巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

Deleteすることのできる人生の空間と主の恵み

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出典

 

友人の姉妹に宛ててコメントを書いた後しばらくして、そこに書いた内容ははたして妥当だったのだろうかと自分の見解に懐疑心が生じてきました。そのトピックに関する別の方々の論考を読む中で、自分の主張はもしや一面的すぎたかも、独断的だったかもと不安になってきたのです。

 

それでそこのサイトに戻り、画面を探してみたら、なんとdeleteボタンがあるではありませんか!「おお、自分の書いた文章を削除できるんだ。うれしい。」そう思いながらありがたくdeleteボタンを押しました。そして友人になぜ先ほどのコメントをdeleteすることにしたのか理由を説明しました。

 

思えば、deleteというこの機能は当り前のようであって実はとても恵み深いものではないかと気づかされました。小学校に入る時、私たちは鉛筆と共に白い消しゴムも買ってもらいました。ーー間違ったら消すことのできる小さなアイテムを。

 

Deleteという機能を神様が許してくださっていることがとてもありがたいです。この機能は私に(自分を含めた)被造物の不完全さと神の恵みを同時に思い起こさせてくれるものです。

 

神様はけっして誤ることのない方(詩18:30)であり、従って過去のなにかをdeleteする必要はありません。他方、被造物としての人間は、罪や不完全さゆえにいとも簡単に誤ります。17世紀の信仰者はそのことを次のように告白しています。

 

「、、私の性質の中にひそむ恐ろしい罪は目の前にあります、、、私は、こういった罪のことを思わずにはいられず、自分の考えること為すことすべてに罪がつきまとって離れないように感じるほどです。」

 

考えること為すことすべてに罪がつきまとって離れないように感じる。。でもそうだからこそ尚さら、神様の許してくださっているdeleteという機能は、私たちにとって恵みになるのではないかと思います。そしてこの恵みと憐れみの空間の中で、私は振り返って再考し、必要とあれば修正・撤回する機会を与えられています。

 

また、この空間の中で私は、自分の主義/主張/見解/立場に堅実であると同時にまた、それらをいざとなればdeletable(削除可能)な状態にしておきたいと願っています。しかしああ、人間とは弱いもので、気づかぬうちに、自分の‟聖書的な立場”という細木に、自我やプライドといった毒性のつる草がからみつき、守るべきものが「聖書の真理」から「これが聖書の真理だと信じている自分のスタンス」に変わっていってしまうのです。

 

「全てを変える恵みの雨をもって 

どうか再び私にのぞんでください。」

 

なにも持たず、なにも持てないおさな子として、主の前に、そして隣人の前に生きたいです。そして公同の交わりの中で、変化やチャレンジを受けることを人生の事実として受け入れる、そのような心が日に日に育っていくことを望んでいます。