その時代を生きる預言者というのは、
神によって完全に受け入れられる一方、
人からは全く拒絶される存在である。
彼らは、危機的な時代に 神によって備えられし緊急人(emergency men)である。そして、そういった預言者の払うべき代価― それは、彼が孤独のうちに生きなければならないということである。
偉大な神の人というのは、これまで例外なく、非常に、非常に、孤独な人であった。
「預言者の機能は、」とオースティン・スパークスはかつて言った。
「ほとんど常に、回復をもたらすためのものである」と。
預言者は、失われし宝を探し当てる神の探偵である。そして彼の有用性の度合いは、この人の「不人気度」によって決定される。
妥協というのは彼の知らざる所のものであるからだ。
神の人は、その顕現の日まで隠されている。しかしやがて現れる。
この人はその務めの間、日々、苦しみのパンを食べ続け、その一方において、彼に聴く者に、いのちのパンを供給する者である。
今日、とてつもない空白がある。
そう、預言者の不在である。
尋常でない炎を宿す人。
この世的な一切のものから離れている人の不在である。
この種の人間は、他の人からーー他の善良な人々からでさえもーー拒絶される。なぜなら、彼らの目に、この人はあまりにも厳格でいかめしく、打ち込み方も尋常でなく、あまりに否定的かつ非社交的に映るからである。
おお 彼をして バプテスマのヨハネのように簡素たらしめよ。彼をして、しばしの間―現代神学および、よどんだ「教会主義」という名の荒野で叫ぶ「声」となさしめよ。
彼をして、使徒パウロがごとき無私の男とならしめよ。 彼をして、「我は、この一事に努める」と言わしめ、かつ生かしめよ。彼をして、教会的人気をことごとく拒絶せしめよ。
彼をして、自己否定者、
「非」自己追及者、
「非」自己アピール者、
「非」自己義認者、
「非」自己顕示者、
「非」自己実現者とならしめよ。
彼をして、自己に人を引き寄せるいかなる試みを拒絶せしめ、ただひたすらに、人を神の元に引き上げることのみを言わしめよ。
日々彼をして、聖なる神の御座―神よりの指示を受けし部屋―より出さしめよ。物欲的な催眠状態にかかったこの時代において、彼をして、―財貨のガチャガチャいう音で耳が鈍くなっている―何百万人の耳を開かしめよ。
彼をして、今世紀未聞の「声」を持って泣かしめよ。
なぜなら彼は、今世紀誰も見ることのなかったある幻を見たからである。
「超」物質主義という荒野―。そこでは 情欲という名の毒蛇がわれわれに噛みつき、霊的にまったく盲目の啓蒙家たちが、到来しつつあるハルマゲドンに我々を導こうとしている。
おお神よ、〈モーセ〉をわれらに送りたまえ。
そして、我々をこの荒野から導き出したまえ。
神よ、我々を憐みたまえ!
そして我々の元に預言者を送りたまえ!