巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

典礼の交唱(アンティフォナ)ーー天の韻律のこだま(by トーマス・ハワード)

The Concert of Angels, 1534-36 Ferrari, Gaudenzio Singing Book

典礼の空間においては、すべてのものが意味を持ってくる。(出典

 

Thomas Howard, Evangelical is Not Enough: Worship of God in Liturgy and Sacrament, Ignatius, 1984 (抄訳)

 

〈主があなたと共におられますように。"The Lord be with you."〉

〈そして汝の霊と共に。"And with thy spirit."〉

 

「牧師と信徒たちの間で交わされているこの機械的な定型文句は一体なんだろう?」と、はじめて(聖公会の)典礼に参加した私は不思議に思いました。

 

上記のやり取り(交唱)は、典礼の間中、なんども行なわれていました。良く言えば、‟古風な習慣”、でも正直にいうと、単なる不必要な習慣のように思われてなりませんでした。

 

なぜかというに、主はすでに牧師の心の内にも、私たちの心の内にも臨在しておられるのではないでしょうか。そんな当たり前なことのために、なぜわざわざ声に出して「主があなたと共におられますように」と願い祈る必要などあるのでしょうか。

 

その当時、私が知らなかったのは、この交唱行為が、キリスト教礼拝の黎明期にまでーーいや、それ以前にまでーー溯ることのできる形態であるということでした。

 

それは、礼拝行為の構造それ自体の中に、栄光ある相互愛のアンティフォナ(交唱)をうち据えており、このアンティフォナは天において、そして宇宙全体にみなぎり、あらゆる神の被造物の間でこだましながら、互いに呼びかけ合っているのです。

 

これはカリタスの愛であり、互いに挨拶を交わし、相手の良好を願うものです。そしてそのアンティフォーナルな(応答的な)性質の内にあって、交唱は天の韻律(rhythms)そのものを反響しています

 

深淵が深淵を呼び起こし、昼は夜に答えます。山は谷に呼びかけ、御使いは別の御使いに呼びかけます。愛が愛を出迎え、歓迎します。神のお住まいになる場所には、こうした喜ばしき愛の交唱が響き渡っています。地獄はこれを憎んでいます。そして「愚か者よ、そこをどけ」と怒鳴ってくるでしょう。しかし天は言います。「主があなたと共におられますように」と。これは『受肉』の中において私たちに語られたことであり、神の愛が常に語っていることです。

 

礼拝の行為の中で、私たち地上にいる者は、天にある脚本を学び始めます。語句や表現法は現時点で私たちが感じているものとはほとんど関係ないように思われるかもしれません。それは自然には生じてきません。私たちはそれを口に出して告白し、言うことを学んでいかねばなりません。

 

アンティフォナ(交唱)は、個人的資源という私たちの浅いプールを深遠化させ、与えられた状況に対し適切に応答していくに当たっての自身の貧弱さという監獄から私たちを解き放ちます。気まぐれにつぶやく代わりに、私たちは「いかがお過ごしですか?」「主があなたと共におられますように」という定句を発話することを学んでいきます。

 

そしてそれを学んでいく過程で、私たちは唯我論の領域を出て、共同体へと参入していきます。そして他の〈自己〉の間にあって私たちは自分に定められた場所を見い出していくようになるのです。

 

ー終わりー

 

典礼の中における詩篇23章の交唱(答唱詩編)


答唱詩編においては、会衆は答唱句を歌い、一人または少数の歌唱奉仕者が詩編本文を会衆によく味わってもらえるように歌い、会衆はそれを聴きながら黙想し、また答唱句を繰り返して答える、という形をとっているそうです。また、詩篇の交唱という礼拝行為は、なんと初期ユダヤ教に溯る伝統であるということです。すごいですね!(参照