巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「超教派」という考え方について

Image result for grape vine oil painting

出典

 

目次

 

二つの「超教派」

 

各教派間の教理的相違を認めつつも、宣教や伝道といった共通の目標の下に、そして何より「彼らが一つになるためです」と祈られたイエス・キリストの御心に応えていきたいという願いの下、超教派(inter-denominational)という考え方が近年、盛んになってきています。

 

ウィキペディアの説明をみますと、超教派という考え方にも多様性があり、いわゆるリベラル派主導の「エキュメニカル運動」という文脈の中で「超教派」と呼ぶ場合、まず世界教会協議会(WCC)が意識され、それにはキリスト教界だけでなく、他宗教との対話も含まれています。他方、福音派の文脈における「超教派」というのは、聖書信仰と福音主義に同意するプロテスタントのクリスチャンに限定されるそうです。*1 

 

また最近では、特定の教派名をあえて掲げない「無教派」(non-denominational)というあり方も増えてきているようです。*2

本稿では、後者の意味、つまり、リベラル派ではなく福音派(+聖霊派)の文脈における「超教派」というあり方について考えていけたらと思います。

 

「超教派」という思想

 

現代の宣教の現場において、私たち福音主義者は世界のどこにいても、この「超教派」というあり方の可能性や実践に直面するのではないかと思います。一方において福音主義世界は何千何万という教団教派に分裂し、それぞれが別々の看板を掲げています。

 

しかし他方において、グローバルな諸課題や世界宣教という共通目標に対し、私たちはできることなら(各自の教理的確信は保持しつつも)、他の教団教派の兄弟姉妹たちと力を合わせ、共に祈り、共に賛美しつつ、協力し合っていきたいと願っています。おそらくですが、〈超教派〉という思想は現代世界のこういった現実や人々の切実なる一致への願いから生まれてきたのではないかと思います。

 

バラバラなものを結束させるには、一つの中心的軸がなければなりません。プロテスタンティズムにおいては「聖書のみ」というスローガンが本来の一致の中心軸となるべきものだったと思います。しかしアリスター・マクグラスが表現しているように、「聖書のみ」という教義は、人々を一つに一致させるどころかむしろキリスト教の「危険思想」と化し、ここから際限なき分裂と不一致、そして教理的カオスが生み出されていくようになりました。

 

それではどうすればいいのだろう?この模索の中で「超教派」という思想が一つの代替的中心軸として提唱されていくようになったのだろうと推測します。「超教派」という思想の周りに人々を結集させるためには、まず、教義におけるessential(必須事項)とnon-essential(非必須的事項)を選り分け、そうした上で、前者を「超教派」の基本教義(基本同意事項)にする必要があります。つまり、教義におけるミニマリスト的アプローチを採るということです。

 

しかしながらここで早速問題が発生します。「教義におけるessential(必須事項)とnon-essential(非必須的事項)の選り分け」といいますが、何が必須で、何が非必須なのかの基準はどこにあるのでしょうか。そして誰がその線引きをするのでしょうか。

 

ある人々は(神の主権と人間の自由意志に関する)特定の主義に則った救済論のモデルを福音主義の必須事項と考えています。また別の一群の人々は、ある特定の終末論およびそれを引き出す特定の聖書解釈を真の福音理解の必須事項と考えています。また別の人々は、特定の聖霊の賜物顕現を救済論と限りなく直結させ、それを必須事項と考えています。

 

そのため、私の観察する限りにおいて、「超教派」という思想・実践を巡り、次のような現象が発生してきます。

 

どの教団・教派内にも、自派の信仰告白および教義に忠実な人々が存在します。これらの人々は、自分たちのグループの信じていること(=教理)に真剣であり、それが聖書的な教えであると確信しています。

 

ところが最近、彼/彼女の教会の牧師が、「超教派」的集いに関わり始めました。その関連団体の一覧表をみますと、彼/彼女の教会の信仰告白と相反するような事を教えたり普及したりしている諸教会の名も記載されています。

 

「これは妥協ではないだろうか?」と彼/彼女の良心は疼きます。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」(1コリ15:33)と聖書にも書いてあるではありませんか。ヒルソング・コンサートを開催するような教団と交わり始めることにより、自分の教会のユースたちは、後の雨の運動や繁栄の神学といった誤った教えに引き込まれてしまうのではないでしょうか。

 

その事を牧師に相談に行くと、「確かにいろんな考え方がありますが、自分たちの殻の中に閉じこもっているばかりでも良くない。ですから多様性の中で聖霊に寄り頼みつつ一つ一つ識別し、そうして自分なりの信仰を確立していく、これが大切なのではないでしょうか。」とおっしゃいます。

 

まっとうな事を言っているようにも聞こえますが、しかしいまいち腑に落ちません。

 

〈本来、牧者というのは群れの羊たちを偽教理や惑わしから守り、善と悪、正と誤の識別を教えるのが務めではないだろうか。自分たちの信仰告白と相反することを真理だと(誤って)考えている諸教団と一同に会し、彼らと共に「アーメン」と言うことを自らに許すのなら、なぜうちの牧師は、ホームページの信仰告白の欄を訂正・削除しないのだろうか。信じても信じなくてもどっちでもいいような信仰事項なら、そうだと実直に記述するか、もしくは削除するのが筋ではないだろうか。牧師は果して自らの信じていることにどの位真剣なのだろう。彼はそのために命を捨てる覚悟があるほどに本気で信じているのだろうか。もしそうだとしたら彼の言動はあまりにも八方美人、あまりにも矛盾しているのではないだろうか?〉

 

それにそもそも、「超教派」という思想の具体的内実がはっきりしていません。他の人に訊ねてもバラバラな答えしか返ってきません。何を軸に集まっているのかは実はよく分からない。でもとにかく「超教派」という思想の周りに集まろう、という点で皆が一致しているようなのです。こうして彼/彼女は、何やら得体の知れないこの「超教派」思想が、一種の〈ダミー教皇〉であることに気づくようになります。

 

〈ダミー教皇制〉を受け入れるか否か

 

この〈ダミー教皇〉は、一見、これまでの分裂や混沌に何らかの希望的解決を与えているかのように見えます。しかしダミー教皇が皆に知ってほしくないことーーそれは、彼自身がそもそも誰によって(何によって)権威を授与され、統治における正統性を得ているのかという謎です。この点に問いを差し挟むことはご法度です。

 

ある人々は言います。「彼が合法的教皇なのか、非合法的教皇かなのかという御質問ですが・・・そういう末梢的な問題にこだわるよりも、私たちの間で働いておられる御霊の働きを見ることが大切じゃないかなって思います。大事なのはそこに主のいのちが有るか無いかってことだと思うんです。そして私たちクリスチャンが教派の違いを超えて互いに愛し合い協力し合うってことーー、これが大切なんじゃないかなって。」

 

しかしながら、各教団教派内にいる硬派(=忠実派)の人々は、そういったセンティメントには容易に動かされず、ーー他の人々にファンダメンタリスト呼ばわりされようがなんだろうがーー、相も変わらず不審な目で〈ダミー教皇〉を見続け、超教派の輪に入ってこようとしません。彼らは自らの教団教派の信仰告白に忠実であるがゆえに(それを誠心誠意、本気で信じているがゆえに)、自分のいる位置から梃子でも動こうとはしないのです。

 

こうしてダミー教皇制の下に一つの悲劇が生じてきます。ーーそれは、ダミー教皇の周りに結集することのできない各教派の忠実派マイノリティーが、教理の純潔性を守るため、各ゲットーに半ば閉じ込められる形となり、孤独にして不毛な戦いを強いられる状態が生じてくるということです。

 

そして彼/彼女は、ダミー教皇の教導権に伏した上でもう少し ‟オープン” になるか、それとも、これまでのようにプロテスタント・アナーキー世界の暫定自治区における忠実なる民兵として孤独に耐えつつ生きていくか、という二択を迫られます。

 

公同主義的側面

 

教派を「超える」という意味における超教派思想の背後にはまた、教派主義(denominationalism)の非を是正していこうという公同主義的側面もあると思います。

 

ピーター・ライトハート氏の提唱する宗教改革的公同主義(reformational catholicity) *3、19世紀のドイツ改革派内に生じたマーサーズバーグ神学(フィリップ・シャフ、ジョン・ネヴィン)*4、リージェント・カレッジのハンス・ボースマ、カルヴァン大学のジェームス・K・A・スミス等の提唱するサクラメント性回復を包含した公同主義的改革派神学構築の試み*5などにある種の「超」教派的性格が見い出されると思います。

 

また、19世紀ー20世紀にかけブラザレン系列の公同主義的教会論構築の試みが、オースティン・スパークス、ウォッチマン・ニー、そしてウィットネス・リー等によって独自展開され、広範囲な影響を及ぼしたのではないかと思います。しかしながらマルティン・ロイドジョーンズ、プール・コンナー、トム・リー等によるオースティン・スパークス批評によっても指摘されているように、12使徒の啓示を凌駕するかの次元における「個人啓示」の強調、BOBO理論を基にした「回復」教理および、それらから導き出される可視的顕現としてのlocal assembliesという教会論から、結果として、(彼らの教えを受容する一般信者たちの心の中に)分離主義/高踏的種が蒔かれ、そこから独特の優越主義が生み出される傾向が強いがゆえに、各地で深刻な問題を引き起こしているというのは傾聴に値すると思います。*6

 

別れではなく再会

 

教派主義から生じる諸問題を解決しようと真摯に努力する聖徒たちーー。私にとっての霊的宝は、まさしくこういった人々との出会い及びこれらの人々から学んだ生ける教訓でした。

 

そして何より、摂理的御計らいの下、私は、さまざまな教団教派の中でも最も「硬派」(=忠実派)と呼ばれる人々と個人的交わり/質疑応答する機会を与えられてきたことに殊更感謝しています。

 

なぜなら、現行のプロテスタンティズムという枠組みの中では今も、今後も互いに一致する見込みが到底考えられない、こういった兄弟姉妹たちの稀有なる存在を各地で知れば知るほど、そして彼らに対する同胞愛が増し加われば増し加わるほど、「主よ、どこで、どのようにしたら彼らと再会できるのでしょう。一致できるのでしょう。」と私の内でますます探求の思いが深まっていったからです。

 

また、プロテスタンティズム内での超教派、無教派のさまざまな運動、そしてその運動を支える神学や思想に触れ、それに関わる人々に多くの質問をし、その中でたくさんの有益なご教示、洞察をいただきました。

 

そうする中で次第に私は、どのドアを開け入っても、そこにはある種の行き詰まりがあることに気づくようになりました。また「聖書のみ」の教理研究から、究極的権威の所在や正統性の源泉、それに付随した使徒継承(apostolic succession)の有効性に関しても真剣な考察をするようになりました。

 

そして驚いたことに、(〈ローマ〉や〈コンスタンティノープル〉等)新教の外側において、かつて各教団教派の忠実派マイノリティーとしてバラバラに蟄居していた人々が待望の再会を果たし、互いに一致している姿を目撃するようになりました。

 

別れのための出立ではなく、再会のための出立ーー。超教派的努力、そして超教派という思想の内在的問題性そのものが、主の御計画の中で、私を、そして愛する兄弟姉妹一人一人を最善の場所に導いてくださることを祈ります。

 

ー終わりー

*1:参照。福音主義のローザンヌ誓約は、あらゆる類のシンクレティズム(混交宗教)や異教との対話をキリストと福音に対する冒涜として退けているそうです。参:ジョン・ストット著『ローザンヌ誓約-解説と注釈』いのちのことば社

*2:

*3:

*4:

*5:

*6:ただ私が個人的に思うのは、オースティン・スパークス系譜の教えを吸収した信者たちが優越主義的態度を取るようになるというよりはむしろ、使徒継承(apostolic succession)を持たないプロテスタンティズムの枠組みの中で彼らのような種類の公同的教会論が繰り広げられる(or その教えを吸収する)と、ーーその人自身の心の姿勢の高低に拘らずーーどうしてもある種の ‟教皇的高台” に登らざるを得なくなるという悲劇的パラドックスゆえではないかと思います。