巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書正典(biblical canon)の問題と福音主義(by ダグラス・M・ボウモント他)【前篇】

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出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, Appendix 1, Facing the Issue of the Biblical Canon, 2016(抄訳)

 

はじめに

 

「一つのことを望んでいます。そう、天に至る道です。神ご自身が降りてこられ私に道を教えてくださいます。主はそれを一冊の書の中に書いておられます。おお、その本を私に与えたまえ!どんな代価をもお支払いします。どうかこの者に神の書を与えたまえ。」ジョン・ウェスレー

 

プロテスタントのキリスト者は通常、自らの宗教的権威の源泉として「唯一聖書だけに寄り頼んでいる」と言っています。(この教義はソラ・スクリプトゥーラ〔「聖書のみ」〕と呼ばれています。)

 

ここには強烈なる直覚的訴えがあります。すなわち、仮に聖書が神によって霊感された書であるのなら、それは誤りなきものであり、(その他どんな諸権威も為し得ない形で)それは権威的であるはずです。例えば、ノーマン・ガイスラー師は次のように言っています。

 

「〔聖書の〕神的権威に関してだが、聖書は、自らが最終的権威であり、それが是認する全てにおける上告裁判所であることを明らかにしている。聖書、しかり、ただ聖書のみが、信仰および実践にかかわる諸事項において至高的に権威的書物である。」*1

 

これは、一次元以上の問題をはらむ言明です。まず第一に、聖書は自らを「最終的権威」、「上告裁判所」「信仰および実践にかかわる諸事項において至高的に権威的」だと主張していません。それゆえ、これらの記述は、聖書以外のどこか別の権威から来ています*2

 

二番目に、聖書というのは一冊の本(a book)というよりはむしろ諸書のコレクション(a collection of books)であるため、たとい諸書の中の一つが上記のような自己主張をしたとしても、霊感された目次なしに、私たちは一体どのようにしてその他の諸書が「聖書の中に包含されている」ということを特定できるというのでしょう?

 

また、仮に聖書の中のすべての諸書が自らを聖書正典に属するものと特定していたとして、何を根拠に私たちはそれらを信用するのでしょうか。結局のところ、どんな著者にせよ、自分の書き物が聖典(聖書)だと主張することはできるのですから。

 

聖書正典の問題は私たちキリスト者にとり、きわめて重要です。なぜなら、もしも聖書のみがある人にとっての至高権威であるのなら、その人は聖書を特定することができなければならないからです。そしてソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)に依拠する以前に、人は自らに問わなければなりません。「Quae scriptura?(どの書か?)」と。

 

しかしながら、私たちの多くが、聖書の正確さや霊感に関し莫大なエネルギーを注ぎ込む反面、聖書の特定化(identification)の問題に関しては、なかなか時間を割いてじっくり考えてみようとしないのはどうしたことでしょうか。

 

多くの人々はこの問題を全く考慮に入れておらず、仮に考慮していたとしても、それらは驚くほど簡素なものです。クレッグ・アラートが言うように、「聖書が言っていること以上に、そのそも聖書が何であるのかという問題は非常に重要なのではないだろうか。」*3

 

聖書正典の形成

 

カノン(canon;正典)というのはギリシャ語源の単語で、原義は「まっすぐな棒、もしくは規則」ーーつまり、基準です。4世紀後半になりキリスト教著述家たちが、この語を、「聖書の正統コレクションおよび目録」を指し示すものとして使用し始めました。

 

他の多くの宗教とは異なり、キリスト教には創始者によって(直接)執筆された聖典はありません。ですから、「なにをもって聖書とみなすのか?」ということを決定する過程は私たちにとって非常に重要なのです。

 

新約聖書はイエス・キリストの弟子たち及び彼らと関わりのある人々によって少なくとも40年というスパンの中で執筆されました。1世紀に完成した時点でそれはすでに相当の権威を持ち、用いられていましたが、それと同時に、「ヘルマスの牧者」、「ディダケー」、「クレメンスの手紙」等のその他の諸書も同様の権威と使用域を持っていました。そして正典としての聖書諸書を列挙した公的目録リストは未だ存在していませんでした。

 

2世紀、3世紀になると、教会は各書をより明確に識別するようになり、4世紀の末までには、公的正典目録が出現し始めていました。この形成は三つの基本的段階を踏んでいます。

 

1世紀

 

主の復活後、イエスに関するストーリーおよび教えは使徒たちによって口頭で伝達されました。使徒たちは自らの宣布しているメッセージを保持し、守るよう使命を与えられており、またそれを果たすことができるよう主から御約束をいただいていました(ヨハネ16:13)。そして(口頭の言葉であろうと手紙であろうと)使徒たちの教えは権威的なものでした(使徒2:42;2テサ2:15;3:6)。

 

最初の使徒文書は特定のキリスト教諸集会や諸集会のグループに宛てて書かれていました。イエスの教えは、使徒たちを直に知り彼らによって訓練されてきた人々にとって、引き続き重要な役割を果たし続けました。

 

1世紀の終わりまでには、新約文書の大半は諸教会の中で用いられるようになっており、クレメンスやイグナティオスといった初期教父たちによって頻繁に引用されていました。「クレメンスの第一の手紙*4」は何十年にも渡り、コリント教会の礼拝の中で読み上げられていました。またヘブライ正典は依然として1世紀のユダヤ人の間で議論されている状態にありました。*5*6

 

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ローマのクレメンス(出典

 

2世紀

 

最後の使徒の死後も、こういった基本的流れが続いていき、成文文書はキリスト者にとってますます重要な役割を果たすようになっていきました。教会での新約文書の使用もまた、今や旧約聖書の使用頻度と同等になってきていました。

 

四福音書はおそらくすでにこの時期にはひとまとめにして流通し、パウロの手紙は一揃いの書簡集として出回っていたと考えられています。これらの諸書は通常、その他の使徒文書と同様、権威的なものとして言及されていました。また当時の文献の引用文から分かるのは、使徒行伝、ヨハネの黙示録、その他幾つかの短い書簡などの諸書は、二級クラスとしての扱いを受けていたようだということです。「ヘルマスの牧者」、「ペテロの黙示録」、「クレメンスの第一の手紙」なども使用されていましたが、引用頻度は(他の諸書に比べ)低かったようです。

 

2世紀後半、教会は、三つの逸脱グループーーマルキオン派*7、グノーシス派、モンタヌス派ーーと対峙しなければならなくなり、そこから、「どの書が聖書正典として容認されるのか?」という正典を巡る差し迫った議論が起こされました。*8

 

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グノーシス主義(出典

 

幾人かの著述家たちは、「新約聖書」を、権威ある単一の書として捉え始めました。またサルデスの司教メリト(紀元170年)は、(エステル書を除く)七十人訳聖書に倣い、キリスト者の旧約聖書正典を作ろうと正統派的試みをした初めての人です。

 

3世紀

 

3世紀までには、‟二級クラス”の新約諸書の使用頻度が、‟一級クラス”のそれと肩を並べるようになっていました。いわゆる「ムラトリアン正典」が編集され、ほとんどの新約諸書を目録に載せる一方、一般に知られていた偽文書類を拒絶しました。

 

しかし、この‟正典”には、「ヘブル人への手紙」、「第一&第二ペテロの手紙」、「ヤコブの手紙」、「第三ヨハネの手紙」が含まれておらず、その一方、「ペテロの黙示録」(幾人かはこの書の教会での朗読を禁じていました)、それから「ヘルマスの牧者」は収録されていました。(「ヘルマスの牧者」に関しては、読むこと自体は許可されていたものの、教会の中での読み上げは許されていなかったといわれています。著者はまた、旧約聖書正典に「知恵の書」を含めていました。)

 

4世紀

 

アタナシオスの『復活祭書簡39*9』(紀元367年)において初めて、κανόνας(canon)という語が新約聖書の内容を特定するものとして用いられ、このリストが現在の27巻目録とマッチする初の一覧表となりました。アタナシオスはカトリックの第二正典(=プロテスタントの外典)を含めていますが、エステル書は除外されており、また非正典文書の使用は許されていました。

 

しかし、この目録によって議論に終止符が打たれたわけではなく、その後もオールターナティブな目録がーー特に東方諸教会でーー引き続き作成されていきました。カトリック正典にマッチしている初の目録は、紀元382年にローマ公会議で発布されたものでした。

 

その後、ヒッポ公会議(紀元393年)、カルタゴ第三シノド(紀元397年)も同じ目録を承認しました。しかしながらそれらは地方公会議であり、ゆえに、教会全体に拘束力を持つものとしては考えられていませんでした。

 

5世紀~15世紀

 

最初の千年間に開催されたどの全地公会議も聖書正典目録を宣明していませんでした。しかし地方レベルでの宣明は引き続き、地方公会議で承認された目録とマッチしていました。教皇イノセント一世は紀元405年に同一の聖書正典目録を作り、またカルタゴ公会議(紀元419年)もそれを承認しました。しかしながらこれらの目録もまた東方諸教会では権威的なものとして決して捉えられておらず、こうして、正典的‟流動性”は5世紀以後も続いていきました。

 

聖公会の聖書学者ブルック・ウェストコットは、10世紀に入ってさえ6つの異なる聖書正典目録が存在していたことを記しています。しかし、西方世界は4世紀の正典に落ち着いていたようであり、その後1000年以上、そのような状態が続いていました。(例えば、同じ目録が1441年、フローレンス公会議で承認されています。)

 

また東方は長い間、ヨハネの黙示録を正典に含めることを拒否してきましたが、最終的に、東方における新約正典は西方のそれと調和することになりました。

 

16世紀

 

正典問題は1500年以上経ってようやく一件落着したかに思われましたが、プロテスタント宗教改革と共に、再び新たな論争が始まりました。宗教改革者たちは旧約聖書第二正典を省いた新しい正典を作成しました*10。また、ヤコブの手紙に対するルターの嫌悪感(‟藁の書”)、および、‟真偽が問われている諸書(アンティレゴメナ)”に対する彼の不信などは有名です。*11

 

またジャン・カルヴァンは註解書の中で、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、第二ペテロの手紙、ユダの手紙に関する相反する諸見解について言及しています。ツヴィングリも新約正典の一部に対し疑問を抱いていました。今日においても、古典的ルター主義は、新約聖書のホモレゴメナとアンティレゴメナを区別しています。しかしこういった現象はプロテスタントだけに限ったものではありませんでした。

 

「ルターの論敵である枢機卿カエタンは、ヒエロニムスに倣い、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、第二ヨハネの手紙、第三ヨハネの手紙、ユダの手紙の正典性についての疑いを表明していました。エラスムスもまた、ヨハネの黙示録および、ヤコブの手紙、ヘブル人への手紙、第二ペテロの手紙の使徒性に関し疑いを表明していました。」*12

 

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枢機卿カエタンとルター(出典

 

ローマは一応、4世紀の正典に倣ってはいましたが、さまざまな聖書正典が最終的な形態となって権威的に発布されたのは、宗教改革が進行する中、開催されたトリエント公会議(1546)においてです。*13

 

ー【後篇】に続くー

*1:Norman L. Geisler, Systematic Theology, vol.1 (Mineapolis: Bethany House, 2002), 240-41.

*2:訳注:↓「聖書のみ」の教理に関するパネル・ディスカッション

*3:Craig D. Allert, A High View of Scripture?: The Authority of the Bible and the Formation of the New Testament Canon (Grand Rapids: Baker Academic, 2007), 11.

*4:訳注:以下のサイトで「クレメンスの第一の手紙」を全文読むことができます。

*5:F.F.Bruce, The Canon of Scripture (Downers Grove, Ill.: IVP Academic, 1996), chap.2.

*6:訳注:「宗教改革者たちは、『第二正典(deuterocanonicals)7巻がユダヤ人のヘブライ語聖書の中には含まれていない』という点を指摘していました。幾人かのプロテスタント弁証家たちは、この主張を強化すべく、『紀元90年頃、ヤムニアという都市で開催されたユダヤ人たちの会議において、これら7巻は明確に拒絶された』という説を取り上げています。いわゆる「ヤムニア会議」なるユダヤ人の会議が本当に実在していたのか否か、そして仮に実在したとして、果たして彼らがユダヤ教正典に関する決定をしたのかについての学術的見解は、ここ数十年の間にシフトし、現在ではほとんどの学者たちがこの説を拒絶しています。彼らの一致した見解としては、ユダヤ人たちは紀元2世紀末にかけ、ユダヤ教正典を完了させていたということです。(引用元)」「1世紀末に(一応 ‟開催された” ということになっている)ユダヤ人のヤムニア会議を権威あるものとして受け入れることにより、さらに別の諸問題が表出してきます。まず第一に、現在、大部分の学者たちは、そのような会議がそもそも存在していたのかという点で非常に懐疑的です。それに仮にそれが存在していたにしても、それでは果たして、ユダヤ人指導者たちが、キリスト教会に拘束力を持つ決定事項を下すに当たっての権威を持っているということになるのでしょうか。キリストを信じたユダヤ人たちはその時点ですでにクリスチャンになっていました。ですからそうでない残りの人々は、神的真理に関する決定を下すいかなる正当的権威をも持っていませんでした。なぜなら、そういった権威は使徒たちのように聖霊に満たされていた人々に継承されていたからです。(引用元)」

関連文献:L. M. McDonald & J. A. Sanders (eds.), The Canon Debate, Peabody (Mass.), Hendrickson Publishers, 2002, chapter 9: "Jamnia Revisited" by Jack P. Lewis, pp. 146–162.

*7:訳注:

*8:訳注:キリスト教において聖書の正典化を最初に試みたのは2世紀前半のマルキオンである。旧約聖書をすべて廃し、『ルカによる福音書』とパウロ書簡のみを正典とするその聖書を「マルキオン聖書」と呼ぶ。マルキオンに対し、キリスト教内部からは反論があり、その議論のなかから、新約聖書の範囲を確定する動きが生じてくる。また1世紀から教会内にひろまりつつあったグノーシス主義は大量の文書を著し、それに対抗する理論的な基盤ももとめられていた。正統教会において正典としての新約聖書に最初に言及したのはエイレナイオスであった。180年ごろのことである。新約聖書の範囲についての主な言及は、ほかに2世紀末から3世紀のテルトゥリアヌス、筆者不明の『ムラトリ断片』に示された正典表、3世紀のオリゲネス、4世紀のエウセビオス、アタナシオス(367年復活祭書簡)に見られる。アタナシオスの書簡は現在新約聖書として知られる27文書すべてを挙げている。この基準が397年のカルタゴ教会会議において正式に承認された。(引用元).

*9:

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訳注:アタナシオス『復活祭書簡39』ギリシャ語原文(Athanasius - 39th Festal Letter英訳は↓です。

*10:訳注:

*11:訳注:

*12:M. James Sawyer, "Evangelicals and the Canons of the New Testaments", Grace Theological Journal 11 (Spring 2009): 45.

*13:他もすぐに続きました。the Anglican Thirty-Nice Articles (1563), the Reformed Westminster Confession (1647), Orthodox Synod of Jerusalem (1672).