巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「仲介者マリア(Mediatrix, Μεσίτρια)」という教義と、「神と人との間の唯一の仲介者キリスト・イエス」(1テモテ2:5)の聖句はいかにして調和が可能?【正教神学者の所へ質問に行く】

f:id:Kinuko:20191118204255p:plain

 

目次

 

「仲介者」はただおひとりのはずなのに・・・困ったなあ。

 

聖母マリア(生神女マリア)が「仲介者」であるという教えは、カトリック教会にも正教会にも存在します。しかしながら、1テモテの手紙2章5節には次のような聖句があります。

 

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。〔新共同訳〕

εἷς γὰρ Θεός, εἷς καὶ μεσίτης Θεοῦ καὶ ἀνθρώπων, ἄνθρωπος Χριστὸς Ἰησοῦς,〔ギリシャ語原典〕

Unus enim Deus, unus et mediator Dei et hominum homo Christus Jesus. 〔ラテン語、ヴルガータ訳〕

For there is one God, and one mediator between God and men, the man Christ Jesus. 〔欽定訳〕

 

「神と人との間の仲介者は人であるキリスト・イエスただおひとりと明記されているのに、なぜマリアも『仲介者』なの??聖伝というのは、聖書と調和しているはずなのに・・どうしてこんな不可解な教義が存在するのだろう?」

 

そこで私は正教神学者の方にコンタクトを取り、彼の所に行き、この教義について質問してみました。

 

二種類の「仲介者」

 

この神学者の方の説明によると、1テモテ2:5が宣言しているように、神と人との間の仲介者はイエス・キリストただおひとりです。続けて彼は次のように言われました。

 

「ここで覚えておかねばならないのは、仲介者には二種類あるということです。一つは贖罪的仲介(λυτρωτική μεσίτευση)でもう一つは、執り成し的仲介(ικετευτική μεσίτευση)です。贖罪の御業は唯一キリストによってなされたものですから、前者の意味における『仲介者』はキリストに該当し、後者の意味における『仲介者』はマリアに該当します。」*1

 

正直に言いますと、この説明を聞いた直後の2-3秒くらい、私の中でプロテスタント的懐疑の念がどっと沸いてきて、「ああ今、自分はうまい具合に言いくるめられようとしているのだろうか?私は騙されつつあるのだろうか?」と呻きました。が、そこをぐっとこらえて、とにかく最後まで説明を聞くことにしました。渡ってきたかつての橋はすでに崩壊してしまっているので、後ろにUターンする選択肢はありません。だからどんなに苦しくてもとにかく前進するしかないのです。

 

少し脱線しますが、1テモテ2:5の前半は、「神は唯一である(there is one God)」とあります。以前、三位一体説への懐疑に苦しむイスラム圏求道者の方に私はこの聖句を示しながら、「神は三神(three gods)ではなく、聖書が明記しているように唯一(one God, خدا واحد است)なのです。だから安心してください。」と説明していたのですが、あの時の苦しげな求道者の顔が思い出されました。そして(マリア教義に関し)自分もまた同じような状況に陥っている現在、信心と懐疑の狭間にあったあの方の葛藤がとてもよく分かるのです。

 

さて本題に戻りますが、1テモテ2:5の「仲介者」が贖罪を示唆するものであるとの神学者の方の指摘はたしかに的を射ていると思いました。といいますのも、次の6節には次のように書いてあるからです。

 

「この方はすべての人の贖い(ἀντίλυτρον)として御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」(1テモテ2:6)

 

さらに彼は次のような指摘をしました。

 

「それゆえに、ローマ・カトリック教会の『共同贖罪者(Co-Redemptrix)』という教えは、『無原罪の御宿り(Immaculate Conception)*2』の教義と同様、誤りです。『共同贖罪者』という称号は、唯一のあがない主としてのキリストの御業に反しています。これは度を越したマリア高揚であり、この教義によってマリアは高められるどころかむしろ「彼女は『原罪』をまぬがれた特別な人なのだから聖い生き方ができたのは当然」という具合に彼女の真の献身や犠牲、信心の価値が曇らされてしまっていると思います。」*3

 

「共同贖罪者(Co-Redemptrix)マリア」という教えにかんするカトリック論争史

 

そこで家に帰って今度は、「共同贖罪者(Co-Redemptrix)マリア」という教えについて調べ始めました。そこで分かったのは、この称号は、ローマ教会の中でも長い間論争となっており、現在に至るまで教会のドグマとしては確立されていない一つのセオリーとしてのみとどまっているということでした。

 

教義史としてみますと、中世後期、「共同贖罪者マリア」という考えが主としてフランシスコ会士たちによって提唱され、それに対し、ドミニコ会士たちが反対の意を唱え、論争が生じました*4。そして16世紀の初頭までには、「共同贖罪者マリア」という概念がカトリックの公式教義になるという希望は頓挫し、現在に至っているそうです。(しかしCalled to Communion誌上でブライアン・クロス教授はこの称号および教義を擁護しています。*5

 

20世紀に入ってからも一部の人々の間から、「共同贖罪者マリア」を公式マリア教義にしてほしいという嘆願があったそうですが、教皇庁は基本的にそれらを斥け、第二バチカン公会議文書*6の中でも、「共同贖罪者」という称号は不在です。

 

ちなみに『教会憲章』第8章62条「マリアの仲介」の項を読みますと、「仲介者マリア」というあり方が、唯一の仲介者である贖罪者キリストの尊厳を奪うものではないことが次のように明記されてありました。

 

「・・このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、救援者、仲介者の称号をもって呼び求められている。しかし、このことは、唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない。事実、いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主とけっして同列に置かれてはならない。」(62条*7

 

教皇ヨハネ・パウロ二世および教皇ベネディクト十六世は「共同贖罪者マリア」という提案に対しどのように対応されたのだろう?

 

またこのサイトには次のような説明書きがなされていました。

 

「教皇ヨハネ・パウロ二世は『あらゆる偽りの誇張*8』に対し警告をなし、自らの教えならびにマリア信心は厳格に『マリアを信者たちの間における第一人者として称えてはいるが、あくまでも全信仰を三位一体神に据え置き、キリストに最高位を帰している*9』と述べています。」

 

「また、使徒的書簡『紀元2000年の到来』(1994)の中で、ヨハネ・パウロ二世は次のように記しています。『この世界の贖い主であるキリストは、神と人との間における唯一の仲介者であり、世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としてはどのような名も人間に与えられていません。(使4:12参)』*10

 

「2000年のインタビューの中で、教会がマリアを共同贖罪者として厳粛に規定する可能性があるかとの問いに対し、当時枢機卿であったラッツィンガー(後の教皇ベネディクト16世)は次のように回答しています。

『共同贖罪者(Co-redemptrix)』という句は、聖書の言語からも、教父たちの言語からもかなりの程度において逸脱しており、それゆえ、誤解を生じさせます。・・すべてはキリストより来ており、その事は特にエペソ人への手紙およびコロサイ人への手紙の中に明記されています。マリアもまたキリストを通して、です。『共同贖罪者』という語はこの起源を曇らせます。妥当な意図が誤った仕方で表現されているのです。*11」 

 

おわりに

 

帰り際に、神学者の方は私に、Divine Liturgyの中で「Υπεραγία Θεοτόκε, σώσον ημάς(いとも聖なるセオトコス、私たちをお救いください)」という祈禱が出てくるけれども、ここでの「σώσον」も贖罪的意味ではなく、キリストへの執り成し手としてのマリアに対する嘆願である、とおっしゃいました。*12

 

「まあ結局、信じたいように人は如何様にでも解釈できるよね」という懐疑の念が自分の中で100%払拭されたわけではありませんが、それでも尚、「贖罪的仲介」と「執り成し的仲介」という区別がなされていることを知れたことは私にとって大きな収穫でした。

 

なぜなら、この区別がなされ得るのなら、「仲介者マリア」というあり方と、1テモテ2章5節の聖句は一応調和が可能ということで整合性はとれると思うからです。

 

ー終わりー

*1:贖罪的仲介者と、執り成し的仲介者の箇所について。読者の方から、「聖霊もキリストもとりなし手ではないでしょうか」との問い合わせをいただきました。その通りです。おそらく私が正確に神学者の方の説明を聞けていなかったのかもしれません。神学者の方がおっしゃりたかったのは、イエス様は贖罪的な意味でも執り成し的な意味でも仲介者であり、それに対してマリア様は執り成し的な意味でのみの仲介者です、ということだったのかもしれません。今度お話できる機会が与えられたらその部分を確認してみようと思います。

*2:↓「無原罪の御宿り」ディベート:ウィリアム・アルブレヒト(ローマ・カトリック弁証家)VS ジョセフ・スエイデン(東方正教輔祭)

www.youtube.com

「無原罪の御宿り」ディスカッション:クレッグ・トゥルグリア(東方正教弁証家)、ウィリアム・アルブレヒト(ローマ・カトリック弁証家)、エリック・イバラ(ローマ・カトリック弁証家)、カール(プロテスタント)

www.youtube.com

*3:関連記事

nagoya-orthodox.com

*4:参照

*5: 

www.calledtocommunion.com

*6:『教会憲章』第8章「キリストと教会の秘義の中における神の母・処女聖マリアについて」

*7:『第2バチカン公会議公文書全集』南山大学監修、サンパウロ社出版。関連文献

sugano.us

*8:L'Osservatore Romano, January 1996

*9:Father Salvatore Perrella, The Message, 1997-09-05, p.5.

*10: Pope John Paul II. Tertio Milennio Adveniente, §4, November 10, 1994, Libreria Editrice Vaticana

*11:Joseph Cardinal Ratzinger, God and the World: A Conversion with Peter Seewald. Ignatius Press, San Francisco, 2002, p. 306

*12:関連記事 

www.pemptousia.gr