巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

21世紀におけるキリスト教の形態(by ジェームズ・K・A・スミス)【ポスト近代と福音宣教その③】

young adult praying in church

教会で祈る若者(出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

真正なるポストモダン的信仰表現は、今後、非常に個別的かつ具体的なものになっていくだろうと思われます。そしてここにおいて興味深い形で、繊細さに対する世代間の違いが表れてきています。

 

団塊世代の人々は、ある意味、「個別的・具体的なものに対する近代性の持つアレルギー」を吸収し、その結果、反制度主義的なスタンスをとったり、あるいは、一般的でプラグマティックなバージョンの宗教性を表出すべく、宗教的特定性というものを極力薄めようとする傾向があったと思います。また一般的に言って、団塊世代の人々には、「伝統」というものを恥じる傾向がありました。

 

しかし自分よりも若い世代(1970~)の人々は、こういった事をもはや受け入れないでしょう。彼ら若い世代は真にポスト近代的繊細さを示し、ーー団塊世代がどちらかというと反制度的なものに傾きがちだったのに対しーー彼らはむしろストレートで正直な形の宗教を求めていると思います。

 

そして彼らは、功を奏す何か、feel goodな何かに自らの宗教を「翻訳」していくようなやり方ではなく、むしろ濃厚で、(世の人にとっては)‟スキャンダラスな” キリスト教遺産という個別性を求めていくでしょう。実に若い世代の人々は「伝統」を求めているのです。

 

デリダのバージョンのポスト近代宗教というのは、その意味で、臆病だと思います。デリダの宗教は今もって ‟スキャンダル” を恐れており、個別性という ‟スキャンダル” を正面から受け入れる度胸に欠けています。

 

ポスト近代は確かに、宗教が公共圏や文化談話に入る許可証を私たちに与えていますが、あらゆる具象、個別を伴ってさらに一歩進むことはしていません。

 

デリダの提唱する「宗教無き宗教」に代表されるようなポスト近代は未だに世俗主義の尾を引きずっています。しかし、より一貫性ある形のポスト近代の宗教は、その最後の「ためらい」にも踏ん切りをつけ、それにおさらばするでしょう。そして濃厚なる信仰告白という具象化された特殊性を前面に打ち出していくでしょう。

 

その意味で、ポスト近代は、むしろ伝統的信仰者たちにスペースを提供していると思います。実際、ポストモダニティーは、オーソドックス(正統)ーーこれなのかもしれません。

 

ー終わりー