巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「夏は、どんな服を着ればいいかな?」―クリスチャン女性とサマー服と隣人愛【再掲載+追記】

前半部分は自ブログ「地の果てまで福音を」からの再掲載です。また、この記事は主として女性のみなさんを対象としたメッセージであり分かち合いです。Thank you!

 

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さて、いよいよ夏がやってきますね。スイカがおいしい季節です。夏は暑いです。そして暑い時には、なるだけ薄着をしたいと思うのが人間の自然な情ではないかと思います。

 

この世のささやき

 

しかしながらこの世は、「今こそ好機」とばかりに、自らの価値観を私たちに吹き込もうとやっきになっている――これもまた事実です。

 

メディアや女性雑誌、有名タレントなどのイメージを通し、この世は愛嬌を振りまきつつ、私たちに囁きかけます。

 

「ほら、私たち女性はね、ここまで肌を露出したって平気なんですよ。最近ではみんなそういう風なファッションしてますから、あなたも気兼ねすることなく自由にやっていいんです。ほら、賛美リーダーの○○姉妹だって、ああいう服を着て、清い心で主を賛美しているじゃないですか。だからいいんです。大切なのは外側ではなく、主を愛する心なんですから。」

 

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三十年前は、ブラジャーを外に見せるというファッションはあり得ないものでしたが、現在では世界的にそれが「普通のこと」になりつつあります。そしてそういった一連の潮流は、今日、すさまじい勢いで福音主義教会内にも流れ込んできています。

 

慎み深さの本質が内側にあるというのはその通りだと思います。このテーマに関し、私は自分自身の恥ずべき過去の失敗も含め、いろいろな証しや記事を書いてきました。

 

①姉妹の服装について―私の告白(ココ

②死にゆく貞節――女性の視点からみた、服装における慎み深さ(ココ

③姉妹の慎み深い服装について(その2)ー実践編ー(ココ

④姉妹の慎み深い服装について―高校生クリスチャンの探究と証し(ココ

⑤姉妹のやわらかい言葉づかいについて(ココ

⑥初代教会のクリスチャンが「メイク・宝石・ファッション」について語ります。〔シリーズ4〕(ココ

  

また「慎み深さ」というのは、文化圏や時代によっても価値基準が異なっているという点で、ある意味、相対的なものだともいえるでしょう。

 

例えば、同じ国であっても、サンフランシスコでの「慎み深さ」の基準と、アラバマ州の田舎での「慎み深さ」の基準はやはり異なっているでしょう。またインドでも、保守的な南インド地域の女性たちと、先進的な北インドの大都会の女性とでは、「慎み深い服装」に対する見方はおそらくかなり違っているはずです。

 

私は現代の福音主義クリスチャン女性の中では、おそらく(外面的にも内面的にも)かなり保守的な方に属すると思います。しかし、近所に住むスンニ派のMさんは、外に出る時は、目しか公に出さず、残りの肌はすっぽりチャードルで覆っています。

 

そうするとどうでしょう。Mさんの「慎み深さ」の基準でいけば、私はおそらく(ふしだらとまではいかなくても)「ちょっと恥知らずな女性」ということになるのだろうと思います。その意味で、「慎み深い服装」に関し、私たちクリスチャン女性が取り組む際、まず、そこに、型にはまった「規則」というのは存在しないと考えるのが妥当だろうと思います。

 

しかしその一方、一定の「規則」がないからといって、この問題をほったらかしにしていていいのでしょうか。御言葉はこのことに関して、どのように言っているのでしょうか。

 

女性の服装に関して、1テモテ2章9節では次のように言っています。

 

同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り(新改訳)

 -clothing, modestly and discreetly,(NAS訳)

- adorn themselves in modest apparel, with shamefacedness and sobriety(欽定訳)

 

この節のギリシア語原文をみると、 κοσμίῳ μετὰ αἰδοῦς καὶ σωφροσύνης となっています。

 

αιδώς(アイドース)

 

「控えめ」「modesty」と訳されている原語のαιδώς(アイドース)は、古い古いギリシャ語で、なんとこの語は、前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩『イリアス』にも出てくる名詞なんです!すごいですよね。

 

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新約コイネー期には、αιδώς(アイドース)の意味は、「慎み、遠慮、畏れ、畏敬」という意味で定着していましたが、ホメロスの古典期には、「恥を知る心」という意味で用いられていました。(参:Α.Φραγκούλης, Λεξικό της Αρχαίας Ελληνικής

 

ですからその意味で、欽定訳のwith shamefacedness(=つつましい、恥ずかしそうな、恥じらいの)という語の選択は、原義の「恥を知る心」のニュアンスをも捉えた見事な訳だと思います。

 

私たちクリスチャン女性が「恥を知る心」、そして健全な意味での「恥じらい」「つつましさ」の霊に満たされる時、そのスピリットは、私たちにある種の服装を選ばせない貞潔さと純真さを与えると思います。

 

それは文章に書かれた「掟」や「ルール」ではありませんが、御霊は「その基準」を私たちの心の内奥に植えてくださると思います。

 

そして同じ御霊は、年毎に堕落していくこの世のファッション潮流のかまびすしい騒音とは全く異なる静かな声でもって、次のように私たちを諭してくださると思います。

 

ローマ12:2 

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 

また、私たち女性のそういった姿勢やあり方は、主の前に清く生きようと日々信仰の戦いをしていらっしゃる男性信者のみなさんに対する隣人愛の顕れの一つだと思います。

 

男性の方々をつまずかせない慎み深い服装で身をつつむことにより、私たちは真に相手を助け、励ますことができると思います。

 

これはすばらしいことではないでしょうか。私たちは、自分たちの着る服装という外面的なものを通しても、キリストのからだを建て上げ、みからだに奉仕することができるのです!

 

どうか私たちのすべてを通して、主に栄光が帰されますように。アーメン。

 

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2017年4月19日追記です。

髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものではなく、「柔和で穏やかな霊」という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらο κρυπτος της καρδιας ανθρωποςを飾りにしなさいと勧告したペテロも(1ペテロ3:3-4)、

 

つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさいと勧告したパウロも(1テモテ2:9-10)、

 

「飾る(コスメオー, κοσμἐω)」という同一のギリシャ語動詞を使っていることに今日気づきました。このコスメオーという動詞は、――BC8世紀のホメロス以来プラトンを経て新約時代へと――壮大なる歴史をもつコスモス(κόσμος)という多義名詞から派生した動詞で、「飾る、きれいにする、飾りつける」という意味を持っています(織田昭)

 

私がこの二つの聖句から受け取ったのは、ペテロもパウロも私たちがコスメオー(飾る、きれいにする)ことを奨励しているということです。

 

しかし、そのコスメオーの実質内容は、この世が奨励する装飾の内容とは180°ベクトルが異なっているということです。ペテロは、柔和で穏やかな霊をもつ「心の中の隠れた人がら」でコスメオーするよう私たち女性を励まし、パウロは、「良い行ない」でコスメオーするよう私たちに勧告しています。

 

また、これらの文脈全体を通して、もう一つ私が学んだのは、聖書が私たち女性に教える価値観は、露出(exposure)を美徳とみなさないということです。世俗文化は私たちの内に宿る健全な恥じらい感覚を麻痺させ、私たちをやみくもな精神的・肉体的露出へと駆り立てます。

 

以前の記事の中で、私は「心の中の隠れた人がら」を《秘密の花園》にたとえました。この花園は、秘められ、公衆の目には隠されています。そしてこの花園はけっして不用意に外部にexposed(露出)されてはならないのです。なぜなら、私たちは花婿イエスさまのために聖別されており、この花園をみることができるのはイエス様だけだからです。

 

どうかこの花園をコスメオーし、つつましく内的飾りつけをしていく私たちの内に、主への純粋な愛の炎が燃え上がりますように。アーメン。

 

 

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