巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

それでもあえて人が真理のために立つ時(by A・W・トーザー)

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A.W. Tozer, Daring to stand for Truth(全訳)

 

神のこころに近づけば近づくほど、私たちは論争を好まなくなる。神の御胸に抱かれる平安のあまりの甘美さに、「ああ、できるものならたえずフルにその中にとどまっていたい」――そう願うのが人の自然の情というものであろう。

 

御霊に満ちたクリスチャンというのはけっして「良い」戦士ではない。戦士としての不利な条件が彼にはあまりにも揃い過ぎている。その点、敵はいつも相手を糾弾することにおいて、彼よりずっと上手(うわて)だ。

 

悪魔は生々しい中傷表現を駆使し、彼の追従者たちもそういった言葉で私たちを責め立てることになんら良心の痛みを覚えない。他方、クリスチャンは常に、反論するよりは相手を祝福することの方にやすらぎを感じる。しかも彼は、彼の敵対者たちよりもずっと柔(やわ)で繊細ときている。彼は怒りに満ちた形相に身震いし、毒を含んだ言葉の数々に後ずさりする。

 

そういったものは彼が遠い昔に捨て去ったこの世のシンボルであり、今や彼は、愛と善の拡がる神の国の静けさの中にいる。そしてこれこそ彼の本望なのだ。なぜなら、これこそが、憎しみなく、すべての人と平安の内に生きたいと願う人としての彼を、世より区別するものであるからである。

 

しかしそのように平和を心から望む彼の願いに反し、その平和に甘んじていることがどうしても許されない状況が発生することがある。いや、とりあえずの和を保つことが罪である時でさえあるのだ。

 

そう、立ち上がり、断固として反対の声を挙げなければならない状況というのが実際存在する。平和を保つためと称しつつ悪行を見て見ぬふりをするのは、私たちが(そういったものを広い視野で包容・理解できるほど)より高い霊性の持ち主である事を意味しない。

 

それはむしろ、自分に降りかかってくるであろう負の結果を恐れる余り、罪に対して断固、立ち向かうことをしない忌むべき臆病さの表れである。なぜなら、同世代のほぼ大半が誤った方向にある時にあえて正しいことのために声を挙げるのは、非常に重い代価を払う行為であるからである。