巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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神の受肉、物質の聖化、イスラーム、イコン崇敬(ダマスコの聖イオアン)

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ダマスコの聖イオアン(ヨアンネス;675-749)

 「東方教会でヨアンネス〔=イオアン〕は何よりも三つの講話『聖画像破壊論者駁論*1』によって知られます。

 

この講話は彼の死後、聖画像破壊論者によるヒエレイア教会会議(754年)によって断罪されました。しかし、これらの講話は、第7回公会議の第2ニカイア公会議(787年)に集まった東方教父がヨアンネスを復権し、尊者とした基本的な理由となりました。

 

わたしたちはこれらのテキストの中に聖画像崇敬を正当化するための最初の重要な神学的試みを見いだすことができます。ヨアンネスは聖画像を、おとめマリアの胎内における神の子の受肉の神秘と結びつけたからです


ダマスコスのヨアンネスは、キリスト信者の公的礼拝と私的礼拝、すなわち礼拝(ラトレイア)と崇敬(プロスキュネーシス)を区別した最初の人でもあります。公的礼拝が最高に霊的な存在である神に向かうのに対して、私的礼拝は、画像を用いて、画像が表すかたに向かうことができます。たしかに聖なるかたを、イコンを作るための物質と決して同一視してはなりません。

 

この区別はただちに、キリスト教徒として、ある人々にこたえる上できわめて重要なものとなりました。この人々は、像を礼拝に用いてはならないという旧約の厳しい禁止規定を、世界中で永遠に守らなければならないと主張したからです。このことはイスラーム世界でも盛んに議論されました。イスラーム世界は礼拝から像を完全に追放するという、このユダヤ教の伝統を受け入れたからです。

 

これに対して、キリスト教徒はこの点をめぐって、問題を議論し、聖画像崇敬を正当化する根拠を見いだしました。ヨアンネスは述べます。「かつて神は決して像によって表されることがありませんでした。神は非物質的で、顔をもたなかったからです。しかし、今や神は肉において目に見えるものとなり、人間の中で過ごされました。だからわたしは神のうちに見ることができるものを表すのです。わたしは物質を崇敬するのではなく、物質を造られたかたを崇敬します。このかたはわたしのために物質となり、物質の中に住み、物質を通じてわたしを救ってくださったからです。ですから、それによってわたしに救いがもたらされた物質を崇敬せずにいることはできません。しかし、わたしは物質を、それが神であるかのように絶対的な意味で崇敬するのではありません。どうして神が、無から存在を受け取ったものでありうるでしょうか。

 

・・・・むしろわたしは、それが力と聖なる恵みに満たされているかぎりにおいて、わたしに救いをもたらした、その他のすべての物質を崇敬し、尊びます。いとも聖なる十字架の木も物質ではないでしょうか。・・・・福音を記したインクと聖なる書物も物質ではないでしょうか。いのちのパンをわたしたちに与える、救いの祭壇も物質ではないでしょうか。・・・・何よりも、わたしの主の肉と血は物質ではないでしょうか。これらすべてのものの聖なる性格を否定すべきでしょうか。それとも、教会の伝統が、神の像と神の友の像を崇敬することを認めるべきでしょうか。この神の友は、その名によって聖なるものとされ、そのために聖霊の恵みが宿るからです。ですから、物質を攻撃してはなりません。物質はさげすむべきものではありません。なぜなら、神がお造りになったものはいかなるものであれさげすむべきではないからです*2。」

 

受肉によって、物質は聖化されて現れたこと、すなわち神の住まいと考えられるようになったことがわかります。これは世と物質的現実に関する新しいものの見方です。神は肉となり、肉は本当に神の住まいとなりました。神の栄光はキリストの人間のみ顔のうちに輝くからです。ですから、この東方教父の招きは現代においてもきわめて現実的な意味をもっています。それは、物質が、受肉によってかぎりなく大きな尊厳を与えられ、信仰のうちに、人間と神との出会いの力強いしるしまた秘跡となりうることを考察させてくれるからです。

 

それゆえダマスコスのヨアンネスは、イコン崇敬の特別な証人であり続けます。イコン崇敬は、現代に至るまで、東方教会の神学と霊性の最大の特徴の一つとなっているからです。しかしそれは、ただキリスト教信仰にのみ属する礼拝形式です。キリスト教信仰は、肉となり、目に見えるものとなった神への信仰だからです。そこで、ダマスコスの聖ヨアンネスの教えは普遍教会の伝統とつながります。普遍教会の秘跡についての教理は、自然からとられた物質的な要素が、まことの信仰告白を伴う聖霊の働きを求める祈り(エピクレーシス)によって恵みの仲介となることを前提するからです。」

ヨーゼフ・ラッツィンガー

 

 

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*1:Contra imaginum calumniatores orationes tres

*2:『聖画像破壊論者駁論』:Contra imaginum calumniatores orationes tres I, 16, ed. Kotter, pp. 89-90)