巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書神学は正教理解に有益!(by セラフィム・ハミルトン)【福音主義と東方正教の架け橋】

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燃える柴(出エジプト記3章)。シナイ山のモーセとオディギートリアの三連祭壇画イコン。エジプトシナイ山、聖カテリーナ修道院蔵。出典

 

Seraphim Hamilton, Why Orthodoxy?, 2. The Scriptures come to life here. (拙訳)


聖書の無誤性に関し質問を受けたG・K・ビール教授(Gregory Beale、1949年 -*1.)は、次のように答えたそうです。「一般的な想像とは裏腹に、聖書テクストをより深く探求するべく推奨され迫られているのはむしろ無誤性信奉の聖書学者たちの方なのです」と。

 

潜在的矛盾に直面した際、〔聖書が誤りのない神のみことばと信じる〕福音主義学者は無理な解決案を聖句に押し付けようとしてはならないし、そうかといってただ単に矛盾があると主張することもできません。そのためこれは、私たちがその特定聖書箇所をじっくり黙想するまたとない貴重な機会となり、しかもその過程でしばし、解決策がおのずから浮かび上がってくる場合も多いのです。こうして無誤性を信じる聖書学者はこの新しい解決法(解釈)を学術的に論じます。

 

それだけでなく、彼らがそれを説得力をもって論じた結果、特定聖句を巡る当該問題は実は問題ではなかったのだという認識を無誤性を信じない学者たちにも与えることさえしばしあります。無誤性に関し私はそれがまさに然りであるということを発見しただけでなく、聖書の教えと正教の教えに関してもそれが然りであるということを発見したのです。

ある方が私にこう尋ねてきました。「正教神学と聖書のみことばの間に矛盾を見出した際、あなたならどうしますか?」と。それに対し私は次のように答えました。「その場合、私は、自分が例えば『列王記』と『歴代誌』、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』の間に表面的矛盾を見出した時にやるだろうこととまさに同じ事をやると思います。」

「ここの聖書箇所は矛盾だ」と言い放つのではなく、私は正教神学と御言葉その両方を黙想し、じっくりとそれらに向かい合います。そうしますと多くの場合、解決策が自ずと浮かび上がってくるのです。それだけではありません。自ずから浮かび上がってきたこういった解決策は、正教と聖書の間の緊張に解決をもたらすだけでなく、より広範囲にまで適用され得る新たなる付加的洞察さえ与えてくれるのです。

ある特定の問題を解決すべく企図されたある理論により生み出された諸洞察が、意図せずして、その他の諸問題の解決にも適用可能な諸洞察を提供している場合、それは良いモデルの道標であるといえます。

義認の教理に関してもそれが真であることを私は発見しました。私は信仰義認の問題に数年、がっぷり四つで取り組みました。こうして御言葉を黙想し研究する中で私は、正教神学と最も合致した形でのパウロ読解は実際、聖書全体にわたる聖書的・神学的諸洞察を生み出しているということに気づいたのです。自分が受容するに至った聖書の読みは非常に強靭であるため、聖伝への言及がない場合でさえ擁護が可能でした。*2

 
それゆえ、私は――自分がそれを聖伝から無理やり読み込ませようとしているからではなく、それが本当にそこに在るゆえに――、聖書テクストの中に正教神学を見出したのです。それはただ単に当該聖句に関し考えられ得る一つの解釈というものではなく、妥当なる解釈です。それゆえ、たとえある人が〔議論の運び上〕「聖書のみ」の教理を前提していたとしても、それでも尚、正教神学の聖書の読みの妥当性は依然として立証され得るということを発見しました。

これを実際経験された方は、そのとてつもないパワフルさを分かってくださると思います。私はこれまでこの事を何度も、何度も、何度も経験してきました。しかし正教において聖書が生きてくるのはそれだけにとどまりません。

聖書のシンボリズムを学ぶことで聖体礼儀(Divine Liturgy)が生きてくるのです。聖書神学に通じていると、特定の祝祭のための聖書箇所がいかに整合性をもったものであるのか前よりも理解がずっと深まります。例えば、聖体礼儀は、シナイにおける神とイスラエルの契約のプロセスを一歩一歩追っています。毎回の典礼は契約の更新です。それは段階を追いつつ、レビ記1-3章の捧げ物の箇所に来ます。それ自体、古代イスラエルの契約更新として企図されており、彼らをシナイに戻します。こういった典礼的型(パターン)は、その他の聖書全体を通し――特にヨハネの黙示録――、より詳細な形で拡がっています。

指定された日々の聖書箇所と教会生活の間に存在するさまざまな関連性は、典礼サイクルを設定した人々の中で実際に意識されていたのかどうか私は知りません。それは実に聖霊によって霊感されており、それと同じ御霊がまさしく聖書を霊感したのです。*3

 

ー終わりー

 

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*1: 

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*2:

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Apologia Pro Ortho Doxa — Justification by Faith

*3:例えば、教父たちによって描写されているマリア論的シンボリズムが、聖書の御言葉および、それが花嫁エバという予型を用いる方法と豊かに関連しているということにも気づきました。(例:出エジプト記4章、チッポラと「血の花婿」)