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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「1テモテ2:11-15の箇所は、新約聖書が、旧約聖書を正しく解釈し損なっているのです」という主張はどうでしょうか?

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 Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 8より翻訳

 

対等主義側の主張

1テモテ2:15-17のような聖句においては、私たちの旧約理解が、新約記者のそれに優っています。

 

アズベリー神学校のデイビッド・トンプソン教授は、「ある例外的な場合において、私たちは注意深くかつ慎重に、自分たちの旧約解釈を、新約記者のそれと違わせることもあるいは可能である」ということを主張しています。

 

そしてそういった「例外的な場合」の一つというのが、私たちが、1テモテ2章での、使徒パウロによる創世記2章解釈を読む時であると彼は述べています。(David L. Thompson, "Women, Men, Slaves and the Bible: Hermeneutical Inquiries," Christian Scholar's Review 25:3 (March, 1996), 326-49. )

 

筆者注:トンプソンのこの見解に対するより詳細な応答論文としては:Wayne Grudem, "Asbury Professor Advocates Egalitarianism but Undermines Biblical Authority: A Critique of David Thompson's "Trajectory" Hermeneutic" CBMW News 2:1 (December 1996), 8-12をご参照ください。)

 

訳者注:トンプソン氏およびR・T・フランス氏の提唱している『軌道解釈(Trajectory Interpretation)』の詳細については以下の記事をご参照ください。)

 

 

トンプソンは、1テモテ2:11-15が解釈困難な箇所であることを述べた上で(この箇所は「とりわけ解釈学的に複雑な問題を突き付けている」)、だから、私たちは創世記2章を検証し直し、その結果、パウロの創世記解釈に同意しないこともあり得ると提唱し、次のように言っています。

 

「私たちは、創世記2章のパウロの理解が、そのまま私たちの理解とイコールであると即断することに慎重になるべきです」(Thompson, 346, 347)。

 

そうした上で、私たちは自ら創世記2章を読み直し、「それ自身の言葉として("on its own terms")」この箇所を理解すべきであり、私たちのその理解が、パウロの創世記理解の「裁決者」になると言っています。

 

「この時点において、それ自身の言葉として理解された創世記の記述は、パウロによってなされている、より限定された読み方の裁決者となるということは十分に可能なことです」(同著p347)。

 

回答1.この手順は、今日の私たちに対する聖書の絶対的権威を否定するものであり、御言葉以上に私たち自身をより高い権威として押し上げる結果をもたらします。

 

トンプソンのこの手順は、今日の私たちに対する聖書の権威を巧みに否定しています。言うまでもなく、パウロが1テモテ2章の中で創世記2章を引用していることは対等主義者たちにとっては厄介な問題です。

 

なぜなら、創世記2章は、この世界に罪が入り込むそれ以前より、結婚における男性かしら性がすでに存在していたことを示している箇所だからです。それゆえ、創世記2章は、神による男女創造のわざの一部としての男性かしら性を示しています。

 

そしてここで、対等主義者にとってはさらに厄介な事態が発生しています。それは何かと言いますと、パウロが、教会内における男性かしら性を築くべく、ここで創世記2章を『引用している』という事実です(1テモテ2:13-14)。

 

ここから分かるのは、教会内における男性かしら性を、「神が創造のはじめに男女をお造りになった事実に根差したものである」とパウロが理解しているということです。

 

しかしトンプソンはこの議論の効力をかわすべく、対等主義者たちに新しい道を提供しています。つまり、慎重さと、注意深い聖書の学び、そして祈りの内に、私たちは、21世紀の解釈者として、創世記2章を学び直すべきであると。そして創世記2章を「それ自身の言葉として」理解すべきであると。

 

そうしてこの聖句の理解が進むにつれ、(場合によっては)パウロの解釈を拒絶することもあり得る。そして私たちは創世記2章を、パウロの解釈の「裁決者」(or審判者)として用いることができると。

 

ここで実際に何が起こっているのか留意してください。今や私たちが創世記2章を解釈しています。

 

トンプソン自身は「創世記2章がパウロの解釈の裁決者です」と主張するかもしれませんが、実際に起こっていることは、トンプソン氏の創世記2章解釈が審判者になっており、それによってパウロの解釈は横にうちやられてしまっています。

 

つまりここで展開されているトンプソンの主張は、とどのつまり、私たちの解釈がパウロの創世記2章解釈を「修正」できる――(そして、そこに含意されている内容としては、その他の旧約聖句のパウロ解釈も「修正」できる)ということです。

 

回答2.旧約聖書に対する新約聖書の諸解釈は、旧約聖書に対する神の諸解釈です。

 

もしも聖書が神の言葉であるなら、こういった諸解釈はパウロの解釈というだけにとどまりません。それはまた、ご自身の御言葉に対する神の諸解釈でもあるのです。

 

「どうして新約記者は、旧約聖句のこの箇所をこういう風に解釈しているのだろう?」と自分にはなかなか理解できないことも時にはあるでしょう。でもそうだからと言って、私が新約記者のそういった解釈に異議を唱えてもいいということにはなりません。

 

もしも私が聖書がまことに神の御言葉であると信じるなら、その時私は、パウロを初めどんな聖書記者も、①旧約解釈において間違いを犯してはおらず、②私たち自身がベターと判断する諸解釈を優先させるために拒絶してしまってもいいような旧約解釈を私たちに与えてはいない、ということを信じなければならないのです。

 

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