巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖体と教会的ドケティズム(ecclesial docetism)について(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

「あらゆる善の中でも至高善である『一致』が、あなたにとっての最大の関心となるよう専心しなさい。」ーーアンティオケの聖イグナティオス(『聖ポリュカルポスへの手紙』2世紀)

"The Institution of the Eucharist" Nicolas Poussin (1594-1665)

 

目次

 

Bryan Cross, Corpus Christi and Ecclesial Docetism, 2008(拙訳)

 

初代教会とドケティズム


今日私たちは、聖なるユーカリストを記念すべく聖体祭(feast of Corpus Christi)を祝っています。

『スミルナ人への手紙』の中で、聖イグナティオス(d.AD107)*1は、ある異端者たちについて次のように言及しています。

 

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アンティオケのイグナティオス(35年頃 - 107年頃殉教)

 

「彼らは、ユーカリスト(聖餐)および祈りを回避している。なぜなら彼らはユーカリストがわれわれの救い主イエス・キリストの肉であると告白していないからである。イエス・キリストはわれわれの罪のために苦しまれ、御父がその善良さゆえに蘇らせてくださったのである。それゆえ、ユーカリストという神からのこの賜物に対し悪口を言う者たちは、その論争のただ中で死を引き起こしている。」*2

聖イグナティオスはここでどういった種類の異端者たちについて述べていたのでしょうか。そうです、ドケティストたち(Docetists;キリスト仮現説者)についてです*3。すぐ前の段落で彼は次のように言っています。

 

「しかしこういった事が仮現的にのみ(only in appearance;δοκεῖν)主によって為されたのだとしたら、私もまた、仮現的にのみ捕縛されている(=ただ単に捕縛されているように見えるだけ;δοκεῖν)ということになってしまう。そして〔ただ単にそう見えるだけのもののために〕なぜ私は、死、火、剣、そして野獣に自分を明け渡さなければならないのだろうか。・・・そうであるから、主が真に肉体を所有していたということを否定することにより、わが主を冒涜している人によく思われたところでそこに何の益があろう?」*4

さまざまな福音主義クリスチャンの方々との議論の中で、私はしばし、次のような種類の主張に出会います。「教会(Church)はすでに完全に一つです。そして私たちの為すべき事は、不可視的教会に関してすでに真であることを受け取り、それを可視的にならしめることです。」

 

私はこういった考え方を、次のような記事*5や、ジェフリー・W・ブロミリーの著書『教会の一致と不一致』*6の中に見い出します。

 

ブロミリーは「不可視的一致」と「制度的一致」ーーその両方を回避すべく試みていますが、彼の提示しているオールターナティブ(=「キリストにある一致」)というのは実質上、「不可視的一致」と区別がつきません。


「教会の一致というのは不可視的なものである」という考え方から生起してくる含意の一つは、可視的一致を追及する理由は結局何もないということです。*7

 

こういった文脈の中で可視的一致を追及することは、不可視的領域において自分たちがすでに完全に一つであるということをあなたが認識し損なっていることに他なりません。それゆえに、この「不可視的一致」概念を持つ人々にとって、可視的一致のための呼びかけは、プラグマティックないしは主意的・自発的(voluntaristic)理由によって支持されなければなりません。

教会的ドケティズム

 

今年の1月、私は、「受肉と教会の一致*8」という論考の中で、こういった考え方(=教会の一致は不可視的なものである)は、教会的ドケティズム(=教会的キリスト仮現説;ecclesial docetism)の一形態であることを論じました

 

これは、キリストのみからだ(聖体)を根本的に「非物質的なもの、霊的なもの、不可視的なもの」として扱い、「(キリストのみからだは)この世において可視的外見を持っているのみであり、実際には可視的みからだではない」と捉えています。

 

それではなぜ、それが、ーーキリストのみからだを、あたかも実際には可視的からだでないかのように取り扱っているーーと私は論じているのでしょうか。なぜなら、可視的一致というのは一つのからだにとって必須且つ本質的なものだからです。もしも体が可視的なものでなくなるなら、それは存在しなくなります(cease to be)。

 
ですからもしも可視的一致がなにかに対し偶発的(付随的)なものであるに過ぎないのなら、その〈なにか〉とは生きたからだではありません。それはせいぜい、からだとしての外観を持つものであるに過ぎません。

 

それゆえに、キリストの聖体は不可視的なものであり、可視的に分け隔てられているということを主張する人々は、キリストのみからだを、ーーあたかもそれが実際のからだではなく、単にからだのように ‟見える” だけのものであるかのように扱っています。それ故、なぜこの立場が妥当にも、「教会的ドケティズム」と表現され得るのかが明白になってくると思います。

 

「ドケティズム」と「エウテュケス派」

私の議論に対し、ジョナサン・ボノモが、「カトリック教会論はエウトゥケス派的だ」と応答してきました*9。彼は次のように書いています。

 

 「もしも私たちが自分たちの教会論をキリスト論的諸異端に比較しようとするのであれば、あなたがた〔カトリック〕もまた、エウテュケス派主義の責めを逃れることはできないはずです。あなたがたはエウトゥケス派のように、混乱に至らしめるまで、内的/外的をミックスさせてしまっています。念のために言っておきますが、私自身はそういう糾弾はしません。ですが、なぜ、(内的/外的の本質的一致を熱心に奉じつつ)内的/外的の区別をしようとしている私たち〔プロテスタント〕には『ドケティズム』の責めが負わされる一方、両者を本質的に同一化しているあなたがたは、それに対応する別の種類の責めから免除されているのか、私には不可解でなりません。」


人は「ドケティズム的教会論」か「エウテュケス的教会論」かーーそのどちらか一つを選ばなければならないのでしょうか。そしてカトリック教会論はエウテュケス的なのでしょうか。もちろん否です。ドケティズムは、キリストが人間本性を取ったことを否定しています。

 

ドケティズムによると、キリストは一見したところ、人間のように ‟見えた” だけであって、実際には人間の肉体を持っていませんでした。キリスト単性説とも呼ばれる、エウテュケス派は、第四回教会総会であったカルケドン公会議(451年)の席で糾弾されました。単性説論者によると、イエスの人間性は主の神的本性に吸収されてしまったために、主はもはや人間本性を持たず、神的本性だけを持しているとされました。

「ドケティズム」も「エウテュケス派」も両者共にキリストが人間本性を持っていることを否定しています。そのために、教会論において両者は共に、教会を、それ自体として、不可視的/霊的/非物質的であり、それが具体化した人間信者たちを用いるという意味においてのみ可視的であると捉えています。

 

ドケティスト的概念によると、これは(三位一体の第二格である)ロゴスが、あたかも肉体を持っているかのように ‟見える” べく物質的諸要素を用いているけれども実際にはそういった物質的諸要素によっては構成されておたず、主の一部でもないのと同様なのです。

 

カルケドン派キリスト論は、「神性と、それに吸収されず分かれもせずに存在する人性の二つを唯一の位格の中に有している」と二つの本性を肯定しましたが〔=両性説〕、それは、キリストのみからだとしての教会がそれ自体において、一つの公同的実体として可視的且つ階層的に組織されたものであるということを内含しています。*10


キリストの神的本性と人間本性との間の真の区別は、「キリストのみからだが必ずしも可視的なものではない」ということを含意してはいません。そうではなく、主が真の人間本性を持っているということが、「キリストのみからだは必然的に可視的なものである」ということを内含しているのです。

ジョナサンは誤解して次のように考えていると見受けられます。ーーすなわち、〔可視的キリストのみからだは本質的に一(いつ)であるという〕カトリック見解は間違って、ーー教会の不可視的側面にだけ真であるところのものをーー教会の可視的側面に帰してしまっており、そのようにして、かつてのエウテュケス派がやったように、誤って、神的本質にだけ真であるところのものを人間本性に帰してしまっているのだ、と。


しかしジョナサンの主張は、「生ける人間の肉体は本質的に可視的なものではない」という潜在的前提を基盤になされています。しかし実際には、生ける人間の肉体は本質的に可視的なものです。もしもそれが可視的なものでなくなる時、それは存在を止めます。それゆえに、その可視的一致はその存在に不可欠なものです。

 

従って、〔可視的〕キリストのみからだは本質的に可視的なものであるというカトリックの主張は、エウテュケス派的ではありません。その反対に、カトリック教会論がエウテュケス派的であるという批判は、「可視的一致は生ける人間の肉体にとって本質的に不可欠なものではない」という誤った観念をベースになされています。

 

ユーカリスト的聖体と神秘的聖体

 

考えられる一つの反論としては、「キリストのユーカリスト的聖体は本質的に可視的なものではない。なぜなら、そこには数多くの聖別されたパンがあるから。それゆえ、キリストの神秘的聖体は必ずしも本質的に可視的なものというわけではない。」というものがあります。

 

しかし、キリストのユーカリスト的聖体は、ある重要な点で、キリストの神秘的聖体と異なっています。聖別されたパンがキリストのユーカリスト的聖体の ‟一部” ないしは ‟メンバー” であるわけではありません。

 

キリストは〔聖変化した聖体の〕形態(species*11.)各々における全体に臨在しており、それぞれの部分における全体に臨在しておられるゆえ*12、パンを裂くことはキリストを分割することにはなりません。*13

 

しかしキリストはご自身の神秘的聖体におけるかしらです。キリストの神秘的聖体の各メンバーはキリストに結ばれていますが、主だけがかしらです。それが意味しているのは、キリストはーーご自身が、ユーカリスト的聖体形態の各部分に存在しておられるのと同じ仕方ではーー、キリストの神秘的聖体の各メンバーの中に ‟全体として; whole and entire” 臨在しているというわけではないということを意味しています。

 

キリストの神秘的聖体の各メンバーは、その聖体にとどまるべく、その聖体のかしらに結合し続けなければなりません。しかし、聖別されたパン(consecrated Host)のどの部分も、全的に完全にキリストであり続けるために、そのパンの他の部分と可視的に結合し続ける必要はありません。このようにしてキリストとご自身の教会は共に、「全きキリスト("whole Christ" ;Christus totus)を構成しています。*14

それが理由で、神秘的みからだは、ーーたとい「パンを裂くことがキリストを分割することにならない」にもかかわらずーー本質的に可視的なものなのです。*15

 

ー終わりー

 

*1:訳注:アンティオケのイグナティオス(35年頃 - 107年頃)。イグナティオスは若年の頃にキリストを信じ、ローマ皇帝がネルヴァからトラヤヌスに変わった頃(98年)にはアンティオキア教会の第2代目の司教になりました。ローマで殉教する旅の途中、イグナティオスは、最も初期のキリスト教神学の例と見なされている一連の手紙を書き送りました。これは、教会論、サクラメント論、主教論を含んでいます。イグナティオスは、ローマのクレメンスとポリュカルポスとともに、使徒教父の筆頭であり、個人的に使徒を知っていた初期のキリスト教著述家の一人であると伝えられています。参照 

*2:訳注:ギリシャ語原文: Εὐχαριστίας καὶ προσευχῆς ἀπέχονται, διὰ τὸ μὴ ὁμολογεῖν τὴν εὐχαριστίαν σάρκα εἶναι τοῦ σωτῆρος ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ τὴν ὑπὲρ τῶν ἁμαρτιῶν ἡμῶν παθοῦσαν, ἣν τῇ χρηστότητι ὁ θεοῦ συζητοῦντες ἀποθνήσουσιν· [ΣΜΥΡΝΑΙΟΙΣ ΙΓΝΑΤΙΟΣ,VII.]

*3:訳注:ドケティズム(Docetism)とは?--初期キリスト教会におけるキリスト論に関する異端的傾向の一つです。物質を悪とする立場からイエス・キリストが真正の肉体を有していたことやその真の受難を否定し、これらはすべて見せかけだけのものであるとしました。1世紀にすでにこの傾向が存在していたことは新約聖書から知られていますが (1ヨハネ、IIヨハネ、コロサイ) 、2世紀になってグノーシス派のなかで盛んになりました。ケリントス、セラピオンらがその代表者です。仮現説、キリスト仮現説ともいわれます。表記の由来はギリシャ語 の dokein (現れる))からきています。参照

*4:訳注:ギリシャ語原文 : εἰ γὰρ τὸ δοκεῖν ταῦτα ἐπράχθη ὑπὸ του κυρίου ἡμῶν, κἀγὼ τὸ δοκεῖν δέδεμαι. τί δὲ καὶ ἑαυτὸν ἔκδοτον δέδωκα τῷ θανάτῳ, πρὸς πῦρ, πρὸς μάχαιραν, πρὸς θηρία..... τί γάρ με ὠφελεῖ τις, εἰ ἐμὲ ἐπαινεῖ, τὸν δὲ κύριόν μου βλασφημεῖ, μὴ ὁμολογῶν αὐτὸν σαρκοφόρον; [ΣΜΥΡΝΑΙΟΙΣ ΙΓΝΑΤΙΟΣ, IV.2 & V.2.]

*5:記事

*6:The Unity and Disunity of the Church, Eerdmans, 1958

*7:訳注:

*8:The Incarnation and Church Unity

*9:訳注:エウトゥケス派とは?ーーエウテュケスを信奉する単性論の一派 (→キリスト単性説 ) 。エウトゥケスは5世紀前半のコンスタンチノープルの修道士で、キリストには神性しかないとして、キリストの人性を否定したほか、キリストのからだと他の人間のからだとの同質性をも否定しました。参照

*10:参:Mystici Corporis Christi, 16

*11:訳注:speciesとは、キリストの体と血に聖変化された後も残る、パンとぶどう酒の性質や外観を指します。

*12:原文:Christ is present whole and entire in each of the species and whole and entire in each of their parts, in such a way that the breaking of the bread does not divide Christ.

*13:CCC 1377

*14:CCC795

*15:To see video clips of our Corpus Christi procession and benedictions from last year, see herehereherehere, and here. Thanks to Mark Abeln of Rome of the West for these videos.