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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「新約記者は、夫と妻が互いに恭順し合うよう勧告しています(エペソ5:21)。ですから、夫にだけ特別なリーダーシップの役割というのは存在しないのです」という主張はどうでしょうか。【対等主義「相互恭順説」反証】①

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祈り

 天地を創造され、歴史の主権者であられるおそるべき万軍の主、私たちの大いなる三位一体の神に賛美と誉れを帰します。今、取り扱っているこの重要なテーマをあなたの前に広げ、ただあなたの前に私たちの嘆きを注ぎ出します。これはあなたの属性、権威、栄光、誉に直結する問題であり、三位一体論、栄光あるキリストと教会の関係、人間存在の相互関係性といったものの本質に触れる問題であります。

 現在、この部分が熾烈な攻撃にさらされているという現状をみる時、事実、私は涙を抑えることができません。どうかこの小さきしもべの手を強めてくださり、通りよき管として、できる限り正確に翻訳することができますよう助けてください。

 私たちが見えているものは一部分にすぎませんが、それでもあなたが聖書を通して啓示してくださっている御言葉の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える(詩119:130)というあなたの御約束を信じ、あなたの前に跪きます。

 どうかこの領域においても、神の義が顕されますように。愛する兄弟姉妹と心を合わせ、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 

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エペソ人への手紙5:21-33

(6)服従(submission)の意味  

 この個所の文脈は、妻の服従と夫の支配ではなく、相互の服従です。ギリシャ語では、21節で使われている服従ということばの動詞形は22節では繰り返されてはいません。字義的な翻訳は次のようになります。「キリストに対する畏れをもって互いに従いなさい。妻たちは主に対するように夫たちに対して。」 

 妻の服従は ----互いの----相互の服従から切り離すことはできません。パウロは、夫が妻に示すべき愛は、キリストが教会のためにご自身をお与えになったように、自分のいのちを差し出すまでの、夫の側の服従を含むところの愛であると述べて、相互の服従の概念を続けます。

 「従う」ということばは、妻に関しては用いられてはいなくて、むしろ、子どもや奴隷に対する上下関係に用いられています。夫に対する命令のどれ一つ取っても支配について語っていません。命令はすべて、妻を建て上げることを強いています。

 ビレズィキアンは、服従の一般的な意味は「自分自身を上の権威の下に従わせることであり、地位的に、あるいは立場的に上の人の願いに沿って方向性が定められることに頼り、(または)支配に委ねることです」が、この個所では意味は全く違うものに変えられていると論じています。「互いに服従する」ということは「他の人に服従する」ということとは全く違う関係です。ビレズィキアンは続けて言います。

 

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 互いに服従するということは、同等の立場の人たちの間のみで可能です。それは、互いという代名詞を含まない服従の概念の中で暗黙のうちに語られている一方的(一方通行)な服従を排除する、相互(二方 向)の関係です。相互の服従は、下の者に対する支配者の上からの優越性なく、(むしろ)同等と立場の人たちの間の水平線的な人間関係を示唆します。

*夫と妻の相互の服従が、妻が夫に従う大前提としてあることは、押さえておくべき点です。

 もしパウロが伝えたかった概念が通常の従順であったなら、彼が使うことのできたことばがいくつかあり ます。彼は奴隷に関してはギリシャ語のヒュパクオー(エペソ人への手紙6:1)を用い、子どもに関してはペイサルケオー(エペソ人への手紙6:1)を用いています。

 ブリストウは、パウロがこれらのことばのどちらも使わなかったことは、妻を、子どもや奴隷と同じように男の権威の下に置くギリシャの哲学者たちとは違って、パウロにはそのようにする意図が全く無かったことを示すと指摘しています。

 パウロはもう一つのことばヒュポタッソーも使うことができました。そのことばは能動態では、「支配する」 という意味になります。パウロはそれを 神がなさることについて語る時にのみ用いています。パウロは夫が妻をヒュポタッソーするようには命じていません。その代わり、ヒュポ タッソマイという中性形を用いることによって、パウロは妻たちが自発的に夫たちに従うようにと訴えています。

 その性質上、自発的に行 なうものを求めているので、ヒュポタッソマイは「忠誠を尽くす」と か「必要に答える」「支える」または「応答する」という意味になります。同様に、パウロは教会員たちに互いにヒュポタッソマイするよ うに訴えました。

 これは支配者と被支配者というランク付けをするのではなく、教会に対してその構成メンバーが「キリストのからだ」としての召しを具体的に生きるようにという端的な訴えです。教会にとって真実なことは、結婚においても真実であるとパウロは付け加えました。

 

*ギリシャ語の用法から、この箇所の意味は、夫が妻を「支配」し、妻が夫に「服従」するのではなく、 妻が夫に「自発的に忠誠を尽くす」、「必要に答える」「支える」または「応答する」という意味になるというのは、とても納得がいく説明です。

 

世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのかGender or Giftedness by Lynn Smith)」p 96,97(傍線、強調はブログ管理人によります。)

 

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 6

 

はじめに

エペソ5:21には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(新改訳)と書いてあります。

 

訳者注①:他の訳では次のようになっています。キリスト〔へ〕の畏敬をもって互いに従属し合いつつ。〔岩波訳〕、キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。〔新共同訳〕、キリストへのおそれをもって互いに従いなさい。〔前田訳〕、キリストを畏れて互いに服従し合え。〔塚本訳〕、キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。〔口語訳〕、キリストを畏みて互に服へ。〔文語訳〕)

 

訳者注②Submissionの訳語について。本ブログでは、Submissionを「恭順(きょうじゅん)」、そして動詞のSubmitは、文脈によって「恭順する」あるいは「従う」と日本語訳しています。したがって、その方針に従い、三位一体論や夫婦間における"mutual submission" 説という対等主義見解についても、本ブログでは「相互恭順」説と訳しています。しかし冒頭の引用文のように、submissionを「服従」と訳すことももちろん可能です。)

 

対等主義の人々は、この節が、「相互恭順(mutual submission)」を説いていると主張しています。つまり、妻が夫に従わなければならないのと同様、夫も妻に従わなければならないのだと。そして彼らは言います。「ここの聖句では、『互いに』従い合いなさいと言っていませんか?ですから、これが意味するところは、妻が夫に負っているところの特別な恭順の義務はなく、また夫の側にも、妻の上に特別な権威は持っていないということです。」

 

ギルバート・ビレズィキアンは次のように言っています。

 

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「互いに対する服従」というのは、「他方に対する服従」というのと大きく異なっています、、、定義によれば、相互恭順というのは、より高いヒエラルキー的相違を排除します

 互いに服従するということは、同等の立場の人たちの間でのみ可能です。それは、相互代名詞を含まない服従の概念の中で暗黙のうちに語られている一方的(一方通行)な服従を排除する相互(二方向)の関係です。相互の服従は、〔下の者に対する支配者の上からの優越性なく、(むしろ)〕同等の立場の人たちの間の水平線的な人間関係を示唆します。Bilezikian, Beyond Sex Roles, 154.

 

レベッカ・グルースイスは、他の例を挙げつつ、次のように述べています。

 

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 エペソ5:21における相互的、互いに対する恭順への呼びかけは、次に挙げるような、妻と夫に対する諸指示のためのフレームワークを打ち建てています、、、

 妻たちは――すべての信者たちが互いに対して恭順でなければならないのと同じ仕方で――夫に恭順するよう求められています。この聖句は、男性権威に対する女性側の一方的な恭順を主張してはいません。そうではなくむしろ、これはキリストのみからだの中のすべての信者たちによって適用されるべき「基本的恭順の基本原則のひとつの適応」として――そういう意味での妻の恭順を提示しているのです。Groothuis, Good News for Women, 164-65.

 

こういった「相互恭順」という考えに基づき、対等主義の人々はしばし次のように言います。「もちろん、妻は自分の夫に服従しなければならないと私も信じています。そして、夫もまた、自分の妻に服従しなければならないと。」「自分の夫が私に服従し始めるなら、その時私も夫に服従しようと思います。」

 

ですから、対等主義のエペソ5:21に従えば、男性と女性の役割に違いはないということになります。そして夫の側にも、特別なリーダーシップや権威はなく、そこにあるのはただ「相互恭順」ということになります。

 

回答1.

もしこの「相互恭順」というのが、「夫と妻が互いに愛し合い、互いの必要に関し配慮を示し合う」という意味で用いられているのなら、それは確かに聖書的な考えです。しかし、この聖句で説かれているのはそれではありません。

 

「相互恭順」と言う時、私たちはそれを異なる意味で用い得ます。結婚の中における夫の権威を無効にしないような意味合いでの「相互恭順」というのもあります。

 

もしも「相互恭順」というのが、相互に配慮を示し合い、互いの必要に心を配り、互いに思い遣りを示すという意味であるのなら(そして、そういった考えが夫に付与されている権威を無効にしないような用いられ方をしているのなら)、その場合、もちろん、そういった「相互恭順」は良いものであると私も同意します。また私たちはこういった考えを聖書の掟からも得ることができます。

 

ヨハネ13:34

「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」

ピリピ2:3-4

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

 

しかしながら、これからみなさんとご一緒に見ていく中で明らかになっていくと思いますが、そういった考えがここのエペソ5:21で説かれているというのはやはり疑わしいと言わなければなりません。

 

聖書はそういった事を説くべく、"being subject"(服従する)という語を用いてはいません。それに対等主義の人々は実際、「相互恭順」という語を非常に異なる意味合いで用いており、そして、しばし、この用語をもって、結婚の中における男性の権威を無効にしようとしていますので、この表現は人々を混乱へと導いていっています。

 

筆者注:南部バプテスト連盟〔Southern Baptist Convention〕が結婚と家庭についての信仰告白条項で議論をしていた当時、会場側から、この条項に「相互恭順」という一語を書き加えるよう動議がなされたそうです。

 起草委員の一人であり、CBMWのメンバーでもあるドロシー・パッターソンは、その動議に対して反対の意を表明し、これまでいかにして対等主義者たちがこの用語を使い、結婚における男性の権威を否定し去ろうとしてきたのかについて説明をしました。最終的に「相互恭順という語を書き加えるように」という動議は斥けられました。

 しかし、もしもあの時点で、「相互恭順」という語が南部バプテスト連盟の信仰告白条項に書き加えられていたとしたら、それによって条項は骨抜きにされ、結果として、〔ジェンダー・フェミニズム問題に関して〕どのような立場にいる人でもその条項に同意署名し得ることになっていたと考えられます。

 そしてそれにより、結婚において特別な男性の権威というのは存在しないということを事実上認める結果をもたらしていたことでしょう。*以上の出来事を私は自分の友人たちから聞きました。彼らは、1998年夏、南部バプテスト連盟内で条項についての議論がなされていたその現場に居合わせていた人々です。)

 

②に続きます。

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