巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書信仰のクリスチャンは、ソシュールの構造言語学をどのように評価すべき?(by ヴェルン・ポイスレス)【大学生の皆さんへの応援記事】

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目次

 

 

訳者はしがき

 

私はこの翻訳記事を、クリスチャンの大学生の皆さんに捧げたいと思います。皆さんがもし文科系の学生であるのなら、おそらく必ず一度は「ソシュール」「チョムスキー」「構造言語学」「生成文法」等の言葉をどこかで耳にしたはずです。

 

そして皆さんがイエス様への信仰に対し真剣であればあるほど、心の中で「これって聖書的にはどうなんだろう?」と漠然とした不安な思いに駆られることも少なくないと思います。

 

私もソシュールの理論を学んだ時、それが一体、聖書的に正しいのか間違っているのか、クリスチャンとしてこれをそのまま受容していいのか良くないのか、そしてもし良くないのだとしたら具体的にどこが良くないのか等、一人で悶々と悩んでいました。

 

理論や体系というのは、それが良いものであれ悪いものであれ、一度中に入ると、ある「見方」が出来てしまい、意識的にも無意識的にも、そのパースペクティブでもって周りの世界を見たり解釈したりするようになるため、できることなら、中に入る「前に」、はたしてそれが聖書の基準に照らしてどのような性質のものであるのかを知っておくことが大切だと思います。

 

ソシュールを理解するにはまず、ーー「歴史」から「構造」へーーという20世紀における思想の一大転換の流れを掴むことが肝要だと思います。

 

この翻訳記事では、まず、その大きな流れをつかみ(記事①)、その後、ソシュールの構造言語学の中身を調べていくことにしたいと思います(記事②)。

 

記事①

Vern Poythress, Inerrancy and Worldview(「聖書の無誤性と世界観」), chapter 7. The Change from History to Structure, p.56-58

記事②

Vern Poythress, In the Beginning Was the Word: Language--A God-Centered Approach(「初めにことばがあった:言語ーー神中心のアプローチ」), Appendix E, The Contribution of Structural Linguistics, p.332-335.

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大、新約解釈学) 

 

〔記事①〕20世紀における思想の一大転換の流れを掴む

 

「歴史」から「構造」へ

 

さて、21世紀に入っても、歴史的・批評的方法の伝統は依然として影響を及ぼし続けています。なぜなら、人々は今も聖書に記録されている歴史およびその起源についての歴史について関心を持っているからです。

 

しかしそういった歴史的問いと並行して今度は、社会科学の方面から新たな種類の問いが投げかけられ、興隆してきたのです。それではまず、この一大シフトについて考察し、その後、社会科学それ自体をみてみることにしましょう。

 

文化的変遷

 

1962年、ジェームス・バーが、それまで支配的だった聖書への歴史的アプローチに対し問題提起をしました。*1

 

彼は、「歴史を通した啓示」に関する省察が、その当時の神学の間で著しく顕著であることに気づきました。

 

そういった省察は、19世紀および20世紀初頭の世俗文化において支配的だった歴史的説明に弁証的に対峙する上で、確かに神学者たちの助けとなってきたのかもしれません。

 

「しかし」と彼は思いました。「学術的環境は今や、社会科学興隆により、一大転換しつつあるのではないか?」そして次のように述べました。

 

 「歴史学というのは、(19世紀当時とは違い)我々を取り巻き挑戦を与えてくる知的環境の中にあって、もはやかつてのような中心的指導者および探検家ではなくなっている。

 

 現在みられる現象は、社会科学、人類学、経済、言語学といった諸学の勃興である。(少なくともこういった諸学の中の一つや二つは今後ますます聖書学に影響を及ぼしてくると予測される。)

 

 これらの方法論は、部分的にしか歴史的ではない。そして人間生活(あるいは、歴史学的偏見でもって我々がしばし「歴史的存在」と呼ぶところのもの)は、歴史的アプローチだけでなく、超歴史的(trans-historical)な視野で研究することが可能であるし、またそうでなければならないということを、これらの諸学は我々に示している。

 

 今後、キリスト教信仰に対する挑戦は、こういった新しい思想世界から興ってくるだろう。そしてそれらは我々がこれまで馴染んできたものとはかなり異なる様相を帯びていることだろうそして今後我々に向けられてくるこういった数々の挑戦に対し、現行の神学的諸回答はもはや今日性を持つものとならないと思われる。」*2

 

ジェームズ・バーは、「数々の挑戦」というのが具体的にどのようなものであるかという詳細までは予測していなかったと思います。しかし、「今後、言語学や社会学や人類学が聖書学に影響力を及ぼしてくるだろう」という彼の考えは確かに的を射たものでした。

 

事実、主要な聖書学の学会誌である「The Society of Biblical Literature」は現在、年次会合の中に、言語学もしくは社会学関係の主題だけに的を絞った場を設けているほどです。しかも実際の影響は、そういった学会の設けている特定の「場」を遥かに超えています。

 

構造の研究

 

学術研究の諸分野において、従来の「歴史」優勢から、通時的アプローチと共時的アプローチの区分というシフトがあったこと自体には私たちは感謝していいかもしれません。

 

この区分は、「構造言語学」という20世紀の学を開拓していく中で、フェルディナンド・ソシュールによって初めて導入されました。*3

 

時代を通した研究法である通時的研究は、観察者が各時代を旅する中で、諸言語の歴史的発展や変遷にフォーカスを置きます。それとは対照的に、共時的研究では、ある「時点」において話者たちに使用可能なシステムとしての言語の状態にフォーカスを置きます。

 

ある特定の「時点」におけるある特定の言語には、①意味を運ぶ音のシステムの中で、②意味を表現するために備えられた個々の単語の中で、そして③個々の単語を文章のように、より大きな構造体に結び合わせる文法構造の中で、独特な構造を持っているということをソシュールは見い出しました。

 

そしてこういった独自の構造は、「共時的研究」と言われる、言語学における学びの独自の対象となり得ました。こうして構造言語学が誕生したのです。そしてこの学は、それ以前の時代に、通時的に言語の変遷を研究していた歴史言語学とは対照をなしています。

 

さらに、通時的および共時的研究という区分は、その他の社会科学系の学問にも応用されました。

 

例えば、人類学というのは人間のことを学ぶ学です。そしてこの学は、歴史人類学と社会人類学に二分することができます。

 

歴史人類学では、人間および人間社会における歴史的・有史前的(prehistorical)発展について研究します。他方、社会人類学では、すでに構成されているある人間社会の構造や機能について研究します。

 

過去に存在した社会についての情報は限られているため、社会人類学者は多くの場合、ーー近代性から隔絶されたある未開社会といったーー現代に存在するある特定の社会について研究しています。

 

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 人類学者(パプア・ニューギニア、情報源

 

こういった研究は、ある社会における、時代を通じた発展よりも、「ある特定の時点における社会構造」に注目しており、それ故、大体において共時的であるということができます。つまり、これは、社会諸制度や関係における通常の機能を研究する構造人類学なのです。*4

 

また社会学の関心分野も人類学のそれと重なり合っています。社会学者たちは、ーー産業革命やテレビの普及がもたらした影響などーー歴史を通し、ある社会の中の変遷を研究することはできます。

 

しかし大半の社会学的研究は、現在存在している社会構造に、よりフォーカスを置いており、これは共時的研究です。

 

旧き挑戦、そして新しき挑戦

 

それでは、こういった諸学が聖書研究に及ぼす可能性のある変化というのはどのようなものなのでしょうか。

 

旧来のさまざまな挑戦は今も続いています。現代の学び手にとっても、歴史は依然として彼らの関心事です。そして聖書の中の奇蹟により啓示されている、神の具体的にして壮大なる御行為は、そういった現代的な思考にチャレンジを与えています。

 

他方、言語学、社会学、人類学等の新しい諸学にとって、奇蹟の問題はそれほど重要ではありません。というのも、たとえ普通ではない出来事が起こったとしても、特定の言語もしくは文化の全般的構造は変わらぬ位置に在るからです。

 

そうです。彼らの問題提起は別の領域にあるのです!彼らは私たちに問いかけます。

 

「言語や社会や文化というのは結局のところ、一種の『監獄』のようなものではないだろうか?そう、それらは人間の持てる視野における究極的限界であって、誰一人そこから逃れることはできないのだ」と。

 

また、言語や文化の多様性を前に、彼らは問います。ーー私たちが「住み家としている "inhabit"」言語や文化という限界の中にあって、結局、我々は普遍的真理を知ることができないのではないだろうか?

 

さあ、次に続く章で、こういった挑戦に向き合っていくことにしましょう!

 

〔記事②〕ソシュールの構造言語学について

 

さてそれでは、構造言語学というテーマでご一緒に考えていくことにしましょう。*5

 

20世紀の学としての構造言語学は、①ずっと長い歴史を持つ歴史言語学(通時的言語学)からも、②単一言語の文法的・音声学的分析に関するそれ以前の試みからも区別されます。

 

構造言語学における単純化

  

言語学の価値を認めつつも、私たちキリスト者は、そこに内蔵されている諸限界についてよく知っておく必要があります。

 

人間言語というのは非常に複雑かつ多次元であるため、構造言語学を開始させるに当たり、人々は「単純化(simplifications)」という作業を余儀なくされました。

 

しかし発見の興奮やまない過程の中で、人々は往々にしてそういった単純化のことをいつしか忘れ、単純化された理論から引き出される結論について誇張したり一方的な主張をしがちです。

 

とは言いつつ、構造言語学の発展状況を概観するに当たり、私自身もいくらか単純化作業をし、この風潮を表している何点かのクライマックス部分だけに集中しなければなりません。*6

 

フェルディナンド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)

 

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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)

 

一般に、構造言語学は、フェルディナンド・ソシュールが、1906-1907年、1910-1911年に行なった講義録(そして後に『一般言語学講義』というタイトルで編纂された著作)にその起源を発していると考えられています。*7

 

ソシュールは最初、言語の歴史的研究に従事していましたが、その後、言語学の目的を詳述しながら、核となる議論の本体を導入しました。それによると、言語学というのは、発話(speech)の研究ではなく、「システムとしての言語の研究」だとされました。*8

 

つまり、言語学というのは、個々の話者による個々の発話の個別(particularities)ではなく、ある言語のネイティブスピーカー皆が共通して持っている体系的諸制限を研究する学であるとソシュールは主張したのです。

 

(つまり、言語学は、特定発話の中の "moved"という動詞の生起ではなく、“moved”というのが “move”の過去時制であるという事実ーーこれを研究する学問であると彼は言っているのです。)

 

言語システムへの注目は、テキスト分析や釈義からは一線を画した主題としての言語学像に決定的に貢献しました。しかしこういった進展には代価もついたのです。

 

特定のコミュニケーションないしは伝達に付帯する意味に対する妥当なアプローチはそれがどんなものであれ、①話者、②聞き手、③状況、この三つの要素を考慮に入れなければなりません。なぜなら、三要素共に、特定発話やテキストのニュアンスに影響を及ぼしているからです。

 

特定の伝達の意味はもちろん、個々の特定単語やそれらの意味に依拠しています。しかし、より長い伝達(communication)の意味は、単語の意味より成る単なる機械的産物ではなく、状況によって変化する複雑に入り組んだ特定の構造を含んでいます。

 

ですがソシュールは、「システム」を研究すべくそういったバリエーションをあえて切り捨ててしまいました。

 

また、ソシュールは、単語の意味に集中すべく、伝達に関する文脈の影響を大部分、切り捨てました*9それ以前の彼の動きと同様、この切り捨てにより、意味の複雑性が平べったくされました。

 

一つ具体例を挙げてみましょう。“The boy fed his dog.”(男の子が飼い犬に〔餌を〕与えた。)5語で構成されているこの文章は、個々の単語にそれぞれ属している言葉の意味を用いています。

 

しかし、この文章は、そういった個々の意味の機械的総計以上のものを私たちの元に運んでいます。全体としてのこの文章は、それより広大な構造を表しており、その中にあって、二つの名詞句(“the boy” と“his dog”)は主体と客体を示し、“fed” という動詞は行為を表しています。しかし個々の単語の意味それ自体は、この複雑性を把握し切れていません

 

統合関係と連合関係

 

ソシュール自身もこの問題性に気づいていました。そして後に、統合関係(syntagmatic relation)と連合関係(associative/paradigmatic relation)の間の主要区分を導入することにより、文脈を再び取り入れました。*10

 

統合関係というのは、(一つの文章のような)より広大な構造の中に存在する大小さまざまな言語要素の相互関係のことを指します。例えば、先ほどの “The boy fed his dog”という文章の中では、定冠詞 “the” は “boy” に関係しており、そして両者は “fed” に関係しています。

 

一般的に言って、統合関係というのは、一つの文章を築き上げている個々の特定単語間、もしくは、パラグラフを構成している各文章間の並び関係(side-by-side relation)のことをいいます。

 

それとは対照的に、連合関係は、“fed” のような特定の語と、それと置き換え可能な他の語(例:“feeds,” “is feeding,” “loved,” “saw,”等)との間の関係のことを指しています。そしてこれは、系列関係(paradigmatic relation)とも呼ばれています。

 

そしてこういった諸関係を詳述したソシュールは、実際の伝達の持つ複雑性を認識していたわけです。

 

しかしダメージはそれでも消えません。なぜなら、個々の単語により構成されている、より大きな言語構造に関する考察は、その出発点として今もって単語に依拠しているからです。

 

ですがいろんな意味で、この還元化には理解がいきます。なぜなら、周囲の発話に関連した個々の単語は安定しており、言語学がとにもかくにも離陸するためにはやはり、何らかの単純化をもってでなければそれが叶わないからです。

 

言語記号のモデル

 

三番目に、ソシュールは、三部分から成る言語記号のモデルを導入しました。①「音のイメージ,聴覚映像」もしくはシニフィアン、②「概念」もしくはシニフィエ、そして③単一の全体の中で結合した両者から成る「記号」です。

 

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例えば、ラテン語のarborは「木」という意味ですが、この語は、①a+r+b+o+rという音の並びによって構成されている聴覚映像、②「木」という概念、そして③「記号」つまり、音と概念が連合しているarborという語から成っています。*11

 

単語の形式(form)は、聴覚映像の内にある一方、意味は概念と同一視され得ます。

 

この動きは、形式と意味の間の区別をより厳密に定義しようというものであり、確かに筋は通っています。しかしその過程で、意味についての考察の中に微妙な還元主義が持ち込まれています。

 

子どもたちは、言葉の意味を学んでいく過程で往々にして、現実世界の客体に対する指示内容(指示対象;reference)が存在する社会状況の中で、そういった単語が登場してくることを通し、意味を学んでいきます。

 

ミルクやスープ、椅子やテーブルを指すそれぞれの語は、環境の中でミルクやスープ、椅子、テーブルが登場してくることを通し、意味を持ってきます。

 

長い目でみると、指示的諸機能というのは、意味の中で、欠くことのできない不可欠な役割を果たしていることが分かります。ソシュールは指示内容を除外し、ーー純粋に心的現象を指し示しているーーいわゆる「概念」というものを固めました。

 

ですが前述しましたように、こういった制限は、言語システムに焦点を置くことにした彼の初期の決断を考慮すると、たしかに無理からぬことではあります。

 

言語システムは、ーー特定の話者が特定の発話の中で対象物に言及するのと同じ仕方ではーー、世界の中に存在する対象物に対し、直接的に言及はしてはいません。

 

辞書の中(つまり、言語システム内)では、“arbor”というのは「木」を意味しており、それは特定されていない木です。しかし、特定の発話の中では、話者は例えば、自分の家の裏庭にあるある一本の特定の木のことを言及しているのかもしれません。

 

ですから、私たちが指示対象を除外してしまうなら、意味をフルな形では決して理解することができないのです

 

還元主義

 

指示内容の切り捨てにより、後の還元主義に門戸が開かれるようになります。例えば、ある種の構造主義は、言語を、記号で成り立つ閉鎖システムと捉えており、そういった閉鎖システムはただ他の記号を指示しているに過ぎないとされています。

 

また一部の構造主義者たちの手により、どんな特定テキストであれ、それら持つ「意味」は、意味がシステムの機能であるという中心的真理に還元されてしまっています。

 

また、「意味」から「価値」へとシフトしたことにより、ソシュールはさらに別の還元化を提唱することになりました。ここで言う「価値」というのは、ある特定の単位が隣接する諸単位との対立や対照(関係)により持っている重要性のことです。

 

彼は言います。「言語というのは、各単語の価値が、唯一("solely")その他の単語との同時存在に起因しているところの、相互依存的単語システムである。」*12

 

ここで用いられている唯一("solely")という語に、還元の徴候が現れています。それは、指示内容をないがしろにするだけではなく、(前に登場してきた)同じ表現に対する文芸的引喩の可能性を与える歴史的蓄積をもないがしろにするものです。

 

言語学者の間にあって、相互依存的単語システムに焦点を当てることの有益性は今や周知の、そして否定できない事実です。

 

しかし、こういった有益性はある部分において、そこに除外されている、「御しにくい複雑性」をないがしろにすることによって得られているものであるということを、私たちは肝に銘じる必要があると思います。

 

ー終わりー

 

*1:James Barr, “The Interpretation of Scripture. II. Revelation Through History in the Old Testament and in Modern Theology,” Interpretation 17 (1963): 193–205, based on an inaugural address delivered at Princeton Theological Seminary in 1962.

*2:同著p.203.

*3:Ferdinand de Saussure, Course in General Linguistics (New York: McGraw-Hill, 1959), published posthumously based on lectures from 1906 to 1911. 邦題:『一般言語学講義』(小林英夫訳)、岩波新書、1972年。構造言語学の興隆についての大まかな流れについては以下の著作を参照のこと。Vern S. Poythress, In the Beginning Was the Word: Language—A God-Centered Approach (Wheaton, IL: Crossway, 2009), appendix E. また、構造主義そのものに関しては、Poythress, Structuralism and Biblical Studies,Journal of the Evangelical Theological Society 21, no. 3 (1978): 221–37を参照。

*4:社会人類学が通常、近代以前の社会を研究対象にするのに対し、社会学は(産業化、テクノロジー、電子情報等によって影響を受けている)現代社会をその研究対象にしています。そして類似した諸原則が両者を特徴づけています。ですから、聖書理解に対するこういった諸学の適切性について考察する際、私は両者を厳密には区別していません。尚、構造主義人類学という用語は、狭義に、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)および彼に関連する人々の学術活動を指す場合もあります。しかし広義の意味において言えば、共時的社会構造を分析するあらゆる種類の社会人類学は、「構造主義的」だと言えます。

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クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)

*5:本稿は以下の論文に若干修正加筆を加えたものです。Vern S. Poythress,“Truth and Fullness of Meaning: Fullness versus Reductionistic Semantics in Biblical Interpretation,” Westminster Theological Journal 67/2 (2005): 211–227; also appearing in Wayne Grudem et al., Translating Truth: The Case for Essentially Literal Bible Translation (Wheaton, IL: Crossway,2005), 113–134. 聖書翻訳に関する関連事項については、Grudem et al., Translating Truthの中に収められているその他の諸論文をご参照ください。

*6:歴史的詳細については、Leonard Bloomfield, Language (London: George Allen & Unwin, 1933), 4–19; Peter Matthews, A Short History of Structural Linguistics (Cambridge: Cambridge University Press, 2001)を参照のこと。また、この学の概説入門書としては、John Lyons, Introduction to Theoretical Linguistics (Cambridge: Cambridge University Press, 1969)を参照。

*7:Ferdinand de Saussure, Course in General Linguistics (New York/Toronto/London: McGraw-Hill, 1959). 仏語原題:Cours de linguistique générale (1916).

*8:フランス語で講義したソシュールは、言語システムを表すのに「ラング("langue")」というフランス語を用いました。そしてラングに対照するものとして、つまり特定の発話を指し示すものとして彼は「パロール("parole")」という語を用いました。

*9:同著、p.65, “The Nature of the Linguistic Sign.”

*10:同著、p.124–127.

*11:同著、p.65.

*12:同著、p.114. 同じ頁で、ソシュールは明確に「価値」と「重要性」を区別し、同様に次のような事を述べています。「言語状態の中では、すべては関係を基盤としている。」(122)。

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