巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プロテスタンティズムというのは「新奇な教えの寄せ集め」に過ぎない?

「プロテスタントとは歴史的に新しく出てきた教会なので『新教』とも呼ばれます。これに対してローマ・カトリックは『旧教』と呼ばれます。正教会は『旧教』でも『新教』でもありません。『正教』です。」

ーー正教会のサイトより

 

今、G・K・ビールの「神殿と教会の使命ーー神の臨在の場に関する聖書神学」(The Temple and the Church's Mission, A Biblical Theology of the Dwelling Place of God)という本を読んでいます。

 

 

これはD・A・カーソン主幹の New Studies in Biblical Theology シリーズの第17巻目に当たります。

 

ページ数は458頁、巻末には実に20頁に渡る膨大な文献目録が付いています。また、ページをめくっていただくとお分かりになると思いますが、各段落の注釈の量も質も半端ではなく、(フィロンやヨセフス等の1世紀のユダヤ教解釈、古代中近東の考古学資料も含めた)徹底した一次資料研究と、ゲルハルダス・ヴォス系列の緻密な聖書釈義がなされている労作です。

 

著者は、新旧約間の有機的一体性、連続性/非連続性、漸進性を念頭に置きつつ、神の臨在の場としての「神殿」を創世記から黙示録まで克明かつ力学的に辿っていきます。

 

私は個人的に著者の釈義にはかなりの説得力があると思っています。でもその「説得性」は結局、プロテスタンティズムという領域内だけで効力があり、真実性があるものなのでしょうか?

 

もしも私たちのプロテスタント神学の釈義が本当に正しく、普遍妥当性があるのなら、なぜその真理は他宗派に伝播していかないのでしょうか?なぜ、プロテスタント関係の信仰書や神学書の読者層の大部分は、プロテスタント教徒に限られており、アマゾンレビューのほとんども「内輪」からの声に限られているのでしょうか?

 

この本を読み進めながら、「教父学の学者や、伝統諸教会の正統派神学者たちは、著者ビールのこの神殿解釈をどのように批評するだろう?」と純粋に彼らに訊ねたい思いでいます。

 

ぜひとも私が訊きたいのは、具体的にどの点で彼らはビールの神殿釈義に同意でき、またどの点で同意できないのかということです。

 

また、私のassumptionとしては、この釈義には、プロテスタント神学という局地的領域を超えた普遍性の一片が存在し、それゆえ、たとい全部ではなくとも、少なくとも部分的には全キリスト教会(οἰκουμένη)的に受容され、認められる真理の要素があるのではないかということです。近いうちに、米国の教父学会の方々に直接問い合わせ、彼らの率直な批評を聞いてみたいと思っています。

 

現在のプロテスタント教派の諸解釈は、「新奇な教えの寄せ集め」ということで相場が決まっています。冒頭の引用句で含意・宣言されているのは、カトリック、プロテスタントというのがただ単に歴史的軸で「旧」と「新」に分類される一方、オーソドックスはそういった横軸を超越したところにある「正」、つまり文字通りの "orthodoxy" (ορθο+δοξία=正しい見解;"right opinion")を持しているということです。

 

そこから私は、自分たちの集団的アイデンティティーとしてあてがわれている「新教」の「新」の部分について深く考えざるを得ないのです。

 

確かに「プロテスタントとは歴史的に新しく出てきた教会なので『新教』と呼ばれる」という指摘は正しいと思います。

 

ですが、その「新」は、「新奇な教え、なんでもウェルカム !」という意味での「新」ではなく、「時代の流れに合わせ、礼拝形態も教えもどんどんアップデートしていきましょう」という意味での「新」でもなく、元来その目指さんとしていたところは、「伝統教会の流れの中でいつしか喪失されていった、旧く普遍的な使徒的教理を掘り起こし、それを回復させよう」という改革的・刷新的な意味での「新」ではなかったのかと思うのです。(そうであってほしいです!)

 

ビールの堅固で徹底した釈義、および本書に収められている古今東西の源泉資料を読みながら、「いや、プロテスタントというのは糸の切れた風船のようにふらふら漂う、根無し草で刹那的『新』宗派ではないし、本来はそうであるべきではない」と、内面に力強い励ましを受けています。感謝です。