巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書正典(biblical canon)の問題と福音主義(by ダグラス・M・ボウモント他)【後篇】

前篇】からの続きです。

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出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, Appendix 1, Facing the Issue of the Biblical Canon, 2016(抄訳)

 

聖書正典のための基準(criteria)

 

プロテスタントの懸念

 

これまでみてきました聖書正典の歴史を鑑み、「それならなぜ教会(Church)が正典問題にきちんと決着をつけてくれた、という風に信頼を置いてはいけないのだろう?」といぶかしく思われた方がいるでしょう。

 

この点に関し、『ウェストミンスター信仰告白』は以下のように手際よく懸念事項をまとめています。

 

「聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない。」*1

 

つまり、ここにある懸念は、「仮に、聖書正典の決定に当たり、教会(Church)に功績があったとなると、それでは、あたかも聖書自身の上に教会が権威を持っているーー、という風になってしまわないだろうか?」というものです。そのため、〔彼らによると〕教会は単に正典を ‟発見した(discovered)” のであって、それを決定したのではない、とされなければならないのです。

 

それに勿論、自分たちの伝統が聖書諸書を神の霊感された言葉にした、と高言しているようなキリスト教伝統は皆無です*2 。ここで争点になっているのはそういう事ではありません。問われているのは、「いかにして、これらの霊感された各書が権威的に発見されるに至ったのか/決定されるに至ったのか」についてです。(「発見される」「決定される」という語は基本的に同一の事を意味しています。)

 

そのため、「いかにして、教会(Church)は、ーー聖書の上に権威をもたない存在でありつつーー、尚且つ正典を権威的に決定できたのか」ということに説明をつけるべく、〔プロテスタントの間で〕これまでさまざまな基準が提示されてきました。

 

しかしここでの問題は、次のものです。つまり、正典の形成史がきわめてストレートであるのに対し、(目録を決定するに当たり)教会が用いてきた基準を「逆行分析("reverse-engineer")」しようとする人々の試みはその反対に煩瑣しているのです*3。また仮に基準という点で互いに同意に達することができたとしても尚、問われるべき諸問題はそこに残ったままです。

 

霊感

 

「神によって霊感されている」というのが、定義上、聖書正典における各書の含有のための唯一にして真なる基準です。これは理論上もちろんそうなのですが、当面の問題の核心部分に踏み込んでいく際には無益なものとなります。

 

というのも、「どの書が正典に属しているのか?(which books are canonical?)」という問いに対し「霊感された書は、、」と答えるのは、まあ言ってみれば、「われわれは、霊感された各書がどれであるのかを知ることができる。ーーそれらが霊感された書である、ということによって。」と答えるようなものだからです!

 

この種の答えは、「どの書が霊感されたものであるのか、われわれはいかにして知ることができるのか?」という本来の問いを押しのけてしまっています。正典が何であるのか(what the canon is)という事は、「それをいかにして‟特定するのか”」という事を私たちに語ってくれているわけではありません。

 

それに加え、「初代教会の人々は、どの書が霊感されているのかを把握しており、それをもって正典を決定する手段として用いていたのだ」と仮定したはしたで、今度は幾つかの別の問題にぶつかってしまいます。

 

まず第一に、非正典であるキリスト教文書が初代教会の著述の中で「霊感された書」として描写されています。(例:クレメンスのコリント人への手紙、イグナティオスのフィラデルフィア人への手紙)。

 

第二に、非キリスト教文書が、初代教会の著述の中で「霊感された書」として描写されています。(例:異教哲学者たちに関するクレメンスの『ストロマタ』)。

 

さらには、神の霊感を表すための特別用語だとされているtheopneustos(2テモテ3:16)という語でさえ、その他の書物に対する描写に用いられています。(例えば、バシレイオスの『創世記註解』に関するニュッサのグレゴリウス、ネストリウス糾弾に関するエフェソス公会議)。

 

使徒性

 

一見したところ明瞭にして客観的なる基準がauthorship(原作者が誰であるかということ)です。つまり、もしある書がイエス・キリストの使徒によって書かれたものなら、それは霊感されており、正典に属する、ということです。

 

しかしここにおいてもまた問題が生じます。まず第一に、作者不明の諸書の問題があります。四福音書のどれも、原本には著者名が記されていません。またヘブル人への手紙の著者が誰であるのかについておびただしい量の提示がなされています(最初期のものは著者をパウロとしています)。

 

また新約聖書の中には何人かの「ヤコブ」が存在し、その中のどのヤコブが「ヤコブの手紙」の著者であるのかについても議論がなされてきました。またヨハネの黙示録も著者名を特定していません。

 

教会伝統はこれらの大部分に関しかなり説得力のある答えを出していますが、さて、私たちはーー教会(Church)が嘘を言っていない、もしくは、原作者が誰であったのかについて単に無知であったわけではないーーと、教会に信頼を置くことができるのでしょうか?これに関し、現代の懐疑論者たちは「否!」と叫んでいます。*4

 

それから、使徒によって執筆されたと言われているけれども〔正典から〕排除されている諸書はどうなのでしょうか。(例:バルナバの手紙、ペテロの黙示録)。これらの書には使徒の名前が明記されています(また後期に作成された偽書でもありません)。それではなぜ正典に属するものと考えられていないのでしょうか。

 

歴史的事実が示すのは、authorshipは多くの場合、教会伝統にかかわる事項であったということです。それゆえ、たとい使徒的authorshipが信頼のおける基準であったとしても、人は依然として、著者の特定化に関し、教会伝統に信頼しているのです。

 

霊的証言

 

「聖霊が個々の信者に正典に属する書〔がどれであるか〕を確証している、ということに信頼を置きましょう」という議論は数多くの問題をはらんでいます。*5

 

まず第一に、聖書自身、そのような約束をしておらず、実際には、上記のような考え方自体がある種の伝統を基盤にしているのです。(ある人々はヨハネ10:27「わたしの羊はわたしの声を聞きます。」を立証テキストとして引き合いに出していますが、この聖句は救いへの召しに関することであって、真正なる聖書諸書を認識する云々のことは言っていません。)

 

二番目に、もしもこの基準が妥当なものであるとしたら、全てのクリスチャンは正典諸書(or 諸節)と非正典諸書の間を区別することができていなければなりません。しかし人々の間で論争があるという事実自体がこの主張の信憑性を失わせています。(一体どちらの陣営のクリスチャンが ‟御霊の声” を聞けているのでしょうか??)

 

最後に、この事項に関し、もしも聖霊が本当に教会を導いているのだとしたら、なぜプロテスタント信者は最初の1500年間の教会に信頼を置いていないのでしょうか。

 

正統性

 

また、「正典は、さまざまな書を正統性に関するある種の基準と比較することによって決定された」という提案もあります。

 

これに関しては、しかし、次のことが問われなければならないでしょう。すなわち、もしも正典がその正統性によって決定されたのだとしたら、それは ‟正典” が ‟それ自身”(つまり、他の正典諸書ーーでもこれでは循環論になってしまいます)、もしくは、‟何か別のもの”(でもそれでは聖書以外の何か別のものを聖書の上に権威として置くことになり、本末転倒となってしまいます)と呼応/同意したから、ということになってしまわないでしょうか。

 

さらに、「新約聖書は旧約聖書と矛盾している(例:使徒15章)」と声高に叫んでいる懐疑論者たち*6に対しいかに応答すればよいのでしょうか。解決策はあるかもしれませんが、そうしたところで、それが十全であると「誰が」決定するのでしょうか。

 

最後に、この試みは実際、聖書正典から正典諸書を排除すべく用いられてきました。いくつかの正典諸書は、それが特定諸教理を含有していないという理由で嫌悪されました。(例:ルターは、エステル書、伝道の書、雅歌、ヤコブの手紙を排除することを提唱していました。)

 

またヨハネの黙示録は、モンタヌス派による異端的使用がもとで信用されず、その他の諸グループは自分たちの私益に合わせ、聖書を曲解することで有名でした。こういった事態に直面しテルトゥリアヌスは次のように論じています。

 

「それゆえ、われわれの訴えはScripturesになされてはならない、、どこであれ真のキリスト教的統治と信仰が明確に存在する所では、真のScriptures、それに関する註解、そしてキリスト教伝統もまたそこに存在するのである。」*7

 

自己証明(Self-Attestation)

 

「聖書はそれ自身の証明である*8」という主張はまともに受け取ることが難しいでしょう。まず、どんな宗教の経典であれ同様の主張を繰り広げることができます。それゆえ、こういった主張は宗教的識別に何をも提供し得ず、キリスト教の聖書正典決定に関する詳細メソッドに関してなど尚更できません。

 

二番目に、こういった考えを提唱している最も最近の論者でさえも、結局は、‟自己証明” 見解に関する自解説において正典性の古典的諸特徴を包含するに至っています。*9

 

しかしもし聖書の自己証明が(提案された)ほとんどの標準的基準を含む‟認識的環境”を要求するのだとしたらーー、それならいっそのこと初めから、それらが基準であると言えばいいのになぜそうしないのでしょうか。

 

こういった主張の背後にある神学的動機というのはもちろん、「正典を外部の諸権威に従属させること*10」を回避するためなのですが、結局、それはいずれにせよ同様の外部要因に依拠することになってしまっています。

 

神の民による受容

 

教会の指導者たちは歴史的に正典に関し責任を持ってきました。そして、この事実の重要性を軽減させるべく他の基準が提示されることがしばしあります。

 

彼らがなぜそうするかといえば、それは勿論、仮に正典問題が教会伝統への訴えによって回答され得るのだとしたら、「それじゃあ、私たちは全員、今日にでもローマ・カトリックに改宗しなければならなくなる*11」からです。

 

〔別の基準をも包含させようと試みる〕この主張は、①神の民が自らの決定に当たり、他の基準を用いた(その場合、彼らは実際には基準の一部ではなく、基準を用いるための媒介者に過ぎない)、もしくは、②彼らはそうしなかった(自分たち自身を権威にした)、になってしまいます。

 

それゆえ、神の民が権威的であり他の基準は不必要であるのか、それとも、基準に関する限り、彼らは《余剰》であるのか、そのどちらかということになりそうです。それに、たといこの基準がその他の諸基準を排除しなかったとしても、そもそも一体どのグループの ‟神の民” を私たちは信頼すべきだというのでしょうか。

 

キリスト教伝統

 

こういった「逆行分析("reverse engineering")」プロセスの持つ最大の問題は、上に提示された全ての基準がーー正典問題に最終的に決着がつくまでの(少なくとも)数百年もの間、いずれも明らかに採用されていなかった(あるいは単に失敗していた)ーーということです。

 

しかし、考えてみてください。もし初代教会自体、「どの書が正典の中に含まれるのか」に関し明解な見解を持っていなかったのなら、一体4世紀後半の教会はいかにして明解な見解を得ることができたのでしょうか。

 

ロジャー・ニコルが述べているように、「もしもこの原則が(その提唱者たちによって考えられているほど)単純なものであったのなら、なぜ教会が『この新約目録にしよう』と決心するのに実に300年以上の年月を要したのか説明がつきません。」*12

 

こういった問題に関し神学者ヘルマン・リダボス(Herman Ridderbos)が次のように結語しています。

 

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Herman Ridderbos (1909-2007) 出典

 

「教会というのは、『何が正典として妥当なのか』に関する公式的諸決定をすることによって始まったのではなく、また、『正典性に関する特別な基準』を設定することによって始まったのでもない。、、、彼らの人為性が示唆しているのは、それらの諸議論がその性格上、ア・ポステリオリなものであるということだ。、、、もし正典が聖書《内》の諸原則によって見い出されるのだとしたら、その際、それは循環論になってしまい、そしてもしそれが(その基準が何であれ)教会(Church)によって見い出されるのだとしたら、それは、‟聖書的(biblical)”ではなく、‟伝統的(traditional)”だということである。」*13

 

新約学者ブルース・メッツガー(Bruce Metzger)は正当にも次のように述べています。

 

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Bruce M. Metzger (1914-2007) 出典

 

「正典性のための基本的必要条件は、いわゆる‟信仰の基準(rule of faith)”と呼ばれているものとの調和・一致にあった。、、、つまり、一定の文書が、果して、教会(Church)によって標準的だと認められている基本的キリスト教伝統と調和・一致しているかどうかということである。」*14

 

こういった学者たちが発見したのは、根本において、どの書が聖書に属しているのかを教会は知っていた、ということです。なぜなら、教会は、(自分たちの聖書として)どの書を用いていたか把握していたからです。

 

ですからこういった目録は、4世紀当時流行していた意見を基に出された法令などではなく、教会がすでに真の伝統として認知していたものの記述(descriptions)だったのです

 

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アウグスティヌス

 

「正典諸書(canonical Scriptures)に関してであるが、人は、カトリック諸教会に属するより大多数の人々の判断に従わなければならない。そして勿論、その中にあって、使徒の座にふさわしいと考えられてきたものに対しては格別の地位が与えられなければならない。

 従って、正典諸書に関し、人は次に挙げる基準に従って判断すべきだろう。すなわち、全てのカトリック諸教会から受け入れられている書と、全てからは受け入れられていない書があるのなら、前者の方を優先させなさい。それから後者の部類の書(=全ての諸教会からは受け入れられていない諸書)の中にあっては、より大多数の支持を得、より権威を持つ書の方を優先させなさい。」*15

 

究極的に言って重要だったのは、教会が権威的正典を持っているか否かではなく、むしろ教会が権威的ガイダンス(authoritative guidance)を有しているか否か、でした。

 

教会が聖書なしに生存することはできても、聖書が教会なしに生存することはできませんでした。信仰の基準(regula fidei)とは、使徒たちから後継者たちへと継承(paradosis; 2テモテ2:2)された共通信仰であり、最初期より真の信仰(ユダ1:3)と認められてきたものです。

 

こういった事を鑑みますと、ーー異端者たちが自らの私的諸解釈を正当化すべく自分たち独自の正典を作り上げようとし始めるまでーー、〔初代教会が〕こういった事柄にほとんど関心を払っていなかったかのように見受けられること、それにも説明がつきます。

 

また、なぜいくつかの書が〔正典の〕候補に上がったり外されたりしえたのか、その部分にも納得がいきます。ーーつまり、大事だったのは彼らが「教えた」内容だったのです。

 

摂理、それともパワー・プレイ?

 

こういった歴史的説明は(前述した ‟基準(criteria)をベースにした諸理論” の中の最良要素を受け入れていますが)、それらをーー教会の外側に存在する抽象的要素にしてしまうのではなくーー教会のいのちの中に包含し、組み入れています

 

新約聖書の最初期の書が書き始められる少なくとも10年余前に、教会はすでに存在していました。(新約聖書が完成する40-60年前。)

 

教会は信仰の内実をすでに知っていたがゆえに、聖書を支配する(rule over)ことなく、聖書正典を決定することができたのです。ある人々は「教会伝統というのは外的基準ではないだろうか」と懸念していますが、そうではなく、「教会の教え」と「聖書」は共に一つのキリスト教伝統の中の不可欠な部分であり要素なのです。

 

しかしながら、「教会が決定した正典」という事実はある人々を不愉快にさせます。「それでは教会を聖書の上に置くことになってしまう」という見当違いの懸念に加え、そこには懐疑的諸問題も浮上してきています。

 

考えてみてください。どの書を正典に含め、どの書を含めないのかを「教会」が決定したのだとしたら、その時、「聖書正典に対する私たちの信仰」は、それを決定した「教会に対する私たちの信頼」より大きなものではあり得ないということになります。

 

そうなりますと、クリスチャンは教会に対する神の摂理的導きに信頼を置くのか、もしくは懐疑主義かの二択に直面せざるを得ない状況に追い込まれます。有名な学者であるバート・アーマンはその状況を次のように描写しています。

 

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Bart D. Ehrman(1955-)*16

 

「初期の論争で勝利を収め、4世紀までに自らの見解を支配的なものとして打ち立てたクリスチャンたちは、古代から受け継がれてきた諸信条を私たちに提供しただけでなく、『どの書が正典に含まれるのか』をも決定した。論争に片が付き、勝利が決定すると、彼らは自らのことを『正統派』と命名することに成功した。そうした上で自分たちの論敵を『異端者』として周縁化させたのである。」*17

 

キリスト者はこの種の主張を、幾つかの修正を加えた上で是認することができるでしょう。まず一番目の誤りは、「競合するライバル伝統もまた教会である」という彼らの思い込み/前提にあります。イエスはただ一つの教会をお建てになりました。(パウロはそれを「真理の柱また土台」(1テモテ3:15)と呼んでいます。)

 

そしてその教会は決して破られることがないと約束されています(マタイ16:18;ヨハネ16;1テモテ3:14-15)。信仰に基盤を置いているがゆえに、教会は究極的に信仰を喪失することはあり得ません。さもなくば、打ち破られてしまうばかりか、消滅してしまっていたことでしょう。

 

そして上記のような諸主張から「結局、聖書正典というのは本当には権威的なものではない」という潜在的結論が導き出され、それが人を誤らせます。*18

 

誤りうる人間(可謬なる人間;fallible men)が聖書正典を決定/認証したからといって、「だからそれは必然的に可謬なるプロセス(fallible process)であった」ということが含意されているわけではありません。ーーそれは、「神が可謬なる人間記者(fallible authors)を用いたこと」が、イコール、「彼らの記した書の可謬性(fallibility)を意味する」ということにならないのと同じことです。

 

聖書正典は教会の存在を確証すべく必ずや保護されなければならない信仰の一部であるため、私たちは、「神の御摂理をとおし、教会は聖書正典の選択において誤らなかった」ということに信頼を置くことができます。

 

J・P・ホールディングが述べているように、「われわれが聖書の霊感を信じるのなら、正典の編集過程においてそこに神の御手があったということを想定するのもまた道理にかなったことであると言わねばならない。」*19

 

おわりに

 

もしもキリスト者が、ーー自分たち自身の諸原則を犯すことなくーー聖書の権威をその歴史的現実に根拠づけることができないのなら、その時私たちは今後も絶え間なく懐疑論者たちの攻撃にさらされ続けることになります。

 

不幸なことに、多くの人々は〔聖書正典の形成史という〕この歴史をないがしろにしているか、あるいは誤解/曲解してしまっているために、結局、彼らの聖書論は宙に浮いたままの不安定なものになっています。

 

聖書が教説していることに関し高い見方を示す一方、その形成史や性質に関し誤解したままの状態にある信仰者は、真実を知らされた時、危機に陥ることでしょう。(その真実は往々にして、懐疑論者たち自身の口から聞かされることになるでしょう。)

 

実際、そこから無神論への道を辿っていった元福音主義者たちは、「『どの書が正典に含まれるのか』に関し提案されている《基準》の大半は、①無用に循環論的であるか、あるいは、②究極的にキリスト教伝統が有益であることに依拠しているかのどちらかである」という事実を証言しています。

 

「新約正典の形(shape)に関する保守的米国福音主義界の弁証は聖書学において歴史的に最も脆弱なる系譜の内にある。正典の形(shape)についての彼らの弁証は、検証されていない神学的諸前提および歴史的不正確さの上に構築されてきた。」*20*21

 

結局、聖書に信頼を置くことは、それを編纂した教会に信頼を置くことです。この事実は、懐疑論者たちを不愉快にさせるでしょうし、また、ある人々は「それでは、教会が聖書の上に権威を持つことになるのではないか」と非合法にも結論してしまうかもしれません。ですが、これが聖書正典形成史である事実は動きません。

 

「今日、伝統的聖書正典を受容している人々は、ーーその形成史を無視した諸議論によってはーー、正典を合法的に擁護することはできない。」*22

 

「神が教会(Church)を通して働かれた」ということを認める時にのみ、上記のようなことは問題ではなくなります。もしも神が正典識別の過程の中で教会を不可謬的に導かれたのなら、その時、聖書正典は信仰の土台として不可謬にして信頼のおける書となります。

 

それとは対照的に、仮に、聖書正典の決定において教会が信頼できないものであるとするのなら、その時、聖書は(せいぜい)「不可謬の諸書によって成り立つ、誤りを免れない選集(“Scripture is a fallible collection of infallible documents”)」であるに過ぎないとなるでしょう。

 

「聖書は不可謬の諸書によって成り立つ、誤りを免れない選集。」by R・C・スプロール*23

 

そしてそのような ‟選集” は、不可謬的啓示における信仰のための合法的土台を到底提供できておらず、ーーその ‟選集” の上「のみ」に立っているとされている信仰における土台を提供できていないのは尚更のことです。

 

ー完ー

*1:ウェストミンスター信仰告白1.4(引用元).

*2:カトリック教会でさえそのような主張はしていません。参:Yves Congar, The Meaning of Traditon (San Francisco: Ignatius Press, 2004, chap. 3.

*3:ジャン・カルヴァンは、信者の心の中の御霊の声を通し、神は正典に対する証言をしてくださると言っています。(John Calvin, Institutes 1.7.5). 聖書学者ロジャー・ニコルは7つの基準を提示しています。①使徒性、②正統性、③キリスト中心性、④霊感、⑤個々のキリスト者に対する聖霊の証言、⑥教会の権威、⑦共同的に神の民に与えられ、ほとんど全員一致で明らかにされた聖霊の証言。Roger Nicle, "The Canon of the New Testament", JETS 40, no.2 (june 1997): 200-7. 著名な新約学者であるF・F・ブルースは6つの基準を提示しています。①使徒的権威、②古の所産、③正統性、④公同性、⑤伝統的使用、⑥霊感。Bruce, Canon of Scripture, chap. 21. 福音主義弁証家ノーマン・ガイスラ―は5つの問いを投げかけています。①その書は神の預言者によって書かれたのか?②執筆者は神の御行為によって確証/承認されていたのか?③その使信は神についての真理を語っていたのか?④それは神の御力と共に来ているか?⑤それは神の民に受け入れられていたか?Norman L. Geisler and William E. Nix, A General Introduction to the Bible (Chicago: Moody, 1986), chap.12. 東方正教会の哲学者リチャード・スウィンバーンはただ3つの要素を挙げています。①キリスト教伝統との一致、②使徒性、③教会による広範囲な受容。Richard Swinburne, Revelation: From Metaphor to Analogy (New York: Oxford University Press, 2008). 改革派弁証家ジェームス・ホワイトはただ一つの要素を挙げています。①霊感。James White, Scripture Alone (Bloomington, Minn.: Bethany House, 2004), chap.5.

*4:訳注:聖書の著者に関する懐疑論者バート・アーマンの議論:Bart Ehrman on the Bible's Authors 

*5:訳注:モルモン教徒もこれと同じロジックを用い、モルモン経典の正典性を弁護しています。

*6:訳注:「聖書の矛盾について」懐疑論者バート・アーマンの議論

*7:Tertullian, Prescriptions against the Heretics 19.

*8:訳注:

*9:Michael J. Kruger, Canon Revisited: Establishing the Origins and Authority of the New Testament Books (Wheaton, Ill.: Crossway, 2012), 290.

*10:同著,289.

*11:Sawyer, "Evangelicals and the Canon", 45.

*12:Nicole, "The Canon of the New Testament", 203.

*13:Herman Ridderbos, The Authority of the New Testament Scriptures (Phillipsburg, N.J.:Presbyterian and Reformed Publishing, 1963), 45-46.

*14:Bruce M. Metzger, The Canon of the New Testament: Its Origin, Development, and Significance (Oxford: Clarendon, 1997), 251.

*15:Saint Augustine, On Christian Doctrine 2, 8.

*16:Bart D. Ehrman(1955-)本文批評にフォーカスを置く新約学者。元々は情熱的な福音主義ファンダメンタリストであり、聖書が誤りなき神の言葉であることを擁護すべく奮闘していた。ムーディー聖書学院、ホィートン大、プリンストン神学大(Ph.D)をいずれも最優秀で卒業。院生時代にリベラル派に転向し、15年後、不可知論的無神論者になり現在に至る。(参照)/The Sunday School Teacher Turned Skeptic: Meet Bart Ehrman | WUNC.

*17:Bart D. Ehrman, Lost Christianities: The Battles for Scripture and the Faiths We Never Knew (New York: Oxford University Press, 2003), 13.

*18:訳注:「新約聖書は偽造されたのか?」ダリル・ボックとバート・アーマンのディベート

*19:James Patrick Holding, Trusting the New Testament: Is the Bible Reliable? (Maitland, Fla.: Xulon Press, 2009), 250.

*20:Sawyer, "Evangelicals and the Canon", 29.

*21:訳注:関連記事

 

*22:Ellen Flesseman-van Leer, cited in Bruce, Canon of Scripture, 275.

*23:訳注:R.C. Sproul, Essential Truths of the Christian Faith, Wheaton, IL: Tyndale House (1992), p. 22.