巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書神学運動の興亡(by バルナバ・アスプレイ、ケンブリッジ大 解釈学)【悩めるグランパたちへの応援記事】

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ふ~、変化が著しいなぁ。。

 

目次


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 Barnabas Aspray

執筆者 Barnabas Aspray、ケンブリッジ大(神学、解釈学、形而上学)ポール・リクール研究。Barnabas Aspray — Faculty of Divinity

 

はじめに

 

「現代解釈学者は私たちと同じです。彼らは歴史の端で立ち働き、考えています。その意味において、彼らに一つ批判されるべき点があるとしたら、それは、釈義が、歴史なくして不動のままそこに在るという、彼らのナイーブな主張にあるでしょう。そして彼らは自分たちの釈義があたかも、ーー読解における伝統という媒介なしにーー、テキストの元来の意味と合致し、(彼らの想定するところの)「作者の意図」と一致することが可能であるとでもいうかのような態度をとっています。」ポール・リクール*1

 

彼らの目標は崇高なものでした。ーー①教会によって押し付けられた教義という足枷を振り払い、聖書をそれ自身の言葉で新鮮に読む。②純粋にして混ざり物のない聖書釈義という土台の上に立ち、真に「聖書的に」神学をする。

 

しかし、こういった試みの背景の中にいかなる非聖書的な諸前提がーー気付かれないままーー潜在していたのでしょうか。

 

1.その誕生と目標

 

1940年代、聖書神学運動は急速に成長しました。そしてその主唱者たちは以下に挙げる特徴点を持っていました。

 

存在論(ontology;物事のあり方に関する綜合)よりもより重要なものとして、歴史(起こった事に関する個別)に焦点を置いていました。

 

「ギリシャ的思考」と「ヘブライ的思考」との間に区別を置いていました。(ギリシャ=悪い。汚染された影響。VS ヘブル=良い。オリジナル。真に聖書的。)

 

神学のための唯一の土台として「聖書それ自身の自己理解」を主張していました。彼らは聖書理解の助けとして、ーー教会からのものであれ、現代世界のものからであれーー外的な哲学的ないしは神学的範疇を使用することを拒絶しました

 

彼らは、18-19世紀にドイツで発展した高等批評(historical criticism)の世俗的ツールを釈義に適用していました。

 

聖書の大部分は歴史的ナラティブであることを指摘しつつ、これらの神学者たちは、聖書のストーリーに暗示されている神学に関する新鮮にして刺激的な発見をしました。

 

彼らはまた「神は誰か/神とは何か」に関する抽象的諸推論を避け、その代りに、「歴史における力強い諸行為」を通し啓示された神にフォーカスを置きました。「神が組織的な神学書を持つことを私たちに望んでおられたのなら、神は私たちに一冊それを賜わってくださっていたはずではないでしょうか。しかし神はそうなさらず、私たちに歴史書を賜わったのです。」

 

2.いくつかの諸問題

 

「歴史と神学の間には、醜悪にしてだだっ広い溝がある。」--ゴットホールド・レッシング

 

聖書神学運動の神学者たちが発見したことの中には多くの豊かな内容が含まれており、私たちは、聖書の、ナラティブにして歴史的なる性質に関する彼らの洞察から大いに恩恵を受けています。

 

しかし時の経過と共に、彼らは増し加わる諸問題にぶち当たるようになりました。しかも、自分たちの研究から導き出された諸結論に関し、互いに合意できている神学者たちはこの陣営の中にただの二人さえも見い出すことができませんでした。

 

1960年代になると、彼らのプロジェクトはついにバラバラになり、外部からの強靭なる諸批判に対する答えを持たないまま崩壊していきました。

 

問題点その1

 

まず第一に、「歴史は存在論よりも、より根本的なものである」と主張するのは自己矛盾しています。なぜならこの主張はそれ自体が一つの存在論的言明だからです。

 

そしてここから分かるのが、人は、自分がそれを用いていることを意識しているか否かに拘らず、存在論を用いるという行為を避け得ないということです。

 

それと同様、教会によって課された教義的範疇を拒絶する一方、彼らは、聖書がそれ自体において一つの教義的範疇であることを認識することに失敗しています。そうでなければ、なぜ私たちは、その他どんな歴史資料に勝り、聖書が言っていることに注意を払おうとするのでしょうか?私たちが聖書に注意を払うのは、教会を信頼するという行為を通してのみ可能になります。*2

 

問題点その2

 

二番目に、解釈における‟外的”な哲学的/神学的方法論を拒絶しておきながら、他方においては(歴史とは何か、そして人間がいかにその中に参入しているかという事に関するあらゆる諸前提を含めた)世俗の高等批評を用いて聖書を解釈するというのは矛盾しています。

 

問題点その3

 

三番目に、あなたや私が実際に1世紀のヘブル人でない限り、1世紀のヘブル人のように思考することは不可能です。私たちは、自分自身の文化的背景幕から‟理解”のプロセスを始めざるを得ません。

 

ジェームズ・バーが指摘しているように、「聖書の‟外側”から取った諸概念や諸範疇を用いることは自然なことであり、また必要なことです。」--その最も基本的な例として、新約聖書のギリシャ語の理解介助となるべく、現代の文法書や辞典を使用することなどが挙げられます。*3

 

そして、、最大の問題点は。。

 

おそらく聖書神学運動の神学者たちに対する最も強固な批判は、彼らがとにかく不可能なことをしようとしているーー、この点にあります。つまり、彼らは、①テキストが何かという点(what a text is)、②いかにして認識がなされるのか(how knowledge works)というこの両方の点における欠陥ある理解を基盤にして、どだい不可能ななにかを為そうと試みていたのです。

 

認識というのは決して抽象の中には在りません。認識は常に認識主体a knowing subject)に属しています。(認識主体⇒その人の個人的生活経験をベースに、ある特定の方法で‟認識”している/知っている人のこと。)

 

この点に関し、バーナード・ローネルガンは次のように言っています。

 

『空っぽの頭の原則 'principle of the empty head’』は、解釈者が自分自身の諸見解を忘れるよう命じ、彼岸にあるもの(what is out there)を見るよう命じ、作者に自分自身で解釈させるよう、あなたに命じます。でも実際のところ、彼岸には一体なにがあるのでしょうか?そうです、向こうには各種記号が並んでいるだけです。同一の秩序の中における同一の諸記号の再発行を超えるものは何であれ、それらは解釈者の経験、知性、判断によって媒介されていきます。」*4

 

テキストが一つの粗野な人工物(brute artefact)以上のものとして取り扱われるためには、それが、一人の人から別の人へと知識が伝達されていく行為として理解される必要があり、また、二つの人生経験の間に存在する裂け目に橋を架けていく行為として理解される必要があります。そしてこれが意味するのはつまり、作者と同じく、読者もまたテキストの‟意味”における貢献をしているということです。意味は一方通行の街道ではありません*5

 

3.結論ーーここからさらに前進していく

 

「ある人々は、明確なる啓示を持つことと、その啓示に関する明確なる理解を持つことーーこの二つを誤って同一視してしまっているように思います。」*6

 

聖書はーーあたかも読者である私たちがなんら視点を持たず、単にニュートラルな視点で読んでいるとでもいうかのようにーー「それ自身の言葉において」は決して読むことのできないものです。

 

「諸事実」と「諸事実に関する自分の視点」を混同するさまは、譬えていうなら、小さな子どもが部屋の真ん中で目をつぶり、それで自分はちゃんと隠れることができていると考えているような状態でしょう。「ボクが目を閉じたら、だれもボクのこと見えないでしょ?」

 

世界を見るに当たり、自分自身の特定の視点から逃れることのできる人は誰もいません。そしてこれにはテキストの読みや理解も含まれます。しかしこれは悪いことではありません。なぜなら、これは被造されたものとしての私たち人間の性質の一部であり、神が御意図になっておられるあり方だからです。

 

聖書神学には、聖書を理解する上で私たちを助ける多くの透徹した洞察があります。しかしそれ自体だけでは十分ではなく、それは教会の神学的諸範疇という指針的枠組みなしには崩壊してしまいます。

 

キリストの奴隷であることが即ち真に自由であることだと言った使徒パウロと同様、いわゆる「教会教義という足枷」が、神に関する私たちの理解を真に開花させる唯一の道であるように思われます。

 

ー終わりー

 

文献案内

Barr, James. The Concept of Biblical Theology: An Old Testament Perspective. Minneapolis: Fortress Press, 1999.

Brueggemann, Walter. Theology of the Old Testament: Testimony, Dispute, Advocacy. Minneapolis: Fortress Press, 1997.

Childs, Brevard S. Introduction to the Old Testament as Scripture. 1st American ed. Philadelphia: Fortress Press, 1979.

Ebeling, Gerhard. “The Meaning of ‘Biblical Theology.’” The Journal of Theological Studies VI, no. 2 (1955): 210–25.

Gnuse, R. K. Heilsgeschichte as a Model for Biblical Theology: The Debate Concerning the Uniqueness and Significance of Israel’s Worldview. Lanham, Md: University Press of America, 1989.

Ollenburger, Ben C. The Flowering of Old Testament Theology: A Reader in Twentieth-Century Old Testament Theology, 1930-1990. Winona Lake, Ind: Eisenbrauns, 1991. 

*1:André LaCocque and Paul Ricoeur, Thinking Biblically: Exegetical and Hermeneutical Studies (Chicago ;London: University of Chicago Press, 1998), 332.

*2:「ギリシャ的思考」と「ヘブライ的思考」の間の過度に単純化された区別はまた、根拠無き存在論的カテゴリー化として批判の対象になっています。詳しくはこの記事をご参照ください。

訳注)関連記事

*3:Anthony C. Thiselton, The Two Horizons: New Testament Hermeneutics and Philosophical Description with Special Reference to Heidegger, Bultmann, Gadamer, and Wittgenstein, 1st American ed (Grand Rapids, Mich: Eerdmans, 1980), 9.から引用。

*4:Bernard Lonergan, Method in Theology (Toronto: University of Toronto Press, 1972), 157.

*5:この記事も参照のこと。

*6:Kevin J. Vanhoozer, “A Response to William J. Webb,” in Four Views on Moving Beyond the Bible to Theology, ed. Gary T. Meadors, 1 edition (Zondervan, 2009), 263.