巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

父から幼い子どもたちへの遺書――ある殉教者の獄中書簡(オランダ再洗礼派、1560年)

はじめに

再洗礼派の歴史は、スイスの宗教改革に始まります。元来、「幼児洗礼は非聖書的だ」と説き、多くの純真な若者たちの心に改革の火をともしていたツヴィングリですが、1525年の時点で非常に残念なことが起こりました。

 

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Ulrich Zwingli (1484-1531)

 

(幼児洗礼を擁護する)チューリッヒ参事会と足並みを合わせるために、なんとツヴィングリは、自らの見解を一転させ、幼児洗礼擁護派に回ったのです。彼を師を仰ぎ、彼から日々、霊の糧を受けていた若者たちのショックと失望は大変なものでした。それだけではありません。その年の1月21日、ツヴィングリ率いる参事会は、若者たちの集会そのものを違法行為として厳罰に処する法律を発布させたのです。

 

若者たちは、「世俗精神に適度に迎合・妥協しつつ、ツヴィングリおよび国家と連携していくという『セイフ・ゾーン』のクリスチャン生活」を選ぶのか、それとも、「バアルに膝をかがめず、投獄・拷問・死刑を覚悟で、聖書の教えに忠実であり続けるのか」――その二択を迫られたのでした。

 

そして、その日の晩、後者の道を選ぶことを決意した若者たちが、ゾリコンという小さな村に集まり、そこで初めての成人によるパプテスマが実践されたのです。時をおかずして、その晩に洗礼を受けた若者たちのほとんどは殺されました。しかしながら、「死に至るまで忠実であれ」(黙2:10)というイエス様の御言葉に従い切った若者たちの死は無為に地に落ちず、そこから史上空前のアナバプテスト・リバイバルが起こり、激しい迫害にも拘らず、それは疾風のような勢いでヨーロッパ中に拡がっていったのです。(詳しくは、スイス再洗礼派の歴史小説『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』をお読みください。オンラインで読むことができます。)

 

この原稿を書く私の目の前には、1000頁以上に及ぶ、再洗礼派の殉教者の証しを集めた分厚い本が置いてあります。(Thieleman J. van Braght編, Martyrs Mirror, 1660年, 初版オランダ語)。中を開くと、これまた小さな活字で、殺された何千、何万という老若男女の最期の様子、裁判記録、獄中書簡などがぎっしりと書き込まれています。

 

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当時、「無学な者」と蔑まれていた農民や仕立て屋、家庭の主婦、十代の青年たちが、ドミニコ会士や錚々たる議官、祭司・牧師、神学者たちの前で、そして拷問台の前で、大胆に信仰を証している姿に震撼します。また、獄中から教会の仲間たちに宛てて送られた励ましの手紙、夫婦や親子間の最後の手紙のやりとりなどは、本当に涙なしでは読めないような内容のものばかりです。今日はその中の一つの手紙を翻訳し、みなさんに共有したいと思います。

 

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レナルト・プロヴィール(Lenaert Plovier)。オランダ・アントワープの獄中にて、幼いわが子に遺書を送る。1560年。

 

愛してやまないわが子よ。お前たちの父はもういなくなるが、お父さんは何かの犯罪を犯したためではなく、イエスの証しのためにこの道をゆくということを覚えていてほしい。ああ、どんなにお前たちのことを愛しているだろう。だから大きくなったら、イエス様がマタイ6:33でおっしゃっているように、自分の救いを求めてほしい。

 

子どもたちよ、お母さんの言うことに聞き従い、彼女を敬いなさい。なぜなら、聖書に、「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です」エペ6:2、3)と書いてあるから(出20:12、21:17)。

 

いつも、子どもとして、言葉を慎み深く用いなさい。そして大きくなったら、新約聖書を手に取り、そこでキリストが私たちにどんなことをお命じになっておられるのかをみなさい。なぜなら、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(2テモテ3:16)だから。

 

愛する子どもたち、主のみことばが、お前たちの魂の糧となるようにしなさい。そう、それによって魂は生きなければならない。そしてこの御言葉をないがしろにし、御言葉に従って生活をしようとしない者は、永遠の刑罰におびやかされることになるのだ。キリストはこうおっしゃっている。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。

 

だから、子どもたちよ、どうか刑罰から逃れてほしい。福音に従おうとしない者は、主の御前から永遠の破滅のうちに、引き離されることになるのだから。(2テサ1:9)どうか時があるうちに、備えをするように。福音に従おうと望む者たちには患難が襲うかもしれない。しかし、永遠から考えれば、それは一時のことにすぎない。「私たちが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)。

 

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る、火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」(1ペテロ4:12、13)。

 

私たちの師であり、主人であるキリストでさえも、患難と苦しみを経て、神の国に入らなければならなかった。そして、弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさることはないのだ。(マタイ10:24、25)。

 

、、おお愛しい子どもたち、パウロが言った次の言葉を心に留めておきなさい。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(2テモテ3:12)たとい小さな苦しみが襲ってきても、それにくじかれて、救いを求めることからしりごみしてはならない。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私たちに得させるから。そして、キリストの苦難が私たちにあふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているのだから。

 

聖書にはこう書いてある。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。/忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

 

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。/耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。/勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。

 

勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」(黙2:10、3:10、2:7、11、3:5、21)

 

だから、子どもたちよ、見なさい。勝利を得る者に対し、どんなに美しい御約束が与えられているかを!人を恐れてはいけない。彼らは私たちに危害を加えるがそれはつかの間の間だけだ。この苦難の後、私たちは、神のみことばゆえに殺された他の人々と共に、主の祭壇の下で、これまでのあらゆる苦しみ・労苦からの安息を与えられるのだ。

 

そして、白い衣を着、何千という聖徒たちと共に顕れ、しゅろの枝を手に、大声で叫んで言う。「救いは、御座にいますわれらの神と、小羊から来たる」と!彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊が、彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。

 

そして神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙14:13、6:9、7:9、10、16,17、22:5)

 

だから、子どもたちよ。このことを心に留めて生きていってほしい。これらの美しい御約束は、背教する者たちではなく、勝利を得る者たちに与えられるのだ(黙2:7、エレ17:13)。主がお前たちに時を与えてくださっている間、絶えず、この方を畏れつつ生きなさい。なぜなら、思いがけない時に、主は来られるからだ。目を覚ましていなさい、そして主の再臨を待っていなさい。(イザヤ55:6、マタイ25:13)。

 

以上が、お前たちに遺す、お父さんの遺書だ。イエスの証しのために縛られ、ここアントワープの刑務所でこれを書いた。

 

お前たちのお父さんより、

レナルト・プロヴィール