巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「『牧会職は男性だけに限られます』『妻は夫に従え』というような今日的議論は、19世紀にクリスチャンが展開していた奴隷制擁護の議論とパラレル関係にありませんか?」という主張はどうでしょうか。

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日本福音同盟(JEA)のホームページの「女性委員会」のセクションに、世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのか」翻訳文と資料・考察という項があり、そこには、マリリン・B.・(リン)・スミス著 Gender Or Giftednessの日本語訳が全文掲載されています。

 

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その中の「参考資料①ディスカッションのためのノート」の欄には次のようなことが記載されています。

 

「間違った『窓』であれば、それは私たちを真理に対して盲目にすることがあります。教会は、神の真理として教えていたことを、新しい証拠がもたらす光の中で、しばしば考え直さなければなりませんでした。

 

奴隷制の問題は、教会がいつも正しかったわけではないことを示す明らかな例です。W. ワード・ガスクは、論説文『教会、社会、家庭における女性の位置づけ』の中で以下のように述べています。

 

  「・・・19世紀の半ばまで、殆どのクリスチャンは、奴隷制度は神の定めた制度であると信じていました。なぜなら、パウロが奴隷は主人に従うべきであると、大変強調しているからです。

 

 奴隷制という考え方は、神のかたちに造られた人間の尊厳と価値に対する侮辱であると感じていた、当時の一握りの先見の明のあるクリスチャンと他のノン・クリスチャンたちに対して、パウロとペテロの書簡の数個所が反論の根拠として用いられました。」

 

経済という「窓」から聖書を眺めることによって、多くのクリスチャンたちは、奴隷制の実践に対する支持を見出したばかりでなく、奴隷制が神によって定められたとさえ主張しました。

 

*奴隷制度を支持するために聖書が用いられ、それが改められるまでに数百年かかったという事実は、解釈の枠組み、または「窓 」の検証の重要性を如実に物語っています。(同著p79)

 

ーーーー

冒頭の文章の中で含意されている見解はおそらく次のようなものだと推断されます。

 

「過去にクリスチャンは間違った解釈の枠組み、または『窓』から聖書を眺めることによって、奴隷制を支持していました。そしてそれが間違っていることが分かり、改められるまでに数百年かかりました。

 

それと同じことが女性牧師への門戸やその他のジェンダー問題に対しても言えるのではないでしょうか?現在でも、多くの伝統主義者たちは(誤った)解釈の枠組み、または『窓』から聖書を眺めているために、教会や家庭内における真の女性解放に反対しているのです。」

 

応答:

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016より翻訳引用

 

この問題に回答する前段階として、まずは下の記事をご参照になってください。

 


結婚制度の維持・保全は、奴隷制の維持・保全とパラレル関係にはありません。奴隷制の存在は、いかなる創造の聖定(creation ordinance)にも基づいていませんが、それとは対照的に結婚制度はそういった創造の聖定に根差しています

 

奴隷と主人がいかに互いに対して振る舞わなければならないのかについてのパウロの諸規制は、奴隷制という制度が「善いものである」ということを前提してはいません。

 

そうではなくむしろ、奴隷制の解体に向けての萌芽というのはピレモン16(「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです」)の中にも、エペソ6:9(「主人たちよ。あなたがたも、〔奴隷に対して〕おどすことはやめなさい。」)の中にも、コロサイ4:1(「主人たちよ、、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」)の中にも、1テモテ6:1-2(主人と奴隷たちは「兄弟である」)の中にも蒔かれていました。

 

そしてそういった平等の萌芽が育ち、やがて満開の花を咲かせるようになった時、奴隷制という制度そのものが消滅していきました。実際、1テモテ1:10が正確に理解されるならば、この箇所は確実に強制的な隷属を禁じています。

 

というのも、「不信心な者と罪ある者」(9節)である人々のリストの中に、enslavers(*奴隷商、人買い、人を誘拐する者)が列挙されてあるからです。

 

訳者注:新改訳では「人を誘拐する者」と訳されているギリシャ語名詞 ἀνδραποδιστής(andrapodistés)の語義について。

(<ἀνδράποδον,人の足に踏みつけられる者、奴隷にされた捕虜)奴隷商、人買い、人さらい、誘拐者(織田昭『新約聖書ギリシャ語小辞典』p37)

Biblehubの定義

an enslaver, one who forcibly enslaves, a kidnapper.

Thayer's Greek Lexiconの定義

a slave-dealer, kidnapper, man-stealer, i. e. as well one who unjustly reduces free men to slavery, as one who steals the slaves of others and sells them: 1 Timothy 1:10. (Aristophanes, Xenophon, Plato, Demosthenes, Isocrates, Lysias, Polybius)

Strong's Exhaustive Concordanceの定義

kidnapper, slave trader.

人さらい〔岩波訳〕、誘拐する者〔口語訳・新共同訳〕、誘拐者〔塚本訳〕、人を誘拐する者〔新改訳〕)

  

一方、夫と妻が結婚の中で互いにどのように振る舞うべきであるのかについてのパウロの諸規制は、結婚という制度が「善いものである」ということを前提しており、――それだけでなく、その土台も、創造のはじめより創造主なる神の聖意図の内に在ったということを前提しています(エペソ5:31-32)。

 

さらに、パウロは、「自分の出す(結婚のための)諸規制もまたこの創造の秩序から溢れてくるものである」という事を示すような仕方で、創造における神の聖意図の中での結婚の土台を位置づけています。

 

そして創世記2:24「ふたりは一体となる」を引用しつつ、「私は、キリストと教会とをさして言っているのです」と説明しています。

 

そしてこの「奥義」から、パウロはかしらとしての夫(キリストのアナロジー)と、彼のからだもしくは肉(教会のアナロジー)との間の関係の型(モデル)を描き出し、そこから夫のリーダーシップおよび妻の恭順の妥当性を引き出しています。

 

それゆえ、結婚に関するパウロの諸規制は、制度それ自体と同じく、まさしく創造の秩序に根差しているのです。

 

しかしこれは奴隷制には当てはまりません。それゆえ、確かに19世紀の奴隷所有者たちの中には、結婚における男女各自の役割と奴隷制をパラレル関係として絡ませながら奴隷制を正当化しようとしていた人たちもいましたが、そのパラレルは皮相的であり、また見当違いなものでした。

 

聖書を使って奴隷制を正当化しようとしていた人たちは明らかに彼らの聖書解釈において誤謬を犯していたのであり、実際、彼らは決定的にこの議論に敗北したのです。

 

メアリー・ストゥアート・ヴァン・リゥーウェンは、1テモテ6:16を取り上げた上で、次のように言っています。

 

「(19世紀にキリスト教徒であり且つ奴隷制支持者であった人々によると)奴隷制は創造に起源を持っていないにも拘らず、、、それでもあえてパウロが奴隷制の維持を、イエスご自身からの啓示に根拠を置いていたことはつまり、『誰であれ、奴隷制を廃止しよう、もしくは奴隷の労働状況を改善しようと望む者は、社会における、永続的な聖書的規範を否定することにつながる』ということを意味していたのです。」

Mary Stewart Van Leeuwen, Gender and Grace: Love, Work, and Parenting in a Changing World, 1990, p 238.

 

この主張の抱える問題は、次の点です。すなわち、パウロがイエスの教えを用いたのは、奴隷制を「維持する」ためではなく、あくまでも(罪の結果の一つとして当時すでに存在していた奴隷制度の中における)クリスチャン奴隷と主人それぞれの言動・立ち振る舞いを規制するためのものだったのです。

 

ここでイエスが是認しているのは、たといその要求が不義なものである時にでさえも、私たちに1ミリオン行けと強いるような者とは、進んでいっしょに2ミリオン行こうとするような内的自由および愛の類です(マタイ5:41)。

 

それゆえ、創造のわざが結婚に根拠を与えたのと同じ仕方で、イエスの言葉が奴隷制に根拠を与えていると主張するのは間違っています。

 

イエスは奴隷制にはなんら根拠はお与えになっておられず、創造こそが、結婚および夫と妻の相補的役割に揺るぎない不動の礎を与えているのです。

 

最後になりますが、もしも冒頭の質問をされた方々が、「過去に奴隷制を支持していたキリスト者の過ちを回避しましょう」という懸念を持っておられるのなら、私たちは次のことを申し上げなければなりません。

 

19世紀の奴隷制支持者の過ちを劇的に繰り返してしまう恐れがあるのは、相補主義者ではなく、むしろ福音主義フェミニストたちであるということです。なぜでしょうか?

 

なぜなら福音主義フェミニストたちこそ、現代社会の中に存在する非常に強い重圧(19世紀当時は「奴隷制支持」、そして現在は「フェミニズム支持」)に自らを順応させることを正当化すべく、聖書の御言葉を用いようとしているからです。