はたしてなお「現代」であるか?キルケゴールの出現は、それを否定していると思われる。

 

キルケゴールは、ルターにはじまる「世間のおける福音の実践」という近代キリスト教精神の、仮借ない批判者として19世紀後半にあらわれる。

 

「世間において実現された教会」はキルケゴールによれば欺瞞である。歴史がそれを証明する。近代キリスト教精神は「世間の教会化」をめざしながら、じつは「教会の世俗化」をもたらした。このような「教会」にキルケゴールはたえられない。

 

彼は世俗的な教会から逃げる。しかしどこに逃げたらよいか。アウグスティヌスは、異教的な「世間」から、キリストの「教会」に逃げた。それは彼の時代の「現代」から逃避するためではなく、かえって「教会」においてこそ、真実に現代に生きる希望があったからだ。

 

ルターは、堕落した「教会」から「世間」に逃げた。それはキリスト教そのものをすてるためでなく、かえって「世間」にこそ福音の実現される希望があったからだ。

 

しかしいま、中世的「教会」にも、近世的「教会」にも絶望したキルケゴールは、もはやそこに逃げてゆくべき「教会」をもたない。彼は、初代の隠者が世間をすてて砂漠に逃げたように、「実存」という砂漠に逃げるのである。

 

しかしキルケゴールが「実存」の砂漠に逃げたのは、そこに隠遁し、安易な余生を送るためではなかった。アウグスティヌスを「世間」から「教会」へ呼びだした者、ルターを「教会」から「世間」へ呼びだした者が、神の声であったように、キルケゴールを、プロテスタント教会から「実存」の砂漠に呼びだした者も神であった。それは、隠遁するためではなくて、そこに新しい「教会」を建てるためだった。

 

現在、キリスト教の意識は、キルケゴールのひらいた世界にいる。カトリックたると、プロテスタントたるを問わず、まじめに考えようとする者は、キルケゴールがひらいた実存の砂漠を忘れることができえない。

 

永遠から現代凝視を

 

私がなぜこのようなことをいうか。アウグスティヌスの隠遁性を非難し、自分たちはもうこの点においてアウグスティヌスを「こえている」と考える者は、彼自身、あとから来た者によってすでに「こえられている」ことを示すためである。重ねて言う。思想における永遠なものは、その時代を徹底的に生きぬくことによって得られるのである。

 

歴史的状況は刻々と変わってゆく。それにおうじて、われわれにとっての「現代」も変わってゆく。しかし、その現代に処し、現代に生き、生きぬくことによって現代をこえる方法そのものは、昔も今も変わらない。

 

この点に着目するとき、われわれは、アウグスティヌス、ルター、キルケゴールに共通するものを発見する。そのものこそは、彼らの思想における「永遠なもの」である。

 

「現代」は「現代」なるがゆえに尊いのではない。昨日の「現代」は今日の過去である。今日の「現代」は、明日は過去となるであろう。「現代」のみを価値の標準としているあいだに、いつのまにか彼自身、その標準とともに過去になり、忘れ去られるであろう。

 

「現代」はそこにおいて、ただそこにおいてのみ「永遠」が実現される場所として尊い。現代において永遠を実現するために、われわれは「永遠なもの」を現代から判断する態度をあらためて、「現代」を永遠なものから判断してみなければならない。古典はすべてそのような意味をもつであろう。