巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

デリダの ‟ポスト近代宗教” の中に存在する深い内的緊張ーーポストモダン的グノーシス主義の内実(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)【ポスト近代と福音宣教その②】

Image result for religion without religion derrida

メシアニズム(messianisme;キリスト教などの特定宗教)と〈メシア的なもの(le messianique)〉の区別を導入したジャック・デリダ(出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

ジャック・デリダの構想する ‟ポスト近代宗教” の中には深い内的緊張があると私は見ています。

 

一方で彼は、公共圏に宗教のスペースを残し、従来の近代性が宗教を周縁化してきたことに対し対抗しようとしています。つまり、デリダは、世俗主義者たちが「純粋理性」保持という大義の下に、宗教を公共圏から追放してこようとしてきたことを問題視しているわけです。

 

彼がそれに批判的な理由は、「有限なる存在は誰一人としてそのような『純粋理性』を持つことはできない」という彼の主張に基づいています。

 

こうして彼は一旦、公共圏に宗教の可能性を提供し、宗教的言語を語り、概念の中に宗教的カテゴリーを用いているのですが、その道半ばにして、なぜか再び〔彼が批判しているところの〕‟純粋に” 理想的なものに立ち戻った上で、「私が言っている ‟宗教” とは、ユダヤ教やイスラム教やキリスト教といった特定の宗教ではない」と言っています。「なぜなら」と彼は言います。「そういった個別的特定宗教に及ぶや、それは暴力につながるから」と。

 

しかし、、、ちょっと待ってください。デリダさん、あなたはさきほど、「純粋理性」というようなものは存在しないと言っていませんでしたか?それなら、どうして「純粋宗教」なるものが存在し得るのでしょう。

 

あなたは、啓蒙主義の理想であるところの、いわゆる「純粋で、偏見なく、中立的、且つ伝統を背負うことなく、汚染されていない形での」合理性を問題視しています。そうでありながら、一旦、話が特定宗教に及ぶと、なぜまたそこにUターンしようとしているのですか?

 

ですからここ(つまりデリダの提供する ‟ポスト近代宗教”)には内的緊張があります。ポスト近代宗教は、一方において、啓蒙主義を批判しています。しかしそれは未だ、有限性(finitude)が内包する煩雑性や個別性を認めることにとまどいを覚え、立ち往生しています。なぜなら、その根柢に、「有限性は暴力的である」という立証されていない彼の前提があるからです

 

さて、ある人が、上記のような思想に堅くコミットしているとします。その際、私たちはそういった方々とどのように対話をしていくことができるのでしょうか。

 

「デリダさん、分かりました。あなたのその前提から出発すると、確かに、『ポスト近代における宗教無き宗教』という構想ができてくることはよく理解できます。(『宗教無き宗教』ーーつまり、特定のいかなる宗教に関与することなく、宗教的言語を使う宗教のこと)。

 

ですが、私は『有限性は暴力的である』というあなたの前提には賛成しかねます。そこでどうでしょう。もう一つ別の前提から出発してみるというのは?私は規定(determination)というロジックの代りに、受肉(incarnation)を基盤としてそこから出発したいと思います。」

 

「デリダさん、あなたはこう言っています。『ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の個々のメシアニズム(messianisme)の中の、正義、信仰、義務といった要素それ自体はいい。しかしこういった個々のメシアニズムたちがひとたび、「自分のバージョンのメシアニズムこそ正しく、お前のバージョンは間違っている」と言い始めるや暴力が生じてくる(例:イスラエルとパレスティナ)。だから、こうしよう。個々のメシアニズムたちを蒸留し、個別性(特定宗教の歴史性、コミットメント等)という浮きかすを各宗教から取り除く。そうした上で、‟純粋にして、汚されていない”〈メシア的なもの(le messianique)〉を抽出するのだ。』と。」

 

興味深いのは、こういう風に、個別的なもの、具象化されたもの、歴史的なもの、物質的なものを蒸留した上で、汚されていない ‟純粋なる” 理想を得るという考え方を、1世紀の教会教父たちは「グノーシス主義」と呼んでいました。そして初代教会はこのグノーシス主義を断固として退けました。

 

ですから、その意味において、「宗教無き宗教」というデリダの提唱は、奇妙な形でのポストモダン的グノーシス主義であるとも言え、この点で私たちキリスト者には紛うことなき懸念があります。つまり、この点におけるキリスト者の説明は、ポスト近代思想家デリダのような人々の説明とは大きく異なっているということです。

 

なぜなら、霊肉二元論というグノーシス主義を退けてきたキリスト教は、超越神が有限の肉を帯びたというーー『受肉』というスキャンダルーーに基づいているからです。

 

無限の神が有限の肉を帯び、超越が内在を帯び、神性が人となりました。それで、こういったナラティブを持つ人々(=キリスト者)にとっては、有限(finitude)というのは生来的に悪であるわけではないのです。そしてこれは「有限は暴力的である」と捉えるデリダの前提とは大きく異なっています。

 

実にキリスト者の持つストーリーは、被造物に対する肯定を伴っています。そして、『受肉』のキリスト教の、個別的なものや有限性に対する肯定は、「個別的なものに対するアレルギー」反応を示さず、さらにこれは、「私は霊的だけど、宗教的でない」的な言明を拒んでいきます。

 

実際、「私は霊的だけど、宗教的ではない」という言明は、デリダの提唱する「宗教無き宗教」のコンセプトにぴったりと適合しています。ですから「私は霊的だけど、宗教的ではない」的な発言をする時、私たちはデリダ的ロジックに巻き込まれているということになると思います。

 

その意味で、デリダは、むしろ十分にポストモダンになり切れておらず、彼の思想は、未だハイパー近代性(個別へのアレルギー)の次元にとどまっていると言っていいでしょう。なぜなら、ポスト近代思想を一貫して徹底的に押し進め、啓蒙主義の前提を批判していく時、その人はむしろ、悪びれなく(unapologetic)宗教における個別性、伝統、特異性を肯定していくようになるはずだからです。

 

ー終わりー

 

関連記事