巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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私たちプロテスタントの歴史観には欠陥があるのだろうか?ーー宣教学者ラルフ・D・ウィンター氏のBOBO理論に関する考察

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歴史の見方をどうするか。(出典

 

フラー神学校の教授であり著名な宣教学者であった故ラルフ・D・ウィンター氏(1924-2009、長老派)は、多くの福音主義クリスチャンが、「使徒時代直後に〔真理の光が〕またたく間に消え(“Blinked-Out”)、その後、プロテスタント宗教改革者たちの登場と共に再び点灯(“Blinked-On”)した」という典型的キリスト教史観を持っている(=BOBO理論)として、次のように述べています。

 

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Ralph D. Winter氏(フラー神学校)

 

「BOBO理論というのはつまり、キリスト教信仰の光はどうしたものか使徒たちの後、すぐさま消滅し(“Blinked Out”)、その後、自分たちの時代もしくはーールターであれ、カルヴァンであれ、ウェスレーであれ、ジョセフ・スミスであれ、エレン・ホワイトであれ、ジョン・ウィンバーであれーーとにかく自分たちの時代の現代‟預言者たち”が現れる際にはいつでも再び点灯(“Blinked On”)するという歴史観のことを指します。

 

 そしてこういった種類のBOBOアプローチから生み出されるのは、『‟初期”の聖徒たちと‟後の日”の聖徒たちは存在しても、その中間には聖徒が存在しない』という史観です。」(出典

 

東方正教会のR・アラカキ氏は、BOBO理論が、プロテスタンティズムの自己理解にとって非常に重要なものになっていると分析した上で次のように述べています。

 

「BOBO理論は、プロテスタンティズムの自己理解にとって肝要な要素です。プロテスタントは、不幸なる『教会の堕落』の後、宗教改革が起り、それによって教会はーー元々の神の御意図であったところのーー初代教会のあり方に回帰した、と信じています。こういった自己認識および正当化がない限り、宗教改革は分派主義的逸脱になってしまいますから。

 

 またこれとはやや違ったバージョンもあって、この見方によると、キリスト教会史を通し、真正なる信仰を保持していた『残された者たちの教会(“Remnant Church”)』が少数ながらもずっと継続していたとされています。歴史的証拠の欠如だけに限らず、この種の見解が抱える問題は、こういった “Remnantたち” が、歴史的に認証された教会ーーそれが正教会であれローマ・カトリックであれーーから独立したところで存在していたということです。」(出典

 

私はアラカキ氏の見解の最後の部分には反論があります。(特に、中世のカトリック教会や正教会等が国家権力の剣や拷問台や異端訊問や火刑台を盾に『正統教理』を保持し、政治的・宗教的圧力/暴力によって教会の教理的‟一致”を計っていた事実を鑑みる時、私はいわゆる‟歴史的に認証された教会”の枠の外に「残された者たちの教会」が存在していただろうことをどうしても否定することができないのです。)

 

しかしながら、確かにBOBO理論的アプローチは、プロテスタンティズム(or 新教の中から生まれた異端)の中で次々に生起してくる新しい運動や分派の自己存在正当化の共通項になっているのは否めない気がします。(例:後の雨の運動、ヘブル的ルーツ運動、ダビデの幕屋の回復運動、エホバの証人、ジョン・ネルソン・ダービーの教会観など)。

 

そして「宗教改革自体が正統的な運動ではない」というアラカキ氏のような視点に立つなら当然、エホバの証人やダビデの幕屋の回復運動等だけでなく、ルターやカルヴァン自身の改革観も、BOBO理論アプローチに裏付けされた欠陥ある非正統的歴史観ということになるのでしょう。

 

現時点で私は、プロテスタンティズムの歴史観になんらかの欠陥あるいは抜けがあるのかもしれないという可能性を認める方向には向いていると思います。しかしながら、そうだからといって、この世のどこかに「唯一正しいキリスト教歴史観」なるものが存在するという考えは、アラカキ氏には申し訳ないですが、私には受け入れがたいものがあります。

 

そしてそれを受け入れがたいものだと、‟正統”教会の公同的歴史観を拒む態度それ自体が、プロテスタンティズムの悪弊であり個人主義的宗教エゴおよび傲慢の顕れであると言われればそれまでですが、良くも悪くも、自分がプロテスタンティズムの落とし子としてのDNAを持っているという運命から私は生涯逃れることができない気がします。(これは、自分が内に身を置こうが外に身を置こうが外的ポジションには関係なく内在的につきまとう種類のものです。)

 

とは言え、プロテスタントが往々にして、「初代教会⇒教会の堕落⇒改革/回復運動」というBOBO的ストーリーラインを自明のものとみなし過ぎる余り、使徒時代から16世紀までの1500年間の神の御働きを一面的/皮相的/限定的に捉える史観傾向(弱点)があるという外部からの批判は傾聴に値すると思います。

 

そして、近年のエヴァンジェリカル界における教父研究及び史学の進展は、こういった従来の弱点を補強するものとして今後ますます有用性を増していくのではないかと期待しています。

 

ー終わりー

 

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