巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

多元主義と相対主義(by R・C・スプロール)

目次

 

 Related image

R・C・スプロール(Ligonier Ministries主幹)

 

R.C. Sproul, Pluralism and Relativismより抄訳

 

高い仕切り壁

 

それでは、「世俗主義」という傘の下に位置する双子の概念ーー①多元主義、②相対主義、この二つについてご一緒に考えていくことにしましょう。

 

まず、前回の講義で学んだ例のあの「高い仕切り壁」のことを再度振り返ってみることにします。この「高い仕切り壁」は、現在の《時》を、永遠世界から切り離している境界線を表しています。

 

そして、これは、統一性(unity;一致)という超越的領域への障壁となっており、私たちをこの《時》そしてこの《場所》に限定し、閉じ込めています。つまり、私たちは永遠なる世界とのいかなる接触からも切り離され、隔絶しているのです。超越的領域こそ私たちが統一を見い出すことのできる領域です。

 

他方、私たちが生きている世界は、多様性の世界です。普遍(universals)が、壁の向こう側にある一方、私たちの経験という個別(particulars)は、「今」そして「此処」にあります。超越的領域というのはまた、絶対的な領域でもあります。他方、壁のこちら側は、相対的な場です。

 

一致   普遍   絶対

    仕切り壁

多様性  個別   相対

 

多元主義の基本的な思想は次のようなものです。ーー私たちの生きるこの世界は多様性を有している。そして、究極的一致に至る方法や手段などというものは存在せず、私たちの経験という多様な事柄を「一貫性ある全体」に至らせる道も存在しない。個別はあっても、普遍は存在せず、相対的な事柄は存在しても、絶対的な事柄は存在しないのである。

 

「多数から一つへ」から「多数から多数へ」

 

アメリカ合衆国の硬貨には、次のような文字が刻まれています。「E Pluribus Unum」。エ・プルリブス・ウヌムというのは、「多数から一つへ」を意味するラテン語の成句です。

 

f:id:Kinuko:20171106150002p:plain

 

50セント硬貨(裏面)、1807年

 

これは合衆国の建国に携わった先人たちの目指していたものであり、多様な民族的・宗教的背景を持つ人々が全世界からこの国に来て、一つの国家を形成することができるという希望を表しています。

 

そして、そういった背景的な複数(plurality;多元)と多様性の中から、一致が顕れてくるはずだと先人たちは願っていました。合衆国憲法や独立宣言の中で表現されている思想は単純・率直なものです。ーー神の下にひとつの国家を!です。

 

Image result for new england puritan prayers

 

当時の建国の父たちが持っていた前提は、この世界には超越的実体が存在するという確信でした。そしてこういった超越的諸真理こそが、あらゆる異種のグループや諸思想を一致に至らせる基盤だと彼らは考えていました。

 

しかし現在私たちが持っている「多元主義」の概念というのは、建国時の元々の思想からは非常にかけ離れています。元来、この思想が意味していたのは、多様性ないしは複数性をもって、それらを調和・一致に至らせることでした。

 

しかし現代人は言います。「われわれは神から切り離されており、一致という超越的地点からも切り離されている。だから今やここに残されているのはただ多元(plurality;複数)だけ。」この種の文化理解のための新しいモットーは、エ・プルリブス・プルルス(E Pluribus Plurus)ーー「多数から多数へ」です。

 

多元(plurality)と多元主義(pluralism)のことを論じる際、私たちは両者を分けて考えなければなりません。多元である(plurality; 複数である)というのは、ただ単にそこに多様な考え方や人々や背景があるということを言っているに過ぎません。

 

しかし、pluralという語に、接尾辞であるismを付け加えるや、そこに何か別の意味が生じてきます。ここで意味している「Plural-ism;多元『主義』」とは、多元がすべてですよ、という事です。多元は存在しても、そこに統一・一致はなく、究極的一貫性に導くものも存在しないということです。

 

進化思想の興隆ーー19世紀

 Related image

社会ダーウィニズムダーウィンの生物進化論を適用して社会現象を説明しようとする立場。特にダーウィンの生存競争による最適者生存の理論を拡大解釈して,社会進化における自然淘汰説を導き出そうとする。参照

 

それぞれの時代に流行するキーワードを認識することは大切です。19世紀には、「進化」という語が、問題山積みの洞窟の扉を開く《開けゴマ!》的な呪文の合言葉として流行しました。

 

「進化」について考える際、私たちは普通、生物学や人類学のことを思い浮かべるかもしれません。進化(論)というのは、種(species)の漸進的発展をその起源から描写していく上での科学的用語です。しかし、19世紀の知的世界においては、進化の概念は生物学だけに限定されたものではなく、その他多くの試みに対し広く適用されました。

 

こうして突如として、歴史の全てが、進化という一般的構想という点から解釈されるようになりました。単純なものからより複雑なものへ、未開なものから洗練されたものへの運動があるのだと人々は信じ始めました。

 

19世紀にはまた、神学も、進化論のレンズを通して探求されるようになりました。「高等批評」といわれる聖書学にあって、聖書の宗教というのは、多神教を信じる未開信仰から一神論という、より高次の信仰へと漸次的発展を遂げていくものとして捉えられました。

 

従って、この見解によると、一神教に対する信仰というのは、宗教史の中の後期発展形態です。そして一神教というのは、旧約聖書の預言者たちの到来(BC8)によってようやくもたらされるようになった形態だとされました。ですから、モーセというような人物は、実際には一神教信仰者ではなく、アブラハムに至っては、それは単なる神話だとみなされました。

 

聖書に対する進化論的手法によると、ユダヤ教は、以下のような発展形態をとってきたのだと推論されます。

 

アニミズム ⇒ 多神教 ⇒ 単一神 ⇒ 一神教

 

アニミズム(animism):こういった進化論的構想の中では、全ての宗教はアニミズムから始まります。アニミズムというのは、明らかに不活性な物体に精霊が宿っているという観念のことを言います。そういった物体には生命が吹き込まれているのです(“animated”)。木々、岩、トーテム・ポール、そしてある種の動物なども礼拝の対象にされます。なぜなら、それらには精霊が宿っているとされているからです。

 

Related image

 トーテム・ポール(情報源

 

そして大概の場合、そういった諸霊は、悪い霊だと考えられています。ですから、ここで宗教のなす仕事は、こういった霊たちを宥め、悪しき力を撃退することです。未開人たちはこういった物の前に犠牲や供え物を捧げ、呪文を唱え、それらの周りで儀式的宗教ダンスを踊ります。

 

 

多神教(polytheism):宗教的進化論の第二段階は、多神教です。ここでの「神々」は、それぞれ別個のアイデンティティーを持っており、岩やワニといったものの中に宿る単なる精霊ではないのです。こういった神々は通常、天空や、オリンポス山の高峰といった特別な住居を有しています。

 

またそれぞれの国に独自の神々がおり、それぞれの神が特定の機能を持っています。例えば、古代ギリシャやローマの神々などです。その他、他の諸文化にも類似のパンテオンが存在していました。エジプトやペルシャをはじめとする古代世界の諸宗教の中にもそれらは見い出されます。

 

Image result for pantheon greek

パンテオン(ギリシャ)

 

 

単一神(henotheism):単一神(論)というのは、進化論的発展という梯子における転換期に当たります。これは、まあ言ってみれば、多神教と一神教の中間地点に位置する、建築半ばの家といった感じです。単一神論においては、一つの国ないしは民族集団にただ一人の神がいます。多くの神々が存在はしているのですが、各々の神々には、その神独自の支配領域があります。

 

例えば、進化論者は次のように考えます。「なるほど、旧約聖書においては、ヤーウェ神というのが、ユダヤ人の国家的神として崇められていたのだ」と。そして他の国々でも、カナン人にはバアル神、ペリシテ人にはダゴン神といった具合に、それぞれ独自の神々がおり、こういった神々が国家間の戦争の中に介入してくるのです。

 

  

一神教(monotheism):この語が示唆するように、一神教というのは、宗教が至高なるただ唯一の神に還元されます。この神は高次の神であり、あらゆる国々を統治しています。そしてこの神の支配には、地域的ないしは民族的制限はありません。この神は愛、戦争、収穫等のあらゆる人間の営みの上に君臨しています。そしてこれが宗教的進化論における最新にして最終的段階だとされています。

 

そして彼ら進化論者によれば、この段階は、創世記が書かれたずっと後に導入されました。そして、ヤーウェ神が全世界の創造主であるという考えは、後になってユダヤ文献に挿入された追加物であり、後の一神教信仰者たちが過去に溯って、その考えを自分たちの歴史に読み込ませるべく書き直したものであるとみなされました。

 

進化論は神学に影響を与えただけでなく、政治、経済、哲学の諸理論にも影響を及ぼしました。こういった一連の学問領域は、19世紀、この包括的観念の影響下に出現したのです。

 

「進化」から「相対性」へーー20世紀

 

Related image

アインシュタインの相対性理論


20世紀に入ると、流行語は、「進化」から「相対性」に置き換わりました。アインシュタインの相対性理論を基盤とした科学的革命により、私たちの人生にもたらされた数々の変化を私たちは皆知っています。

 

現代は、原子力時代です。私たちの生活は、アインシュタイン理論の結果として存在している核エネルギーによる新しい力の可能性により、そして核戦争の脅威により変化を余儀なくされています。

  

科学的見地からみた場合、相対性というのはただ単に運動の描写に関連しているに過ぎません。運動というのは一つ以上の基準点から考察され得るということです。例えば今、私があなたの方に向かって動いているとしましょう。その場合、私のその動きが、私側の視点から考察されるのか、もしくはあなた側の視点から考察されるのかは問題とはなりません。私たちにはただ、異なる基準点があるだけです。そしてこの点において、私の動き(運動)は相対的であるという意味が存在します。それは、特定の基準点に対して相対的です。それゆえ、運動における相対性というのは、さまざまな基準点によって定義ないしは決定されます。

 

しかし、相対性から、相対「主義」へは、大きな飛躍があります。「運動は、基準点に対して相対的である」というのと、「全ては相対的である」というのには違いがあります。

 

「結局、全ては相対的なんですよ」というような言葉をみなさん聞いておられることでしょう。いや、聞かされているだけでなく、自分でそう言っている方がいるかもしれません。そしてもしそうしているのなら、私たちは現代文化の《神話》の普及に一役買っていることになります。私がこれを《神話》と呼んでいる理由は、実際、これ以外に何とも呼びようがないからです。

 

もしも万事に対して万事が相対的なら、究極的基準点はどこにもないということになります。真理のための基盤が存在しないことになるからです。そしてもしも全てが相対的なら、「全ては相対的である」という言明もまた相対的だということになります。それは固定された真理としては信頼し得ないのです。

 

こうしてあらゆる言明が相対的となります。全ての公理は相対的となり、全ての法律は相対的になります。ところで、それらは何に対して相対的なのでしょうか?ーーその他の言明に対して、です。が、その他の言明もまた相対的なのです。

 

そうなると、究極的基準点を持たない無限の相対しか存在しなくなってしまいます。何百万という「子ども達」がいるのに、「親」は一人もいないという状態です。こうして真理は水銀のように移り気なものになります。

 

ある人々は、究極的ないし「絶対的相対性」(←この語自体で矛盾ですが)を、現代科学における主要な進歩だとみています。ですが実際には、これは科学の滅亡であり、真理の究極的墓場に他ならないでしょう。数学的意図をもち、「運動は相対的であるとみなされている」と言うのと、倫理や価値を含めた全てが相対的であると言うのは全く別のことです。

 

そして後者の言明が真なら、私たちは雑草に絡まれ身動きができない状態に陥っていることになります。ーーアマゾンのジャングルでもない限り見い出すことのできないような種類のすごい雑草にです。

 

さあ倫理における相対性を考えてごらんなさい。もしも私があなたのことが嫌いで、それであなたを殺そうとしたとします。それは良いことでしょうか。それとも悪いことでしょうか。ーーうーん、良くもないし悪くもない。あるいは良くもあり、同時に悪くもある。。それは相対的です。というのも、あなたやあなたのご家族にしたら、それはもちろん悪いことでしょう。

 

でも私からみたら、それは良いことなのです。なぜなら、その行為によって私は自分の敵(かたき)をやっつけることができるのですから。相対主義的な裁判所において、なぜ裁判官は私を有罪とする必然性などあるでしょうか?もしも全てが相対的なら、私の殺人行為を「悪」呼ばわりするのは、恣意的裁きに過ぎないということになってしまいます。

 

そしてこれがまさに、現代人の陥っている雑草沼です。彼は人生の日々を送りつつも、そこには、彼の人生ないしは彼の存在の意味を明確にしてくれるような究極的にして絶対的な固定基準点がないのです。

 

もし全てが相対的なら、あなたもまた相対的であり、あなたの人生の意味に対する実体(実質/本質)はどこにも存在しないということになります。多元主義における危機は、究極的標点が無いことに在ります。

 

相対主義の中では、個別はあっても、普遍は存在せず、相対はあっても、絶対は存在しません。つまり、個々の諸価値(values)は持ち得ても、「Value(究極的価値)」は存在せず、個々の諸真理(truths)は持ち得ても、「Truth(究極的真理)」は存在せず、個々の諸目的(purposes)は持ち得ても、「Purpose(究極的目的)」は存在しないということです。

 

さらに言えば、諸価値や真理、目的、美といったものを計る上での固定した基準がないということになります。一度、相対主義を受容するなら、私たちは究極的カオス(混沌)の世界に生きることになります。

これが私たちの実生活に具体的にどう影響しているのかを知っていただくために、神学、教育、そして社会倫理の分野における相対主義の影響をこれからみていこうと思います。

 

教会の中の多元主義

Related image

 

今日の悲劇は、多元主義というのが、世俗文化の中で、その基盤イデオロギーとして受け入れられているだけでなく、キリスト教会内においても幅広く受容されているという事実です。

 

誇らしげに「うちの教会は多元主義的な教会ですから。。」と謳っている教会や教派は五万とあります。これらの人々が意味しているのは、自分たちの教会では、さまざまな異なる神学や諸見解を持つすべての人々を歓迎しますよ、ということであり、これは単なる「一致の中の多様性」という事柄ではないのです。

 

聖書は、教会をからだと表現しています。からだはさまざまな部位で構成されています。そして各々の部位が果たすべき重要や役割や機能を担っています。人間の体が目を必要とし、耳を必要とし、口を必要としているように、教会もまた、さまざまな部位を必要としています。そして私たちにはそれぞれ異なる賜物、使命、性格が与えられています。そして、その多様性の中に一致があります。私たちの主は一つであり、信仰は一つであり、バプテスマは一つです(エペソ4:5参)。

 

理想的には、皆が同じ事柄を信じているべきなのですが、私たちの聖書理解は完璧ではありません。また聖書は私たちがお互いに対し忍耐を持ち、寛容かつ親切であるよう勧告していますので、私たちは同意できない多くの点で互いに忍耐し合うべきでしょう。

 

しかし、真理の内にこそ本質的一致があります。ある種の真理に関して言いますと、これはもう交渉の余地なしです。キリスト教の本質的真理に対する否認は、真理の中で、寛容な扱いを受けてはならず、堪忍されてはなりません。

 

多元主義は、教会の中で多種多様な見解を提言するだけにとどまりません。これは、キリストに関し、神に関し、キリスト信仰の根幹に関し互いに矛盾している諸見解を容認しています。

 

そして多元主義は、「それでいいんですよ」と言いつつ、それら全てを良しとみなしています。ある教会がひとたび多元主義を受容するなら、その教会は実質上、「キリスト教信仰の根幹部分に関し、たとい私たちが互いに同意できなくても構わないんです。なぜなら、それは皆、相対的だからです」と宣言していることになります。

 

多元主義:キリスト教のアンチテーゼ


少し前になりますが、私はある場所で、教会指導者たちを対象に講義をしました。そしてその時、次のように言いました。「もしも誰かがあなたの元にやって来て、教会刷新の基盤として多元主義の徳をあなたに売ろうとしてきたなら、その時には、命がけで逃げなさい。哲学的思想としてのこの多元主義は、キリスト教のアンチテーゼであり、真っ向から相反するものです。こういったカオスの中に置かれた教会は例外なく息絶えていきますから。」

 

そうすると、一人の指導者が立ち上がり、多元主義を擁護する演説を始めたのです。私は自己偽善を避けるべく、彼が多元主義擁護をし始めた瞬間、すぐさま演壇から駈け下り、会場の外に飛び出していきました。もちろん、会場は騒然となりました。何百人もの聴衆が、たった今、姿を消してしまった講演者(=私)がどこにいるのかと茫然自失の状態になっていました。

 

その後やっと私は会場に戻り、皆さんに申しあげました。「覚えていらっしゃいますか。私はたった10分前に、『もし誰かが多元主義の徳をあなたに説き、説き伏せようとしてきたら、その時には命がけで逃げなさい』と言いました。ですから、私は今それを実践しなければならなかったのです。」おそらく、会場の皆さんは私の真意を理解してくださったと思います。

 

相対主義と中絶問題

 

今日、論争の的になっている議論の一つが中絶問題です。この問題によって、政治的にも、経済的にも、社会的にも国が分断されています。どの州議会でも法律制定は、中絶問題をめぐり審議中です(2009年当時)。

 

ここでの論議は、もしも誰かがレイプされた場合ないしは母親の生命が危険にさらされている場合に中絶をしても良いのか否か等ではありません。そういったことは、神学者たちや倫理学者たちが取り組んでいる倫理問題です。そうではなく、今日争点となっているのは、要求に応じた中絶(abortion on demand)の是非をめぐっての問題です。

 

この是非をめぐり、人々は激しく対立しています。一方の陣営では、人々は要求に応じた中絶に熱烈に反対しており、彼らはプロライフ(妊娠中絶合法化反対)という運動を推進しています。

 

それに対するもう一つの陣営は、要求に応じた中絶容認に熱烈に賛成しており、プロ・アボーション(妊娠中絶支持)という運動を推進しています。そして両者の中間には、多数の市民がいて、彼らは自らの立場のことをプロチョイス(妊娠中絶合法化支持)と呼んでいます。

 

法制上、米国社会における相違は、この中間層によって決定されます。この層に属する人々は往々にして次のように言います。「私個人としては、中絶をするという選択肢は採らないと思います。ですが、『全ての女性は自らその選択をする権利がある』ということを私は信じています。」

 

実際的、法的ないしは立法的次元で言うと、プロチョイス(妊娠中絶合法化支持)とプロ・アボーション(妊娠中絶支持)の間に相違はありません。プロチョイスの票は、プロ・アボーションの票です。主流派キリスト教会の大多数が、このプロチョイスの立場を採ると公表しています。しかしながら、この問題の本質は、それ以上に深い処にあります。

 

私たちがここで向き合わなければならない問いとはこれです。「間違った事をやる権利というのを持っている人間は果して存在するのだろうか?」そしてこの問いを発する際、私たちは自らに問わなければなりません。「それはどんな種類の権利だろう?」と。

 

法的には私たちは間違う権利を持っています。私はあなたに同意しないかもしれない。しかし私は法の下にあなたがあなた自身の見解を表明する権利を死をもってでも弁護します。(間違ったことをする自由を含めた)自由に対するある種の権利観念は、寛容な民主主義として、私たちの米国社会では非常に大切な要素です。

 

ですから私たちは間違ったことをする法的自由があります。しかし、神がそういった事をする倫理的権利を未だかつて私たちにお与えになったことはあるのでしょうか?

 

私たちは法的権利と倫理的権利を区別しなければなりません。「プロチョイスは法的権利のための議論です」と私たちは主張するかもしれませんが、実際に私たちが言っているのは倫理的権利に関することです。

 

もしも問題が、中絶を選択する法的権利というのが有るべきか否か?であるというのなら、私たちは、「法的権利を持ってしかるべきだという私の主張の根拠は、私には法的権利があるという事です」と言うことにより、問いをはぐらかしています。プロチョイスという哲学の背後には、「全ての人がそれぞれ、中絶をするか・しないかを選ぶ倫理的権利を持っているのです」という思想があります。

 

誰が中絶する権利を与えているのでしょうか?

 

また私は次の問いを発したいと思います。「その倫理的権利はそもそもどこから来ているのでしょうか?」この問いを発した人を私は今まで見たことがありません。今日、誰もかれもが、権利について語っています。女性の権利、服役者の権利、子どもの権利等。。。しかしここでの問いは、「そういった諸権利を私たちは一体どこから取得しているのでしょうか?」です。

 

権利のための土台とは何でしょうか。自然法でしょうか。でも私は自然法をベースに中絶する権利を擁護したいとは思いません。それとも権利とは私たちの創造主なる神から授与されたものなのでしょうか。神は、中絶を選択する権利を私たちに与えておられるのでしょうか。あるいは自然があなたにそうする権利を与えているのでしょうか。誰があなたにその権利を供給しているのでしょうか。

 

大多数のこの中間層の人々が展開している主張のコンセプトには、土台がありません。権利を主張する前に、私たちはその権利がどこから来ているのかを述べることができなければなりません。

 

相対主義に関する私たちの主題の中で、中絶問題を例に挙げていく上で、私はプロチョイスの方々に彼らが本当のところ何をいっているのか、そのことを問いたいと思います。彼らの主張は何を基盤にしているのでしょうか。

 

おそらく答えは「優先権(preference)」でしょう。彼らは選択することができるようになることを望んでいます。しかし「何かを欲する」という事と、「何かをする権利がある」ということとは全く別のことです。

 

そして、この立場が、多元主義および相対主義という文脈の中から出現してきたことは奇妙なことです。というのも、この中間層の立場は、「相対主義の社会においては、自分の基準を他の誰かに強いる権利は誰も持っていない」という思想から来ているからです。

 

それでは、なぜ自分の基準を他の誰かに強いる権利を誰も持っていないのでしょうか。なぜなら、全ては相対的だからです。中絶というのは、各々の個人にとって相対的なものです。

 

多元主義者は言います。「もしもあなたが中絶したいのなら、あなたにはそうする権利があります。」そうです。あなたにはその権利があります。なぜなら、倫理性というのは多元主義社会の中では相対的だからです。ただ一つ私たちの社会が寛容でいられない事ーーそれは、一つのグループが他のグループの人々に自らの見解を強いることです。

 

多元主義の中で、《寛容》に関する見方は微妙なシフトをしながら出現してきています。従来の見方では、自分とは異なる人々に対する寛容、忍耐というのはキリスト者の美徳でした。また私たちが互いに寛容で慈愛深くあるよう神の掟も私たちに要求しています。しかし「全ての異なる見解が法の下に寛容されている」というのと、「全ての異なる見解が等しく妥当である」というのは同一ではありません。

 

 

Image result for gay pride US legislation

2017年7月、ドイツ、ベルリン市で開催された大規模なゲイ・パレード(Berlin gay pride revelers mark legalization of same-sex marriage, CNN News

 

 

しかし多元主義は、全ての見解が法の下に等しく寛容されるべきであると言うにとどまらず、全ての見解が等しく妥当であると言っています。もしそれが正しいのなら、全ての見解が、その矛盾と同じだけ妥当性をも持っているという事になり、その場合、真理は亡きものにされます。

 

そうなると、私たちは個々の真理(truths)を持つことはできるけれども、真理自体は不可能になります。そして私たちが真理を破壊してしまい、こうして個々の諸真理でさえも真ではなく、諸価値には価値がなく、諸目的には目的がないという事に気づくなら、その時、私たちの人生はもはや不可能なものになります。

 

私たちは、儒教やキリスト教の相対的美点について主張することはできます。しかし両者が同時に真であることはあり得ません。なぜなら、両者は矛盾・対立しているからです。あるいは仏教とユダヤ教の事を議論することはできます。両者共に間違っているということはあり得ます。しかし、両者が互いに相違しているところの究極的事柄において、両者がどちらも正しいということはあり得ません。

 

相対主義は最終的に国家統制主義につながる

 

Image result for heidegger nazism fascism

マルティン・ハイデッガーとナチズム(Martin Heidegger and Nazism - Wikipedia

 

多元主義と相対主義が真である可能性は皆無です。なぜなら、この二つの主義の中においては初めから、真理それ自体の可能性が抹殺されているからです。もしも全てが真なら、何も真ではないということになります。

 

真理という語がもはやその意味内容を失い、空虚化されています。それが故に、現代人はジレンマに陥っているのです。彼はすでに長期に渡るカオス状態に投げ込まれていますが、人は知的カオスの中で継続して生き続けることはできません。

 

現代文化の中では、これまでの歴史上例を見ないほど、すべてが全くの混乱状態にあります。過去の時代、こういった空虚感が生じた際には、何か別のものがその空白を満たしにきていたものでした。

 

相対主義は究極的には《非寛容》です。そして、この空白を埋めにくるのは、一種の国家統制主義をとる形態でしょう。なぜなら、いずれにせよ何かが一致をもたらさねばならないからです。「国家」の善がいずれ、一致のための最終地点となっていくでしょう。

 

中央集権化した国家体制の急成長を、私たちはここ米国で目の当たりにしています。30年前にはそうではなかったのに、今日、国家が役割を果たし機能している諸領域のことを考えてみてください。以前には、自らの安全、意味、決定などに関し神に寄り頼んでいた諸領域において現在、彼らは国家に寄り頼んでいます。

 

そしてゆくゆくはこれが国家統制主義につながり、国家が人生の目安になっていきます。そして私たちの生きる理由が国家になっていきます。国家が統一を成し遂げ、超越し、絶対化し、そして《永遠なるもの》になります。

 

こうして国家が介入し「私たちは団結し、一つになれます」と言うようになります。どのようにしてでしょうか?同じ学校に子どもを送り出し、同じ事柄を学習させ、同じ言葉を言わせるのです。

 

極端な形として中国を見てごらんなさい。そこには強制された一致による画一性(統一性)があります。「でもそれは多元主義の対極にあります」とおっしゃる方がいるかもしれません。いいえ、それはまさしく多元主義の結果なのです。それは、超越的一致の喪失がもたらす必然的結果なのです。

 

私たちの礼拝する神は一致をもたらす神ですが、それと同時に、多様性を保持されます。私たちには、誰もが皆自分と同じようにならなければ気が済まないといった罪深い傾向があります。教会の中においてさえも、そういった傾向を見て取ることができます。聖書教師として、私は「教えこそが御霊の重要な賜物なのだ」と考えたがります。

 

しかし神は、さまざまな賜物や性格の多様性と共に、「からだは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言っておられます。人間らしさは、その多様性という複雑性の中にあって美しいのですが、その人間らしさはまた、神のご性格の中にあって究極的基準点を見い出します。そして、その究極的基準点が失われてしまうなら、人間性それ自体が卑しめられてしまいます。

 

私たちは「仕切り壁」のこちら側だけで生きていくことはできません。私たちは、壁の向こう側におられる神との関係を持つか、もしくは、神のおられるべきその場所を、「国家」で代用するか、そのどちらかです。もしそれを疑わしく思うのでしたら、試しに、この世界の中で、それが起らなかった事例を一つでもいいので探し出してみてください。これは実際、背筋の凍るような事実です。

 

政府は現在、深刻な危機に直面しています。人々は、国家が提供することのできる以上のものを国家に要求しています。人々は国家に救済を求めているのです。不幸なことに、国家は、堕落した人類を救済する装備を所持してはいません。

 

国家は、壁のこちら側に存在しています。ですから、国家というのは、それが絶対化しない限り、私たちの多元(plurality)のために究極的一致を提供することは決してできないのです。

 

相対主義は、満たされたいと絶叫しているその倫理的空白を提供しています。自然が真空状態を忌み嫌っているのと同じ強さで、全体主義国家体制はその真空状態を愛しています。なぜなら、彼らはその空白を埋めるべくそこに駈けつけることができるからです。

 

ー終わりー

 

関連文献1ー『現代ファシズム:ユダヤ・キリスト教世界観への脅威』(G・エドワード・ヴェイス)

 

f:id:Kinuko:20171106145239p:plain

G・エドワード・ヴェイス(パトリック・ヘンリー大学学長、コンコーディア神学大理事)

 

Gene Edward Veith, Jr., Modern Fascism: The Threat to the Judeo-Christian Worldview, 1993

 

 

目次

1.「時代の病理」

2.「我々の時代の教理」ファシストの伝統

3.「ヘブライ的病理」ファシスト神学

4.「二人の主人」ファシズム VS 告白主義

5.「意志の勝利」ファシストの哲学

6.「生きるに値しない生命」ファシスト倫理

7.「殺しに至る美しい思想」ファシズムとモダニズム

8.「力への意志」ファシズムとポストモダニズム

9.「民衆の文化」ファシズムと大衆心理

 

ヴェイス師へのインタビュー 


 

関連文献2ー『神の猿ぐつわ:多元主義に対峙するキリスト教』(D・A・カーソン)

 

また、多元主義潮流の中で、私たち聖書信仰のキリスト者がいかにして救い主イエスの唯一性を証言し続け、この世からのさまざまな挑戦に応答していくのかというテーマでは、次のような著書があります。

 

f:id:Kinuko:20171013220357p:plain

D・A・カーソン(トリニティー神学校)

 

D.A.Carson, The Gagging of God: Christianity Confronts Pluralism

 

The Gagging of God: Christianity Confronts Pluralism by [Carson, D. A.]

 

目次

1章 現代多元主義からの挑戦

 

パート1 聖書解釈

2章 真理の手なずけ:解釈学的泥沼

3章 解釈学的泥沼からの脱出:「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべき。」

 

パート2 宗教的多元主義

4章 「神はほんとうに言われたのですか?」啓示の権威

5章 神が仰せられた事:聖書の筋の中での初手

6章 神が仰せられた事:聖書の筋の中でのクライマックス

7章 神の最後の言葉

8章 一線を引くことが無礼である時に、一線を引くことについて

 

パート3 多元主義的文化の中におけるキリスト者の生き方

9章 端っこの方から少しずつかじっていく:挑戦の領域と幅

10章 ビジョンのこと

 

パート4 陣営の中に存在する多元主義

11章 神経擦り切れ、寸断され、イライラする:西洋福音主義界の変貌

12章 多元主義文化の中における福音宣教について

13章 「火の池」を追放することに関して

14章 「これは御父の世界」:文脈化とグローバル化

 

付記 「霊性はいつ霊的になるのか?」定義にまつわるいくつかの問題に関する省察