巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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言語における慣習性(conventionality)ーー「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」という教説の問題点について(by アンソニー・ティーセルトン)

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トーレイフ・ボーマン著『ヘブライ人とギリシヤ人の思惟』(新教出版社)(原題:Hebrew Thought Compared with Greek

 

ヘブライ語の歴史ーー「抽象」と「具体」(ジェフ・A・べンナー氏の教説)

 

Anthony Thiselton, 'Semantics and New Testament Interpretation', in Howard Marchall (ed.), New Testament Interpretation: Essays on Principles and Methods, Carlisle: The Paternoster Press, 85-88.(拙訳)

 

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アンソニー・ティーセルトン(Anthony C. Thiselton, 1932-, ノッティンガム大)

 

言語における慣習性(conventionality)及び構造主義とのつながり

 

ソシュールは、言語における「記号の恣意的性質」というものを提示しましたが、これを指摘したのは何も彼が初めてではありませんでした。「記号の持つ恣意的性質に関して異議を唱える人は誰もいません。しかしそういった真理を発見すること以上に、それを正当な位置に帰す作業の方が困難であることが往々にしてあります。*1」〔中略〕

 

論理的ー文法的パラレリズム」に関連するいくつかの誤謬についてすでに触れてきました。もう一つは、ーー文法的カテゴリーを基盤にした「ヘブライ的思考」「ギリシャ的思考」ーーという、ある民族/国民の際立った思想についての推論を引き出そうとの試みですが、これもまた誤った企てです。

 

J・ペダーセン、T・ボーマン、G・A・F・ナイト等は、文法的カテゴリーを基盤に「ヘブライ的思考」に関する表明をしている聖書学者たちです。例えば、ナイトは次のように主張しています。「ヘブル人たちはほとんど常に『具体』という観念で物事を考えてきました。ヘブライ語には抽象名詞がわずかにしか存在しません。」*2

 

T・ボーマンもまた、言語カテゴリーの中における文法的・形態学的調査を主要なベースとしつつ、イスラエル的思考は「ダイナミック、活力に溢れ、情熱的である」一方、「ギリシャ的思考は、静的、平穏的、穏健的、調和的」だと論じています。*3

 

ボーマンによると、ヘブライ語では状態動詞でさえも、物事の静的状態を表す以上に活動を表現しているのだとされています。彼の議論の中でももっとも極端なもののいくつかは、数と量に関連するものです。

 

それによると、いわゆる「数の概念」というものは、ギリシャ的思考および現代思考の中において、視覚的表象として到来しています。しかしヘブライ的思考における独特の「概念」は、「二 "two"」という言葉の「意味」から明白に表れていると言い、ボーマンは次のように述べています。

 

「シェナイーム(shenayim)は、動詞シャナー(shanah)から来ており、"二倍になる、繰り返す、二度する"等の意味があります。それゆえに、ヘブル人たちは、ーービジュアルな知覚を通し、数の概念を形成している私たちとは違いーー、同じ動きを頻繁に繰り返すことによりそれを形成しているのです。」*4

 

同様に、「小さい」を表す二つの言葉は、「減少する」「より少なくなる」という意味の動詞形から来ており、さらに、比較級で「~以上の」を表しているミンという語は、本当には「~から離れて」という意味があるのだと彼は主張しています。そして実際ボーマンは次のように結論づけているのです。「それゆえ、数や量的多様性は、空間的で量的ななにかではなく、ダイナミックにして質的なものなのです。」*5

 

ですから、サウルが、すべての人よりも「背が高かった(taller than)」と言う時、彼はダイナミックに高くそびえており、他の人たちから「離れていた(away from)」のです!

 

しかし、この種の議論は、いわゆる「論理的ー文法的パラレリズム」がベースになっているだけではありません。ボーマンはこの誤りを、さらに、通時的/語源学的性質とも混ぜ合わせてしまっており、意味論における文脈の役割を無視しています。

 

例えば、ミンという語が、"多くの"文脈の中で「~から離れて」という意味であったとすると、比較の中におけるその文脈が、「~以上に」に対するその意味的価値を制限します。

 

ボーマンの方法論は、構造主義からするととんでもない種類のものであり、またバーが言うように、「ボーマン系譜の言語解釈は、、より旧い文法に関する論理的ー文法的不明瞭性に大いに依拠しており、現代言語学のより厳密な方法論により蒸散してしまいます。」 *6

 

だからと言って、ボーマンの出している諸結論のすべてが間違っているというわけではありません。バーも認めているように、ボーマンはある洞察も表現しており、それには、「釈義的」観察としての独立的価値はあるかもしれませんし*7、ヘブライ語の語用は、ギリシャ語や英語等の語用よりも、時として、より「ダイナミック」であり得ます。

 

しかしここでの誤りは、そういった諸結論を、ーー構造主義および言語における慣習性(conventionality)を無視したーー疑わしい言語的諸議論の上に打ち立てていることであり、バーは、こういった誤りのアプローチに体系的批判のメスを入れることにより、意義ある働きをしています。

 

ここから私たちは、言語と「諸概念」の関係性についての、意味論における根本的原則に導かれます。「ヘブライ的思考」「ギリシャ的思考」に関する諸主張に関し、デイビッド・クリスタルは重要な洞察をしています。

 

「私たちはよく、次のような言明を耳にします。『Xという言語には○○を表す言葉があるけれど、Yにはそれがない。だから、Xは、Yが言うことのできないなにかを表現することができる。』もしくは『Xは、Yよりも優れた言語である。』

 

この種の誤謬は、『言語間における翻訳・等価は、"単語"である』という誤った考えに由来しています。言語Yの中にある対象を表す言葉がないからといって、Yがその対象物に関して語ることができないわけではありません。そうするに当たり、Yは同一の機械的手段を用いることはできませんが、同じ目的を果たすべく、それ独自の構造の中で、オールターナティブな表現形式を活用することができるのです。」*8

 

言語学界における大方の著述家の見解は、ジョン・リオンの言葉を借りると、「どの言語も、本質的に『より豊かである』ということはできません。それぞれの言語はその使用者の特徴的求めに適合しています。」*9

 

"life"や"the world"という語を描写し得る分類数はそれこそ無限にあります。それゆえに、ある言語の中にすでに存在している区分は、その特定文化の中でこれまで重要だったものだけを反映しています。しかし、それらは、未来において(例えば、その文化内の創造的思想家や翻訳者によって)表現し得るものの制限を絶対的に「決定」しているわけではありません。

 

しかしそれによって、ベンジャミン・ウォーフのあの有名な仮説の中における真理のある要素が完全否定されるわけでもありません。(ウォーフの仮説は、「言語構造は、思想という観点で文化に影響を与えているだろう」というウィルヘルム・フォン・フンボルトの見解をベースにしています。)

 

第一に、ある種の思想の翻訳や表現は、この区分あの区分が存在している(あるいは存在していない)ことによって、より容易/より困難になる可能性があります。二番目に、言語「使用」における「習慣」は、(ヴィトゲンシュタインによって示されている意味において)ある種の思考を、より容易/より困難にします。しかし困難さは、不可能性を意味してはいません。ウォーフの仮説の弱点は、マックス・ブラック等によって明示されています。*10

 

エドワード・サピアも認めているように、いわゆる未開的言語と呼ばれているものであってさえも、「より優れているとかより劣っているということではない。それらはただ異なっているだけである。」*11

 

しかしながら、何人かの聖書学者たちは、語彙ストックをベースにしたヘブライ的/ギリシャ的「思考」に関する遠大なる諸結論に走っています。

 

例えば、ジョン・パターソンは、次のように言っています。「古代イスラエル人は、『言葉に関し経済的』でした。なぜなら『ヘブライ語には1万語弱の語彙しかないのに対し、ギリシャ語彙は20万語あります。それゆえに、ヘブル人にとって一つの言葉は、、注意深く使用されるべきなにかだったのです。』」

 

これは無理のある、こじつけ解釈です。彼は続けて、「彼は言葉すくなの人でした。なぜなら『彼は言葉の中にはパワーがあり、そういったパワーは無差別に使われてはならないという事を知っていたからです。』*12」と言っています。

 

ジェームス・バーは、「聖書神学運動の中に相当増殖している、『ギリシャ人には○○という語彙があった、、』系の議論」を批判しています。*13例えば、J・A・T・ロビンソンは次のように書いています。

 

「("flesh"と"body"に関し)なぜここでユダヤ人は一語(basar)で済ませている一方、ギリシャ人はそこに二語(σάρξと σῶμα)を必要としていたのかを問う時、私たちは、人間に関するヘブライ的思考の最も根本的推論に行きつくのです。」

 

ロビンソンによると、語彙ストックにおける相違は次のことを示しています。「なぜならへブル人はこの事を決して問題にしなかったのです。他方、ギリシャ人は提示されたある種の問いに答えるべく、"body"と"flesh"の間を区別しなければならない必要に迫られたと考えられます。」*14

 

ロビンソンのこういった見解に対し、バーは次のようにコメントしています。「この種の言明は、言語学的意味論を完全に無視しない限り、導き出され得ないものです。*15 」 

 

「ウォーフの仮説」によって提示されている半面真理(half truth)の観点からいえば、バーのこの批判は、もう少し緩和されてしかるべきかもしれません。ですがバーの批判の主要点は、もちろん疑問の余地なく妥当なものです。*16

 

バーはまた、『キッテル新約聖書神学辞典』の方法論的手順を批判しています。この辞典によると、「新約ギリシャ語の語彙ストックは、初期キリスト教徒の概念ストックと密接に関連し得」ます。*17

 

この辞典は、実際上は、単語の辞典であるはずなのですが、それは「概念の歴史」(Begriffsgeschichte)となっています。それゆえに、結局、編集者は「ギリシャ語の単語」ではなく、「ギリシャ的概念」について執筆しています。これが引導する誘惑は、「非正統的な全体移動 "illegitimate totality transfer"*18」です。(詳しくは本稿のII,1で取り扱っています。)

 

単語と概念は、必ずしも、同形的(isomorphically)に相互関連しているわけではないため、用語におけるこのような曖昧さは人を誤らせるものであり、幾人かのドイツ人学者たちがBegriffを、「概念」という意味で使用し、同時に「単語」という意味でも使用しているために、混乱はさらにひどいものになっています。

 

ー終わりー

 

関連記事:

*1:F. de Saussure, op. cit., p. 68 (cf. edition critique, p. 152-3).

*2:A. F. Knight, A Biblical Approach to the Doctrine of the Trinity (Edinburgh 1953). p. 8.

*3:Boman. Hebrew Thought compared with Greek (London 1960), p. 27.

*4:同上., p. 165.

*5:同上.

*6:Barr, op. cit., p. 67: cf. pp. 46-88.

*7:E.g. Boman's remarks about practical atheism in Psalm 14: I, op. cit., p. 48-9.

*8:Crystal, Language. Linguistics and Religion. p. 144 (my italics).

*9:Lyons. Introduction to Theoretical Linguistics, p. 45.

*10:Cf. M. Black, The Labyrinth of Language, pp. 63-90; and "Linguistic Relativity. The Views of Benjamin Lee Whorf', in Philosophical Review 68 (1959), p. 228-38; cf. also S. Ullmann, "Words and Concepts" in Language and Style (Oxford 1964), pp. 212-28.

*11:Crystal, Linguistics, p. 72; cf. p. 49.

*12:J. Paterson, The Book thar is Alive. Srudies in Old Tesramem Life and Thought as Ser Forth by the Hebrew Sages (New York 1954), p. 3.

*13:Barr, op. cit.. p. 35; cf. pp. 21-45.

*14:A. T. Robinson, The Body, A Study in Pauline Theology (London 1952), pp. 12 and 13.

*15:J. Barr, op. eit., p. 35.

*16:〔訳者注〕ロビンソン見解への批判は、ミラード・エリクソン著『キリスト教神学』の中でも展開されています。詳しくは以下の記事をご参照ください。

*17:同著., p. 207; ef. pp. 206-19.

*18:〔訳者注〕