巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教団内で「女性司祭/女性牧師を認める」という最初の第一歩が、将来的リベラル街道への入り口なのでしょうか?

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急速な対等主義化を遂げる米国聖公会が、リベラル教団である米合同メソジスト教会(UMC)と「フル・コミュニオン」に向け協議を重ねており、両派の総会で承認が得られれば、2021年頃までに互いの洗礼や聖餐、教役者を認め合う関係が実現するという記事を読みました。

 

この記事を読んだ時、私は2006年に出版されたウェイン・グルーデム師の Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism?の中で予見的に指摘されている「対等主義化」と「リベラル傾斜」の間のパラレル関係および相関性のことを思わずにはいられませんでした。

 

グルーデム師は、この本の中で、社会学者マーク・チャヴェス氏の統計調査(1997年)について言及しておられます。それによると、チャヴェス氏は、米国のさまざまな教団・教派における女性牧師是認へ至る変遷について社会学的調査・研究をし、ハーバード大学出版社から以下の著書を出版しました。

 

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Mark Chaves, Ordaining Women, Cambridge, Mass: Harvard University Press, 1997

 

この統計調査結果をみますと、「ある教団の指導層が、リベラル神学の影響下に置かれ始めること」と、「女性牧師是認への教団の移行」には否定しようのない相関関係があることが見て取れます。

 

実例① 

1)Methodist Church 
(メソディスト・チャーチ、現:United Methodist Church) 
女性牧師を是認した年:1956年

2)Presbyterian Church 
(長老派教会)
北部ー1956年、南部ー1964年 

3)American Lutheran Church 
(米国ルーテル教会)、1970年

4)Lutheran Church in America 
(ルーテル派の別の教団)、1970年 

5)Episcopal Church 
(米国聖公会)、1976年


上に挙げた五つは、現在、完全にリベラル化した教団とみなされています。また次に挙げるのは、「実例1ほどには完全にリベラル化してはいないけれど、急速にリベラル化しつつある教団」の実例です。

 

実例②


1)Mennonite Church 
(メノナイト・チャーチ)
女性牧師是認の年:1973年 

2)Evangelical Covenant Church 
(福音カベナント教会)、1976年

3)Reformed Church in America 
(米国改革派教会)、1979年

 

そしてこれらの統計結果から、以下に挙げる「福音主義フェミニズムの漸進的7段階」が証左されています。(*ただし、米国南部バプテスト連盟(SBC)のような例外ケースもあります。*1.)

 

(以下、Is Evangelical Feminism the New Path to Liberalism?より)

 

段階1) 聖書が誤りのない神の言葉であることを否定する。

段階2) 女性を牧師として是認する。 

段階3) 結婚における男性のリーダーシップ(headship)に関する聖書の教えを破棄する。

段階4) 女性の牧師叙任に反対の声を挙げる牧会者たちを教団から締め出す。

段階5) 「あるケースにおいては、同性愛行為は、倫理的に妥当なものである」とする。

段階6) 同性愛者を牧師として是認する。

段階7) 同性愛の牧会者を、教団内のトップ(high leadership)に任命する。

 

ただし段階1)は必ずしも当てはまらないのではないかと思います。例えば、「女性牧師の是非について、なぜ私の見解に変化が生じたのか?」の中で、南部バプテスト神学校学長のアルバート・モーラー師は、自分がかつて女性教職賛成だった時代にも「聖書の無謬を堅く信じていました。」と証言しています。

 

また、アッセンブリー・オブ・ゴッド教団理事のジョージ・ウッド師のように「新約聖書の聖句間における優先順位・ヒエラルキー構造」という独特の解釈法で女性牧師制度を正当化しているケースもあります *2。(アッセンブリー・オブ・ゴッド教団内のHPには「聖書は誤りなき神の言葉であり、神を信じた者は聖書を基盤として生きること」を大切にしていると明記してあります。参照)たとえば、古代異端のモンタヌス聖霊運動も女性教職を認めていましたが、モンタヌス派が「聖書が誤りなき神の言葉であることを信じていなかった」ことを示す史実は今のところおそらくないのではないかと思います。

 

ただし、上記に挙げた8つの教団はいずれも徐々に、そして確実に「漸進的7段階」のステップを踏みつつ、フルに対等主義化し、それと並行する形で、他の主要諸教理の面でもリベラル化していきましたので、やはり、「女性教職を認める」という最初の第一歩と、その後の教団の「リベラル傾斜」には何らかの深い関係があるということだけは確実に言えるのではないかと思います。

 

ー終わりー

 

*1:女性牧師問題に関する米国南部バプテスト連盟の事例
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この教団は1964年に、地域教会における女性牧師を認めました。その当時、SBCの指導層は、"moderates"といわれる、聖書無謬を認めない人々で構成されていました。しかし1984年、SBC内において、保守信仰のクリスチャンたちが再び指導部につくようになったのです。いわゆる「保守層によるレコンキスタ」です。そして「私たちは――牧会職および教会リーダーシップを除く――教会生活すべての側面において、女性の方々の奉仕を奨励します。」という決定事項を出しました。つまり、「女性牧師は認めない」という旨の公的宣言です。(2000年には、さらにそれを明確にする条項を公にしました。*Article VI of The Baptist Faith and Messageを参照ください。)*しかし他の資料を読むと、SBCのこの公式宣言に同意していない州連盟もあり、州によっては女性による牧会や教職を認めている集まりも存在するようです。参照:here

*2:GEORGE O. WOOD, Exploring Why We Think The Way We Do About Women In Ministry ウッド氏の解釈(*これが教団の公式見解なのか、それとも委員であるウッド氏の個人見解であるのかは分かりません)によれば、女性牧師叙任が正当化される鍵となる聖句は、 
1)ヨエル2章の成就としての使徒2章 
2)ガラテヤ3:28 
の二つであり、1テモテ2章、1コリント14章などの他の聖句は、ヨエル2章と使徒2章の光に照らして解釈されなければならない、ということでした。 
そこから分かったのが、ウッド氏の見解の中では、ヨエル2章・使徒2章が、1テモテ2章・1コリント14章をgovern(統治)するという、「新約聖書の聖句間における優先順位・ヒエラルキー構造」があるということでした。

 
ヨエル2章・使徒2章  1テモテ2章・1コリント14章 


しかしここで生じる私の疑問は、そのヒエラルキーや優先順位を決める判断の尺度はどこに(誰に)あるのか、ということです。 聖句Aを聖句Bの上に優先させ、聖句Bの意味を変形・無効にすることが正当化されるには、やはりそこになんらかの権威がなければならないと思います。そして私の知る限り、聖書の神はそのような権威を、被造物には与えていないと思います。 
また、もう一つの鍵とされる、ガラテヤ3:28についてですが、これは、ご存知のように、福音主義フェミニズムを支える「マグナ・カルタ」としての役割を担っている重要聖句です。ガラテヤ3:28についてのフェミニスト解釈については次の記事の中で触れました。 

(*しかし、ウッド氏ご自身は、ガラテヤ3:28を、こういったフェミニストの視点で解釈している訳ではありませんでした。) 
ウッド氏の論調からいっても、そこに「フェミニズムに対する同調」といったものはないように思われました。1906年にロサンゼルスのアズサ・ストリートでリバイバルが起こり、ペンテコステ派が誕生した際、はじめて選出されたelderの半分が女性だったそうです。 こういった一連の流れを見ると、やはり創成期のアッセンブリー教団のordination of womenは、フェミニズムとは一線を画した動機と聖書解釈があったと思わざるをえません。 しかし、現在の米国アッセンブリー教団のさまざまなサイトを読むと、「女性牧師」を支持する多くの方々の論調には明らかなフェミニズム色が出ています。 入り口こそ違ったものであれ、やはり時代のイデオロギー精神というこの大きな濁流は、こうした細流を次々と飲み込みつつ、あらゆる領域に浸食していっていると思います。