巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

この道の行きつくところーー三人の女性の物語【フェミニズムとキリスト教世界観】

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出典

 

目次

 

はじめに 

 

二年以上前に、私は「決して交わることのない二つの川」というタイトルでいくつか記事を書きました。そしてその中で、1960年代に活躍した三人の女性(メアリー・デイリー、ローズマリー・ルーサー、ヴァージニア・モレンコット)のそれぞれの霊的旅路と、彼女たちの受容したフェミニズム思想が、彼女たちにもたらした帰結について概観致しました。

 

しかし今振り返ってみると、自分自身、いろいろと稚拙な事を書いており、論の運びなども穴だらけで恥ずかしく、結局、それらの過去記事を削除することにしました。ですが、伝記の部分はとりあえず保存するに値するかもしれないと判断し、その部分だけを本稿の中に残すことにしました。どうぞよろしくお願いいたします。

 

メアリー・デイリーの物語(カトリック出身)

 

女性の革命

 

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メアリー・デイリー(Mary Daly, 1928-2010)

 

メアリーは、宗教フェミニズムの先駆者の一人です。非常に頭脳明晰であり、また霊的なことに関心のあったメアリーは、若い頃から「ぜひ神学を学びたい」という夢を持っていました。

 

当時、女性が神学博士号を取得するというのは、前代未聞のことでした。米国では道が閉ざされましたが、彼女はあきらめず、スイスのフリブールに留学し、そこで神学および哲学を学びました。しかし神学界でも彼女は失望を感じ続けました。既成の教会組織の中には男性優位主義が根強くある、と彼女は思いました。

 

1965年にローマで第二回ヴァチカン公会議がひられました。彼女はこの公会議に期待をかけていました。「もしかしたら、この会議を契機に女性に対する教会の態度が変わるのではないか、、」と。しかしそれもまた失望に終わりました。同年、彼女はThe Church and the Second Sex(「教会と第二の性)」という本を出版し、本格的に宗教フェミニストとしての道を歩み始めました。

 

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(*ちなみに、題名の「第二の性」という部分はフランスの無神論的実存主義者シモン・ボーボワールの主著『第二の性』から取られたものです。)

 

教えていたボストンのカトリック系大学では、この本に対し非難の声が集中しました。そういうカトリック側の反応に対し、何千人という学生が「言論の自由を!」と叫びデモ行進しました。このような嵐の中で、メアリーは苦悶を覚え、キリスト教会および聖書の神そのものにもはや希望を感じることができなくなっていきました。その時の心情を彼女は次のように記しています。

 

「、、私の関心は教会の中における男女の「平等」にもはやとどまらなくなった。もうつまらない(教会)改革など、どうでもいいと感じるようになった。そしてその代わりに、私は女性の革命という新しい夢を見るようになっていった。」

 Mary Daly, The Church and the Second Sex, p.14

 

父なる神を「超えて」

 

五年後、メアリーはBeyond God the Father(「父なる神を超えて」)という本を出版しました。この本の中で彼女は自身がユダヤ・キリスト教的な男性神に背を向けたことを明らかにしました。そして「女性たちは、神をBe-ingという動詞、つまり男性的実在ではなく、むしろ力やエネルギーと捉えるべきである」と説きました。こうして彼女はフェミニストの中心課題を次のように定義しました。

 

「人間として存在すること――それは自己に命名し、世界に命名し、そして神に命名することである。」

 Mary Daly, Beyond God the Father

 

彼女のフェミニズム思想は三冊目の著書Gyn/Ecology:The Metaethics of Radical Feminism(「ギネコロジー:ラディカル・フェミニズムのメタ倫理学」)の中でさらに発展を遂げました。

 

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なぜGodという語を使わなくなったかという問いに対し、彼女は「この語から男性的イメージを取り除くことは不可能だと悟ったから」と彼女は記し、次のように言いました。

 

「Godという語が、父権制・家父長制という死体愛を表しているのに対し、Goddess(女神)は、女性や自然における、生命に満ちた存在を肯定している。」 Mary Daly, Gyn/Ecology

 

また主権は神ではなく、あくまで人間にあるということを次のように説きました。

 

「初めにことばがあった(ヨハネ1:1)のではない。初めに、聞くという行為があったのだ。」

「彼女、そうまさしく彼女だけが、どの位、またどんな方法で、旅路をするか(できるか)を決定することができる。彼女、そう彼女だけが、自分自身の行程の奥義を悟ることができ、他の女性たちとのつながりを発見することができるのである。」

Mary Daly, Gyn/Ecology, p. xi, xiii, 424

 

Pure Lust(「清い情欲」)という四冊目の本において、彼女は「情欲という伝統的〈大罪〉」のコンセプトを逆転させることを試みました。

 

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「男性的情欲が、憎しみの強迫観念であるのに対し、『清い情欲』というのは『力強く、生命を肯定する力』であり、それは女性たちを『自然において、そして自己において野生と結び付ける』良いものである。だから、女性たちよ、全ての抑制を取り払いなさい。モラルや霊性や倫理という枷をはずしなさい。そしてユダヤ・キリスト教的父権制というシステムに反旗をひるがえしなさい。それが肉体的快楽(セクシュアリティ・同性愛)であれ、霊的経験(魔術・異教崇拝)であれ、あなたは自由にそこに没入することができます。」

 

とメアリーは女性たちに奨励しました。(Pure Lust, p.1-3)そして次の著作では、(キリストの)受肉を次のように定義するところまでいきました。

 

受肉=最高に理想化された男性の性的幻想。至高のキリスト教ドグマとして普及している。聖母マリアの神秘主義的〈超〉レイプであり、これは全ての事物を表している。つまり、全ての女性及び全ての事象への強姦に対する象徴的合法化である。」

Mary Daly, Webster's First New Intergalatic Wickedary of the English Language, p.78

 

こうしてフェミニスト思想は、メアリー・デイリーという女性を、完全に、そして徹底的に聖書の神に敵対する者として変えていきました。

 

ローズマリー・R・ルーサーの物語(リベラル左派)

 

影の薄い父親

 

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ローズマリー・R・ルーサー(1936-)ルーサー女史は、現在、クレアモント神学大学のフェミニスト神学科で教鞭を取っておられます。


ローズマリーは、幼い頃から「潜在的フェミニストでした。」彼女の父親は第二次世界大戦で出征しており、彼女にとって父親とは存在感のない「影のような人間」だったといいます。

ローズマリーが12歳の時、父親は亡くなり、その後、彼女の家庭は「がんばって生きる母親と娘たちとのコミュニティーになった」と彼女は回想しています。(Rosemary R Ruether, Disputed Questions: On Being a Christian, 1989, p.110)

強く独立心に溢れた母親の友人たち(フェミニスト第一世代)に囲まれ、彼女は成長していきました。叔父を除き、家庭でも学校でも、彼女にとっての模範および権威的存在はすべて女性だったのです。地元のカトリックの学校に通っていた当時の学生時代を回想し、彼女は次のように言っています。

「神聖な存在においてさえも、私にとっては、まず聖母マリアという女性がすぐに印象に浮かぶほどでした。それに比べ、神やキリストは、(男性カトリック祭司のように)どこか離れたところにいるような感じがしました。でもマリア様というのは、祈りたい時に語りかけることのできる存在でした。」(同書 p.112)


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「(子ども時代の女性コミュニティーに)時たま、男性たちが戦地から戻ってきたりすると、女性たちは静かにしおらしくなりました。そしてそういった男性たちに対し、一定のおごそかな敬意が示されました。しかし、日常生活においては、彼ら男性などいなくても、私たちはしっかりやっていくことができていました。」(同書 p.112)


カリフォルニア州のスクリップス大学ではキリスト教終末論および新旧約「中間期」の文学(学士)、古典とローマ史(修士)、古典とキリスト教教父学(博士)を学び、その間、ヘルマン・ルーサーと学生結婚しました。

最初の葛藤

 

アカデミックな世界で研鑽を積んでいく過程で彼女が「女性として」ぶつかった最初の壁は、カトリック教会の「避妊」に対する見解でした。学者としてのキャリアを磨いていきたい彼女に対し、周囲の(カトリックの)人々は「女性の召命は何より子どもを産んで育てること」と言い、それに対し、ローズマリーはストレスと憤りを感じました。その後、彼女は三人の子供を産み育てながら、博士課程を修了し、教会の教理に対する批判書を出版しました。


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The Church Against Itself, 1967


「伝統的な女性の役割っていう枠に押し込められたりはしない!」彼女は固く決意し、猛然とキャリアに家事にそして育児に取り組みました。

メキシコ系アメリカ人女性との出会い

また1963年、娘を出産した時、隣のベッドに寝ていたメキシコ系のカトリック女性との出会いも彼女のその後の方向性に大きな影響を与えました。その女性は九人目の子を出産したばかりだったのですが、ローズマリーに、彼女の家庭の困窮した状況を語ってくれました。病院の医師も、「今後は避妊をするように」とアドバイスをしていましたが、その女性は、「いいえ。祭司様も、主人もそれを許さないのです。」と答えました。

こうしてローズマリーは、カトリック教会のセクシュアリティおよび生殖についての見解に対して猛然と挑むようになりました。そして次第に、こういった見解自体、「女性を単に『子供を産む』だけの運命に押し込める」性差別的イデオロギーおよび文化の一部分である」とみなすようになっていきました。(同書 p.118)

政治的アクティビストへの道

 

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ミシシッピの貧困地帯 source


また1965年の夏、ミシシッピのデルタ地域で、教会の仲間と共に、黒人の公民権をサポートする働きをしたこともローズマリーに大きな影響を与えました。彼女はクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)による黒人差別の実態を目の当たりにし、また、南部の白人教会がいかに黒人を拒絶しているかを目撃しました。

こうして1966年、ワシントン州のハワード大学で教鞭を取り始めたローズマリーは、非差別者のための権利闘争および政治的平和運動に深く関わっていき始めたのです。そして「西洋の植民地主義および帝国主義というグローバル・システム」という悪弊のために戦い、デモ行進に参加するようになりました。また、当時、ラテン・アメリカで盛んになっていた「解放の神学」にも共鳴し、その線に沿った女性の解放を説くようになっていきました。

女神および女性教会(Women-Church)

ここからさらに彼女のフェミニストとしての思想は発展していきました。そして彼女は、女性たちが男性から退き、「女性教会」の中で女神崇拝をするよう奨励するようになりました。*1

 

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Rosemary R Ruether, Women-Church:Theology and Practice of Feminist Liturgical Communities.

ちなみに、この「女性教会」がいかなる組織かということについてですが、メアリー・カスィアン女史がThe Feminist Gospel, The Movement to Unite Feminism with the Church, 1992の17章部分(17. Women-Church, p.195-)を丸ごと一章割いて、この組織について詳説しています。

私も、この「教会」の礼拝および儀式を調べてみましたが、一言でいえば、キリスト教的な秘儀宗教といった感じです。古代エジプトやローマで流行っていたイシス(女神)崇拝も、もしかしたらこんな感じだったのかもしれません。

新入会者のイニシエーションでは、例えば、会衆一同次のように連祷し、「父権制」という悪しき力や権勢を追い払います。

「われわれ人類を腐敗させた力よ。男たちを支配の道具と変貌させ、女性たちを恭順の道具となさしめた力よ、われわれから去れ!」

そして各フレーズごとに鈴が鳴らされます。祓魔(ふつま)式が終わると、新入会者の舌に塩が塗られます。そして一同は外の庭にあるプールに厳かに進み出ます。新入会者はそこで真っ裸になり、プールの中に入ります。そしてそこで三回、身を沈めるのです。(これが「洗礼」の儀式。)

また聖餐式において、ルーサー女史は、「リンゴの祝福」という儀式を加えています。「えっ、なぜリンゴ?」と思われるかもしれませんが、その理由を女史はこう説明しておられます。

「この無垢にして良い果物は、馬鹿げたことに、悪のシンボル、そして悪の源として、女性を非難するものへと変わってしまったからです。」

さらに儀式のマニュアルには次のような説明がなされています。

リンゴの祝福:これは意識高揚のためのリンゴです。偽りの意識を私たちの目から落としましょう。こうして私たちは真偽および善悪を正しく名づけることができるようになるのです。」

ーーーー
キリスト教的社会活動家として出発したローズマリーでしたが、彼女もまた前述のメアリー・デイリーと同様、聖書の神からどんどん離れていきました。現在、彼女は神のことを「ガイア Gaia」と呼んでいます。(ちなみに、ガイアはギリシア神話に登場する女神です。地母神であり大地の象徴。ローマ神話におけるテルスに相当します。)

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Rosemary R Ruether, Gaia and God:An Ecofeminist Theology of Earth Healing(「ガイアと神:大地の癒しというエコ・フェミニスト神学」Harper-Collins (1994)

 

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Rosemary R Ruether, Integrating Ecofeminism Globalization and World Religions(「エコ・フェミニズムと世界宗教を統合して」, Rowman & Littlefield Publishers

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Rosemary R Ruether, Goddesses and the Divine Feminine: A Western Religious History(「女神と神聖なる女性、西洋宗教史」), Berkeley and Los Angeles, 2005, University of California Press

 

ヴァージニア・モレンコットの物語(保守福音派)

 

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ヴァージニア・モレンコット(1932-)

 

モレンコット女史は、前述のメアリーやローズマリーとは違い、福音派の聖書信仰の背景を持った女性です。大学も、保守福音派の大学として有名なボブ・ジョーンズ大学を選び、そこを卒業しています。

 

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聖書的フェミニストとしてのスタート

 

ヴァージニアは、Reformed Journalに論文を載せ、女性牧師就任を含め、教会における全ての働きの戸が女性にも開かれるべきであることを訴えました*2。その後1977年には、Women, Men & the Bibleという著書を記し、人間の平等に関する聖書的教えの重要性を述べました。

 

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ここで注目すべきは、彼女がこの時点ではまだ聖書信仰を保持していた点です。彼女はこう言っています。

 

「聖書的フェミニズムは、主要な聖書の教え――つまり、三位一体の教理、(人間が)神のかたちに似せて造られたという創造の教理、キリストの受肉の教理、そして新生の教理――に堅く根付いていなければならないということです。」Virginia R Mollenkott, Women, Men & the Bible, 1977, p.121.

 

包括語への関心

 

英語科の教授として言語に関心のあったヴァージニアは、1970年代後半頃から、ジェンダー包括語(inclusive-language)に目を向けるようになりました。そしてSpeech, Silence, Actionという著書を記すと、教会内における包括語の使用について積極的にキャンペーンを始めるようになりました。また、この時期、彼女は、NCC(全米教会協議会)の『包括的用語の聖句用語集』を作る委員会に招かれ、そこでも活動するようになりました。

 

「ねじられ、よじられ、痛めつけられる神の御言葉―包括訳聖書とフェミニズム(その2)の中で取り上げたDHC出版の『聖書から差別表現をなくす試行版 新約聖書・詩編(英語・日本語)』のことを覚えていらっしゃいますか。彼女はその聖書の語彙集作成にかかわっていたのです。

 

また1970年から78年までは、NIV(新国際訳)の文体論コンサルタントとして委員を務めました*3。こうして彼女の中で、ジェンダー包括語および神のイメージについての関心はますます深まっていき、1983年には、The Divine Feminine:The Biblical Imagery of God as Female(「神聖なる女性:女性としての聖書的〈神のイメージ〉」)という本を記しました。

 

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そして教会における女性の解放のためには、自分の信仰を包括語で呼びならわすことが必須であると確信するようになっていきました。

 

神は〈彼〉〈彼女〉〈それ〉

 

こうして彼女の思想は次第に発展し、やがて「神もまた、包括語で言及されるべきである」と主張し始めようになりました。

 

「、、こういう理由で、神は――人の認識できるところの――最も真正にして絶対的な〈汝〉であられる。そしてこの、絶対的関係性である〈汝〉は〈彼〉〈彼女〉〈それ〉と言及することができるかもしれない。なぜなら、この〈汝〉は全ての人、そして全ての事象に関係しているからである。」Virginia Mollenkott, The Divine Feminine

 

この文章を読んでもお分かりのように、フェミニズム思想へのコミットメントにより、彼女の神観自体が変化していきました。

 

私が神

 

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1988年、彼女はGodding:Human Responsibility and the Bible (Godding 人間の責任と聖書」)という本を記し、次のように宣言しました。

 

「私は神の顕現。神ご自身(God Herself)!神ご自身(God Himself)!神それ自体(God Itself)!すべてを凌ぐもの。すべてを貫通するもの。そして私たちの内にある全てのもの。」(p.6)

 

興味深いのは、フェミニズム思想が貫徹していく過程で、彼女の中で聖書のその他の諸真理も同時に失われていったことです。彼女は「キリストが神に至る唯一の道である」というキリスト教の主張は放棄されなければならないと説き始めました。(同書 p.46-48)

 

また倫理面においても、ヴァージニアは「包括性」を訴え始めますつまり、クリスチャンは結婚外で性的満足を求める人々を非難すべきではないし、同性愛行為を非難すべきでもないと。(*私の調べた限り、ヴァージニア女史ご自身、現在、domestic parterの女性と一緒にレズビアンとして生活されておられます。)その理由を彼女は次のように言っています。

 

「聖書は一見したところ、同性愛を非難しているようにみえますが、実際には、人口数を必要としている文化の中における、男性精子の喪失を非難しているのであり、もしくは異教的儀式、売春、搾取的情欲、ソドムの話のごとく他の男性を辱めようとする男性の性行為などを非難しているのです。教会にいる異性愛者たちは、人間のセクシュアリティーについて学び直すべきです。そうしてこそ、彼らはゲイやレズビアンの隣人たちを非難する行為をやめるようになるでしょう。」(同書 p.106)

 

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Virginia Mollenkott,Transgender Journeys「トランスジェンダーの旅路」 (2003, Pilgrim Press; reprinted 2010, Wipf & Stock), co-authored with Vanessa Sheridan

 

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Virginia Mollenkott,Sensuous Spirituality: Out from Fundamentalism「審美的な霊性:根本主義から抜け出て」(1992, rev. 2008, Pilgrim Press)

 

こうして、聖書信仰のクリスチャンとして出発したヴァージニア・モレンコットもまた、前述の二人の女性と同じように、聖書に啓示されている神の御言葉を否定するようになっていきました。

 

「人の目にはまっすぐに見える道がある。

その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

 

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〔補足資料1〕女性牧師の是非について、なぜ私の見解に変化が生じたのか?(A・モーラー、南部バプテスト神学校学長)

 

自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載

 

Albert Mohler on Why He Changed His Mind on Women Pastors

 

アルバート・モーラー氏の証し (南部バプテスト神学校学長)

2010年9月28日

 

それは1980年代の半ばのことでした。その時期、私の所属している南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)は、非常な論争と嵐のただ中にありました。そうです、教会の中における女性の役割(女性の牧会職)をめぐっての論争の中核にあったのです。

 

1984年、南部バプテスト連盟は、女性の役割に関し、一つの決議を出しました。それは、とてつもなく緊張に満ちた瞬間でした。この時、私たちの教団ははじめて、年次会議という公の場で、「牧会職は聖書の適性条件を満たす男性だけに限られます」という宣言を出したのです。そしてこれこそ、70年代、80年代、90年代における教団大論争の中でも、もっとも熾烈な論争を引き起こすものとなったのです。

  

多くの人が、その宣言に憤りを覚えました。南部バプテスト連盟が「女性は牧師になることはできない」と宣言したことで、多くの人が傷つき、激怒し、そして茫然自失となりました。

 

かくいう私も、その中の一人でした。

 

私は当時、教団神学校(SBTS)の学生でした。この神学校は、当時、女性は、男性と全く同じように牧会職につくことができるし、また、そうでなければならないと一貫して教えていました。当時、CBMW(Council of Biblical Manhood and Womanhood:聖書的男性像・女性像協議会)もまだ存在していませんでしたし、そういった聖書的男性像・女性像の回復を取り扱った書籍もほとんど皆無でした。

 

説教者や聖書教師が、往々にして自分の間違った観念でもって、他人をそれと同じ方向に引きずっていく――、そういった悪影響のことがよく言われますが、それに関し、私は自分の目でそれを目撃していました。

 

1984年に教団がこの決議を出した際、私は猛然と抗議に出ました。私たち抗議者は、クーリエ新聞の広告欄を買い、そこに「神は、雇用機会平等のお方です」という旨の宣言を書き出しました。(ちなみに、私は当時も、聖書の無謬を堅く信じていました。)

 

そうした中、ある日、カール・ヘンリー氏がうちの神学校を訪問されたのです。

 

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Carl F.H. Henry (1913 –2003)

 

そして神の摂理の下、なんと私が彼の案内役となりました。これは自分にとってものすごい特権でした。というのも、著作を通し、彼はすでに私の精神的メンターの位置を占めていたからです。根本的教義の面においても、聖書の無謬性においても、彼の著作により、私は多くの助けを受けていました。

 

こうして私はヘンリー博士をお連れして、キャンパス内を案内することになりました。共にそぞり歩きながら、その時ふいに、氏が、女性牧師の是非をめぐる話題を持ち出してこられたのです。そして「この問題に関して、あなたはどう思っていますか。あなたはどのような立場に立っていますか?」と私に訊いてこられました。若気の至りや無頓着さもあり、私は堰切ったような勢いで自分の見解を彼に述べました。

 

すると、ヘンリー氏は、私を驚かせるようなある表情をたたえた目でこちらを見、そしてこう言われたのです。

 

やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう」と。

 

彼は言ったのはただこの一言でした。しかしこの一言は私を震撼させました。「やがて君は、この事で、自ら大いに恥じ入るようになるだろう、、、」

 

私は、その後、まっすぐに図書館に入りました。そしてこの問題を取り扱っているような書籍を手あたり次第探し始めたのです。はっきり言って、その時の私は、「自分がなぜ将来、この事で大いに恥じ入るようになるのか」――その理由を突き止めるまでは、もう食べることも何もまったく手につかない、そんな状態にありました。

 

どうしよう。目を上げてキャンパスを行き交う人々をながめました。でも、この人たちは、この問題で全然、「恥じ入っている」ようには見えないじゃないか、、、?

 

図書館にはほとんど助けになるような資料はありませんでした。幸い、ステフェン・クラークという人の書いたMan and Woman in Christという本を見つけ、それを通してある程度、御言葉の学びをするよう導かれました。

 

そして結局、その日、私は徹夜で真相究明に乗り出すことになったのです。これを解決せずにはとても眠ることなどできませんでした。

 

こうして東の空が明け始めた頃、この問題に関する私の立場は、一夜にして、完全に変化を遂げていたのです。

 

たしかに私の見解の変化に、カール・ヘンリーはかなりの影響を及ぼしました。しかし私の見解を変えたものは、聖書の御言葉でした。そして今思うと、本当にあの時、カール・ヘンリー氏の言ったことは正しかったのです。あの時点での方向転換がなければ、きっと今頃、私は大いに恥じ入ることになっていたと思います。

 

こうして翌日の朝、ヘンリー氏に再びお会いした時、私はすでに別の世界の人となっていたのです。

 

ー証しおわりー

 

〔補足資料2〕福音主義フェミニズムの漸進的7段階(ウェイン・グルーデム、フェニックス神学大)

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism?より

 

 

段階1) 聖書が誤りのない神の言葉であることを否定する。

↓ 

段階2) 女性を牧師として是認する 

段階3) 結婚における男性のリーダーシップ(headship)に関する聖書の教えを破棄する。

段階4) 女性の牧師叙任に反対の声を挙げる牧会者たちを教団から締め出す。

段階5) 「あるケースにおいては、同性愛行為は、倫理的に妥当なものである」とする。

↓ 

段階6) 同性愛者を牧師として是認する。

段階7) 同性愛の牧会者を、教団内のトップ(high leadership)に任命する。

 

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